夜中の三時。ベッドから抜け出そうとそろりと動いたらぐいっとスウェットを引っぱられた。驚いて顔を向けると、部屋の薄闇の中、紅白頭の焦凍が眠っていた。
 念のため確認にぷにっと頬をつつく。神経を接続して呼吸や脳の状態も調べる。…うん。ちゃんと寝てる。この手は無意識なんだろう。
 できるだけそっと指を外していき、まだ肌寒い春の夜だから、とその手をしっかり布団の中にしまう。
 夜のお茶に仕込んだ安定剤が効いてる。そうでなくても今日はさんざんセックスしたんだから、心も体も満たされてるはずだ。薬の効き目は効果抜群ってところか。

「よし」

 深夜三時過ぎ。仕事の時間だ。
 念のため、指紋が残らないよう両手に透明な手袋をする。
 この時間だ、誰も起きてないだろうとは思うけど、一応警戒しながら廊下に出て、壁に手をついて個性を展開。寮内に動く人の形が一つもないことを確かめてから、そろっとした足取りで、クラスメイトの部屋、そのドアの隙間に手紙を挟んでいく作業を開始する。
 誰からのものかといえば、緑谷からの手紙だ。
 一人一枚、便箋にびっしりと、ちゃんと個別の内容を書いている、その手紙を一枚ずつドアの隙間に挟んでいく。
 自分の部屋を覗いて男子・女子ともに何事もなく手紙の配布を終えて、共有スペースのソファにどっかり腰掛ける。
 ……あのあと。エンデヴァーとホークス、ベストジーニストが話し合ったあと、その日の夜にこっそりと呼び出しを受けた俺は、緑谷、オールマイトを含めたチームアップの話についてを聞いた。
 オール・フォー・ワン。そしてワン・フォー・オール。どちらについても俺はほぼ部外者だったけど、それでも俺を巻き込む気になったのは、1Aのクラスメイトの動向を気にしてのことらしい。
 とくに、爆豪は緑谷と幼馴染で、俺が教えられるより以前からワン・フォー・オールのことを知っている。手紙を見て、一人動くようなこともありうる。そうなれば『みんなを巻き込むまい』としている緑谷の行動にブレが生じるから、いち早く知らせてくれ、というのが俺の主な任務内容だ。
 もちろん、焦凍には話してない。
 話せば絶対エンデヴァーに突っかかりに行く。
 彼は今ヒーロー社会を背負って立つ者として忙しいし、大変な時期なんだ。余計な負担はかけたくない。エンデヴァーのことを考えるなら、俺は黙ってこの仕事をやるよりほかにない。

(でもなぁ。これは寂しいよ、緑谷)

 俺に当てた手紙を夜の薄闇の中に掲げる。『今までありがとう』から始まった別れの挨拶。オール・フォー・ワンと決着をつけるまでは雄英には戻らないという固い意志。
 仲間が大切だから、自分のせいで傷つけたくないから、離れる。それはあの戦いのときにも見せた気遣いだ。自分が狙われていると知った緑谷は忘れ物だと言って俺たちのもとから去って行った。
 緑谷の気持ちを考えるなら、素直に見送ってやるのがいいんだろう。
 でも、オール・フォー・ワン。奴の立場を考えるならどうだろう。
 ワン・フォー・オールを狙っている奴は、考え貶めることがウマイ相手だと聞いた。それなら緑谷がこうして行動することも想定内だろう。もしかしたらこの行動は思うツボかもしれない。
 ……最悪を想定して考えを巡らせることは得意なはずなのに、なんか、うまくいかないなぁ。

(焦凍を戦いに巻き込みたくない)

 ただでさえ荼毘…燈矢のことがある。再び立ち上がったエンデヴァーを会見を通して見てるはずだ。また仕掛けてくる。今度こそ、燈矢から言う『成功作』の焦凍を殺そうとするだろう。それは絶対に止めたい。
 考えることが多いこの状況の中で優先順位をつけるなら、一番は焦凍になる。
 それでもなお何か思いついたら言ってほしいというのがチームアップした三人の言葉だ。

「はぁー」

 深く息を吐いて、自分宛の手紙を四つ折りにたたんでポケットにしまい、携帯で『先輩』とだけ表示されるラインに『配布完了しました』とだけ報告。すぐに既読がついたが返事はない。それでいいと俺も知ってるから、携帯をポケットに滑り込ませ、全然眠くなかったから紅茶を淹れることにした。八百万がいい茶葉をいつも置いてくれてるのだ。
 沸かしたてのお湯を茶葉を淹れたポットに注ぎ、三分待って、これも八百万が用意したブランドもののカップにゆっくりと注いでミルクも投入。
 ………緑谷は、友達だ。良い奴だ。
 体育祭で焦凍のことを救った。変えた。
 だから俺は焦凍と出会ったし、焦凍とこういう関係にもなった。
 緑谷がいなければ今の俺たちはいなかった。
 そんな緑谷のためにできることがこれ。あいつが望むようにみんなを監視し欺くこと。「ふー」熱いカップに息を吹きかけ、やるせない気持ちも一緒に吹き飛べ、と思う。
 たっぷりの紅茶を時間をかけて飲み干し、カップやポットを洗って片付けていると、携帯が着信を知らせた。こんな時間に。相手は……またあの人か。
 深く息を吐いて、キレイにした手で携帯を取り上げて、たった今の着信履歴の『お兄さん』という登録名を眺める。
 この『お兄さん』っていうのは冬に最後に会ったときにもう連絡してこないでくれとお願いしたあのイケメンで、俺のお願い虚しく、春になってから……正しくは死柄木弔によるヒーローが失墜することになることになるあの戦いが起こってから、こうしてしつこく連絡してくるようになったのだ。時間帯に関わらず、メールと電話がとてもしつこい。
 もう三時半だぞ。普通なら寝てる時間帯。

「はぁ……」

 今しがた電話してきたんだ。今返したら起きてるだろう。
 焦凍はぐっすり寝てるし、ちょうどいい。
 これ以上電話やメールが重なるのは勘弁してほしいと思い、ソファに放置されているブランケットを羽織って外履きのサンダルをつっかけ、寮の外に出ながら電話をかけると、相手は2コールめで出た。
 慌てたように息切って『もしもし』と言う声に「しつこいです。何時だと思ってるんですか」最初からピシャッと告げると、相手は怯んだようにぐっと黙ってから『すまない』素直に謝罪してきた。……そうこられるとそれはそれで、邪険にしにくくなるなぁ。
 別に虐めたいわけじゃないから、一つ吐息してから「ご用件は?」と尋ねる。まぁわかってはいたけどこっちから言ってはあげない。

『……君がナーヴとしてテレビに出るようになってから、君のことで頭がいっぱいで。どうしてももう一度会いたくて』

 随分と素直な相手を思い浮かべて首を捻る。「はぁ」それってつまりさ。『こういうことは僕自身初めてで、なんとも言えないんだけど。きっと、僕は君のことが好きなんだと思う』まぁ、そういうことになるんだろうけど。さ。
 まだ肌寒い夜の暗闇の中、個性を使って雄英の敷地内を探査。校舎内に誰か一人、階段の踊り場で立ち止まっている人影を見つける。たぶんこの人だ。

「でもその『好き』は、俺が変わらず、陰気臭いガキのままだったら、なかった好きですよね。つまり夏の頃の俺みたいな」
『そう…だね』
「それってつまり、変わった俺を好きになった、というより、俺の外見が気に入ったんでしょう。自分で言うのもなんですがだいぶ変わりましたし」

 夜の中を引っかけたサンダルで歩きながら、薄い紫色になった前髪を撫でつける。焼けてからまだ伸びないな。「俺が長い黒髪の陰気臭いガキのままでも、同じことを思いましたか?」この人の好きはそういう好きだ。俺の中身なんて見ていない。
 だって、あなたは夏、俺に別れを告げたのだ。自分から。
 今頃ぐっすり眠っているだろう焦凍を思い浮かべる。左右で色の違う髪と両目。顔の左側にある火傷の痕。それがあってもイケメンだと言える端整で澄ました顔。

「俺には、俺がダメだった頃から、好きだって言ってくれる奴がいるんです。だから、あなたの気持ちには応えられない」

 これ以上はないだろうと思うきっぱりとした口調で告げると、電話の向こうで何か言おうとしていた相手は沈黙した。それからどうにか言葉を絞り出して『せめて、会いたい』と言うそのしつこさよ。
 こういう修羅場には慣れているのか、相手は取り乱すようなことはなかった。
 少し考えるような間のあと、例のイケメンはこう言ってくる。『確かに僕は、君の外見が好きなのかもしれない。でも、何も思わなかったら夏にそもそも君を相手にしていない』……それはまぁ。そうなのかもなぁ。あの頃はあの頃で、収入源だったあなたには感謝してるけど。

『それに、君、僕とのことは話してないんだろう? 援交していたってことも』
「…………そりゃあ」
『過去のこととはいえ、君は隠し事をしたままこの先も恋人に黙っているのかい? それは誠実じゃないんじゃないか。
 援交していたって事実を告げたら、相手の気持ちが変わるかもしれないだろう』

 ……つまり、この人はこう言うわけだ。
 焦凍に援交の事実を告げて、それでも焦凍の気持ちが変わらないなら、諦める。
 はぁー、と深く息を吐いてその場に蹲る。「……俺の恋人に会いたいわけですね? 会ってちゃんとフラれたい。そうじゃないと納得できない、と」『ああ』「………手がかかりますね。あなた」『そうだね。すまない』また素直に謝る。まったくもー…。
 仕方がないのでその話を了承し、部屋に戻ると、焦凍はぐっすり寝ていた。仕込んだ安定剤が効いてるんだろう。
 まだ怪我が完治していないせいでどこかざらりとしている皮膚を撫でて、平和な寝顔に一つキスをする。

(すげぇ怒るだろうし、すげぇ泣くんだろうけど。お前に言わなきゃならないことがある)

 誠実じゃない、って言われたのが実は結構刺さってて。確かにそのとおりだな、って。
 お前に隠し事はなるべくしたくないし、嘘もなるべく吐きたくない。
 だから、ちゃんと、言おう。それでお前が傷つくんだとしても。