おやつを食べて、夕ご飯も食べさせてもらって、知らないこの場所で、知らない大人たちには親切に良くしてもらった。
 何かが吹っ切れたのか、轟、と呼ばれている紅白髪の子はもう泣かなかった。それどころか、これまでより積極的に動いた。具体的には、俺の手の代わりのようにアレコレ世話を焼いた。
 おやつのときは俺の代わりにお菓子の包装紙を破いたり(口と手を使えば開けられるんだけど言う暇はなかった)、ご飯のときは「はい、おしょうゆ」と調味料の類を世話されたりと、そんな感じ。
 お風呂のときも、片腕ではどうしてももたつく服を脱ぐことを手伝ってきた。「ばんざいして」「…ん」もう抗うのも面倒だったから言われるまま両腕でばんざいすると、すぽん、と服を引っこ抜かれた。
 体を洗うときも、髪を洗うときも、轟は手伝いたがった。
 自分のことを後回しにして俺の世話を焼こうとするそのかいがいしいとも言える姿に、じわり、と心の中で何かが疼く。
 広くて大きいお風呂に大人たちと一緒に入って(子供だけで溺れるといけないから)、大人の一人、緑谷、という緑髪の人が説明してくれた今の状況についてを反芻する。
 俺と轟は本当は彼らと同じ年齢で、それが、個性の事故でこうなってしまった。
 この状態は一時的なもので、時間経過で自然と元に戻る以外に対処方法がない。
 つまるところ、俺と轟はこうして日常を過ごす以外、すべきこともやるべきこともないのだった。
 轟がその話をどのくらい理解しているのかは怪しいけど、ともかく、いつもと同じように過ごしていればそれで良い。

「さんじゅう、かぞえたら、でる?」

 こちらを窺ってくる轟に、そうだね、と返して目を閉じ、肩までお湯に浸かって三十秒。一から二人で数えていく。いーち、にーい。
 三十、数えた頃には体はぽかぽかで、大人たちがいると気後れしてしまう轟の手を引いて大きな浴場を出た。片腕でぞんざいに髪と体を拭って、片腕でもそもそと用意された着替えを着る。
 ぽたぽた雫がしたたるままでいたら、轟がタオルで髪をわしゃわしゃと拭いてくる。「……あのさ」「うん」「別に、世話を焼かなくてもいいよ。だいたい一人でできるから」「ぼくがやりたいからやってる」そう言われてしまうと俺に返す言葉はない。
 お風呂を出たら、歯磨きをして、歯磨きをしたら、今日はここで寝てね、と案内された布団の敷かれた畳の部屋。
 じわ、とまた胸のうちになんともいえない気持ちが生まれる。
 知らない感覚。なのに知っているという違和感。いや。既視感。
 これはなんだろうと考えながら、ここがトイレで、飲み物はここに置いておくから、という説明を一通り聞き、しゃがみ込んだ緑谷が「大丈夫そう?」と首を傾げる姿に一つ頷く。
 だぼっとした大きいTシャツを着た俺たちは、そういうふうにして畳の部屋に残された。
 大人ばかりだと轟が委縮するし、俺も、肩が凝る感じがするから、二人にしてもらえて助かった。
 部屋にある本はどれも難しかったから、緑谷が持ってきてくれた子供向けの絵本を持ち上げて示す。「読む?」「うん」最初の頃よりはここに慣れたんだろう、布団の上に転がった轟の横に座ってファンシーなオールマイトが描かれている本の表紙をめくる。
 難しい字のない本を朗読していると、隣から視線を感じた。「ねぇ」「うん」「ぼくが、まもってあげるからね」……脈絡のない言葉の意味がよくわからず眉根を寄せると、轟はいたって真剣な顔をしていた。

「おとなになったら、ぼくがまもってあげる。ぜんぶから」

 ……子供の言うことだ。片腕のない俺にマウント取った、心理的余裕からくる言葉。
 そんなふうに受け取った俺は大した感慨もなく「ありがとう」と表面上のお礼を言った、ら、右手を引っぱられた。それでなんでかキスされた。唇と唇をくっつけるだけの。
 真っ赤な顔をした相手は「ち、ちかいの、きす、ってやつ」言葉に詰まりながらそんなことを言う。
 はぁ、と曖昧に頷いた俺はなんとなく右手で自分の唇に触れた。ふにっとしている。

(キス。初めてしたな)

 一緒にお風呂に入ったし、同じものがついてたし、轟は男の子だと思うんだけど。それもわかってて誓いのキスなんて言ってみせたんだろうか。「えほん。つづき」照れ隠しなのか、ばしばし本を叩く手に肩を竦めて続きの文を読み上げていく。
 オールマイトがどんなふうにすごいのか、を実際の事件なんかを扱いながら紹介している、子供向けのオールマイト本。大人なのに、こんなものまで揃えている緑谷は相当オールマイト好きなんだと思う。
 オールマイトが解決した代表的な事件、他のプロヒーローからの言葉、最後に彼のプロフィールを読み上げていると、そのうち、隣から反応がなくなった。視線をずらすと枕に頬を預けて寝ている轟がいる。
 ぱたん、と本を閉じて、重たい布団を引っぱり上げて轟にかけてやって、自分も布団の中に入る。
 この状態を自覚したのが午後。
 今が夜。子供はもう寝る時間だ。
 一体いつになったら元の自分というものになるのか、なんて考えつつリモコンで部屋の電気を消し、枕元に置いて、枕に頭を預けて目を閉じた。
 病院のベッドで一人で眠ることに慣れている俺には、隣にある温度は見知らぬもののはずなのに、ちっともそんな気がしなかった。あって然るべき。そんな感覚。
 世話をされるのも、気遣う視線を寄越されるのも、あのキスも、別に嫌ではなかった。
 それがどうしてか、を、俺は朝に知ることになる。

「はぁなるほど。だから履くなってね……」

 翌朝。だぼだぼだったTシャツがちょうどよいサイズになっていて、急速に今を自覚した俺、は、隣で寝たままの焦凍に目を向けた。焦凍の方も個性が解けたんだろう、だぼだぼTシャツがちょうどよいサイズになってて、それ一枚だけであどけない顔で眠っている。
 なぜパンツやズボンがなくて、だぼだぼの服だったのか。俺たちが元に戻ったときに服が食い込まないようにするため、だ。
 さすがにパンツが欲しいな、と焦凍の箪笥をあさって借り受け、ズボンも適当に借りた。ちょっと丈が余るぞくそ。身長の差が足に出てる。
 服を着て落ち着いたら、畳に胡坐をかいて、寝ている焦凍の顔を見ながらこれまでのことを確認がてら振り返ってみた。
 まず、幼児化なんてしたのは、雄英に講演に来ていた人の個性が暴発したせい。それがたまたま俺と焦凍にヒット。幼児化。その人の個性で今の今まで何も知らない子供になっていた。
 個性が解けた今はというと、幼児化していたときのことも全部憶えている。
 どういう仕組みなのか知らないけど、個性なんてそんなものだ。ツッコミ始めたらキリがない。
 しかし、子供の焦凍はかわいかったなとぼんやり考えていると、その焦凍が薄目を開けた。ぱち、と目が合う。「おはよ」「おは……?」それで自分が元に戻っていると気付いた焦凍が起き上がって、どんな顔をするかと思ったけど、案外と普通というか、いつも通りの顔だった。「解けたのか」「そうだね。厄介な個性だった」「…事故、なんだろ。責められねぇ」「俺も、責めるつもりはないよ」平謝りしてたっていう、気弱そうな顔をしていた講演の先生を思い浮かべる。
 今回のことを責めるつもりはないけど、あのアがり症はどうにか克服した方がいいなぁ。今後も被害が出るといけないし。
 焦凍の分のパンツと適当なズボンを持っていくと、右手を取られた。「ん?」何、と首を捻ったら、強く腕を引かれて、畳に膝をつくと無言で抱き締められた。「焦凍?」戸惑いとともに名前を呼ぶと「」と耳元でイケボが囁く。幼少期との差よ。

「ガキになって、お前に会って、やっぱり思った。お前は俺の運命だ」
「え、何。改まって」
「雄英で出会ってなくたって、きっとどこかで出会って、俺はお前に惹かれてた」

 朝から随分と情熱的なことを言うイケボが耳にこそばゆい。
 そりゃあ、俺もお前に既視感的なものを抱いてたし、泣かせちゃいけないだとか、放っておいちゃいけないだとか、色々なことを感じたけどさ。それってたぶん今の俺たちが幼児化したせいの影響であって、本当にガキの俺たちがガキの頃に出会ってたとして、そんなふうに思っていたかな。
 そういえば、誓いのキスとか、されたんだっけ。
 肩を竦めて「ガキの俺、かわいくなかったろ」自分でも思ったことを言うと緩く頭を振られた。「あれがお前だよ」と。「ああいうお前だから放っとけないんだ」と。そう全肯定されるともうこそばゆいったらないんだけど……。
 パンツも履いてないTシャツ一枚の腰を指でなぞる。
 ガキだったときは何も思わなかったけど、今の俺たちは、互いの体に欲を抱く。かわいいことを言う焦凍にはなおのこと。
 その欲をぐっと呑み込んで、俺より逞しい体に手をついて離す。「緑谷来るよ。着替えな」「…ん」多少不満そうなものの、焦凍は大人しく着替えてくれた。
 昨晩まで幼児化していた俺たちが大丈夫かどうか、誰かが様子見に来るだろう。無事元に戻ったとはいえセックスしてるとこ見せるわけにもいかないから、今はガマン。ね。
 無事個性が解けたことを朝一番に相澤先生に報告し、と二人朝食に顔を出すと、クラスメイトにわっと囲まれた。「戻ったねぇ!」「おーおーイケメンに戻ってやがる」「、マセた子供だったな〜」「はは」苦笑いしたがぱちっと手を合わせて「ご迷惑おかけしました」と頭を下げるから、同じように軽く会釈しておく。
 別に、俺たちのせいで幼児化したわけではないんだが。迷惑というか、気遣いというか、をさせたのは事実だから。
 とくに、幼児化した俺たちに服や必要品を創造してくれた八百万、オールマイトグッズで和ませようとしたり人一倍気遣ってくれた緑谷には改めてお礼を言って、今日は和食の朝食をの分も持ってきてテーブルに置く。昨日はこんなことすら一人ではままならなかった。

「しっかしさ、二人ってガキになっても一緒にいるのな。幼馴染とかだっけ?」

 違うテーブルから声を投げてきた上鳴に、振り返ったが「違うよー」と声を投げ返す。「周囲が知らない人ばっかだったら、子供同士くっつくもんだよ」たぶん、と付け足しながら卵焼きをつついたが甘くないそれに僅かに顔を顰めた。甘いのが好きっていうのはもう知ってるけど、今日朝食当番だった奴は甘くない派だったんだろう。
 ………子供だった自分が感じたことは、今もまだ俺の中で鮮明な記憶として残っている。
 に手を握ってもらえて安心したのに、片腕がなくて表情もなくて、自分よりかわいそうな子供を見て、俺は最低なことを思った。ガキながらに相手を見下し、状況を見比べて一人安堵して、コイツよりマシだ、と思った。最低だ。顔の火傷も、両親の有無も、よりマシなんだと、安心した……。
 自分がきれいな人間だと思ってたわけじゃないが、子供心にそんなことを思ったということが少しショックだったし、に申し訳がないと思った。俺は同情からお前を好きになったんじゃないのに。
 本気で運命だと思っている。信じている。お前にこれだけ惹かれてどうしようもなく好きなのは、運命だと、そう呼ぶ以外に相応しいものはないのだと信じている。信じてる、けど。

「どした?」

 登校時、顔を覗き込んできたに束の間足が止まった。色素が薄いその顔をじっと眺めて、緩く頭を振る。

「ガキって、残酷だな」

 自分の感情を誤魔化しもせず思うし、その通りに行動する。そういうのって残酷だ。
 は苦く笑って前を向くと学校へと歩き出した。隣に並んでついていきながら、「そりゃあガキだし。そんなもんでしょ」と言う声を聞く。そうか。そんなもんか。
 はガキの俺の挙動をとくに気にしているようではなかった。いつもと同じ顔で「お前は俺の腕のこと、キモチワルイって思ってても口には出さなかったよ。自分も大変な方なのに、それくらいの、相手を気遣う分別はあった。それでいいんじゃないかな」それで今は義手をしてる左腕をぷらぷらさせる。「そんなもんか」「そんなもんだよ」さっきと同じような会話をしてるが、は飽きずに同じことを繰り返した。俺に言い聞かせるように。子供なんてそんなものだ、と。
 そうか。そんなもんか。
 じゃあ俺はこう繰り返そう。お前に伝わるように。
 義手の左手を取って触れるだけのキスをする。「お前は俺の運命だ」朝にも伝えたことをもう一度口にすると、俺の手から義手が逃げていった。「外でそういうことするなよ」と顰められた顔がほんの少しだけ照れている、というのは逃げた視線でわかる。

「どこで出会っても、俺はお前に惹かれてた」
「わかった。わかったから」

 ほら行くよ、と歩調を速めて校舎に入る背中を追いかける。「、俺は」「本気なのはわかってるから。そういうの部屋でして」照れてるんだろう、こっちを見もしないが、それで少し満足した。あとは帰ってからに取っておく。
 早く二人になりたいと思っているせいか、その日の授業時間はどこか緩慢にしか流れず、ヒーロー科の授業にも珍しく身が入らなかった。
 とにかく早く二人になりたくて、この想いの丈を伝えたくて、それだけで、胸がはち切れそうだった。
 授業が終わったらの手を掴んで飛ぶように寮の部屋に戻って、白い防音材に囲まれた部屋で、ひたすら愛を紡いだ。言葉で。体で。セックスしながらを口説いて、セックスのあとも口説き続けたら、「もーやめろって俺を照れ殺す気か」と赤い顔で怒られた。照れ殺す。そんな死因ないだろ。
 でもその顔が見たことのない種類のものだったから、また一つ新しいを知れたことで少し満たされた。「本当だぞ」それでも枕に頭を預けてしつこく繰り返す。愛を。「もーわかったから……なんで今日そんなしつこいの…」ぼやきながらTシャツを着ているを眺めて、そりゃあ、昨日ガキだったからだ、と思う。
 ガキの俺には無理だったけど、今の俺は愛を与えられる。
 親も左腕も感情も失くしていたお前にできる限りのものを与えてやりたい。金でも物でも体でも。それが俺の愛の一部だ。
 俺より細い体に腕を回して抱き寄せ、耳元で「愛してる」と囁く。
 しつこい俺に、は諦めたらしかった。
 抱き締めている腕に右手が置かれて、呆れたような顔をしながらも「俺も、愛してるよ」とぼやく声に胸がじんわりとあたたかくなる。
 俺の心の穴をお前が埋めたように、お前のない片腕になれていたらいいと思う。両親のようにお前を愛してやれていたらいいと思う。
 お前の愛に俺が救われているように、俺の愛にお前が救われていればいいと思う。

は俺の運命だ。ずっと、離れないでくれ」

 俺を離さないでくれ、という祈りを込めて細い体をきつく抱き締める。
 冬になる前は俺から一方的にお前に関係を迫るばかりだったけど、今はもう違う。俺の腕を撫でて「そっちこそ、今頃いらないって言ってももう遅いんだからな」離れないと言外に言っているに薄く笑って、滲んだ視界を細い背中に押し付けて誤魔化した。