緑谷からの手紙をドアに挟んだあの日から数日。
 なかなか決断ができずにまごついている間に日がたってしまった。
 焦凍に、クラスメイトのみんなに嘘をついている。欺いている。それを顔に出さず、俺は毎日いつもように過ごしている。
 こういうのは昔から得意だ。
 両親がいなくなって、図太くならないと生き残れなかった。思考を割り切らないといけなかった。それを、辛いと、甘える相手はいなかった。
 奏でられる四面楚歌。『片腕の役立たず』『親なし子』『貧乏な施設育ち』耳を貫く罵声に、蹲らないように拳を握り締めて、気に入らない、と現実を睨みつける毎日だった。
 いつ誰が俺って存在を揺るがせるともしれない。目に入る人や物はすべて敵で、心を許したことはなかった。
 騙される前に騙すし、欺かれる前に欺く。片腕がなくて人より不自由をすることが決定している自分が、少しでも優位に立つために。
 そういう毎日だったから。少し嘘をついて、少し欺くくらい、どうってことはない。
 昔からそんなこと日常だったろ。いつだって一人でやってきただろ。自分にそう言い聞かせても、緑谷を探そうと開かれる毎日の会議の場のソファは座り心地が悪かった。居心地が悪い、にも似ているのかもしれない。
 俺が挟み込んだあの手紙について、毎日誰かしらから苦い声が上がる。『緑谷、来てたならせめて直接さ……』『話がしたかったよね』『あいつの言いたいこともわかるけど』毎日設けられるその時間が少しずつ重みを増して俺にのしかかってくる。
 そんな毎日が、これで一週間になった。
 俺は何もしてない何も知らない。焦凍にもみんなにも神妙な表情を作って話を合わせる。そういうことに少し疲れてきた。
 これは緑谷のやりたいことをやれるようにという配慮で、トップスリーにも頼まれたことだ。俺はクラスメイトの動向を見守る役目もある。投げ出すことはできない……。

「はぁ」

 夜、寝付けなくて、焦凍が寝入ってからもしばらく眠ろうと努力したけど、諦めた。
 そっとベッドを抜け出してスウェットの上にカーディガンを羽織って、そろそろと移動して部屋を出る。
 俺の胸を埋めるこれは、罪悪感、なのだと思う。
 俺ってわりと繊細なんだなぁなんて自分を笑いながら共有スペースで紅茶(ノンカフェイン)にミルクをたっぷり淹れたものを飲んでると、眠れなかったのか、女子らしいパジャマ姿の八百万がやって来た。

「まぁ、こんばんわ」
「珍しいね。いつも早く寝るのに」
「なんだか目が冴えてしまって……」
「そっか。俺もだよ。
 飲む? ノンカフェインのやつ」

 ポットを揺らすとええと頷いたから、新しいカップに残りの紅茶を注いで差し出す。
 ひと昔前のノンカフェインは、マズいな、ってイメージだったけど。イマドキのノンカフェインはカフェイン入りと味に違いがない。こういうのがあると眠る前にも気軽に飲めて助かる。
 八百万は、髪を上げてるときとそうでないとき、結構雰囲気が違う系の女子だ。ついでに言うなら実家がお金持ち、胸もおっきい。
 そんな八百万と二人並んで、暗い共有スペースで紅茶をすする。
 何か、適当な話題でも思いつけばいいんだけど。日本の暗い現状や今を思うなんの言葉も出てこない。

「不安です」

 ぽつりとした独り言にも聞こえる声に、暗い窓の外に投げていた視線をずらす。「何が?」「ヒーロー社会の崩壊…。多くのダツゴクが街で暴れている現状。減っていくヒーロー……すべてですわ」視線を俯ける八百万の言いたいことはよくわかる。
 ただ、その不安を俺が拭うことはできない。俺はただのクラスメイトでしかない。
 なんて言おうかなと考えていると、シンクにカップを置いた八百万が、抱きついてきて、一瞬で頭が白くなった。おっぱいやわらか……じゃなくて。これは一体どういう。「不安なんです」押し付けられてる胸のやわらかさばっかりに意識がいってしまう。おのれ男の性め、状況を分析しないか。
 涙で潤んだ八百万がこっちを見上げている。美人な部類に入る女の子の顔が近づいてくる。
 このままじゃキスする。
 キスする、と思った瞬間、紅茶のカップを素早くシンクに置いて彼女の口を手のひらで塞いでいた。その行動力に自分でも驚いた。

(慰めてほしかったのかもしれないけど。その役目は俺以外にしてほしい。そうじゃないと焦凍に顔向けができないから)

 なんて、援交してた俺に言えることでもないかもしれないけどさ。
 なんとも言えない間ができてしまって「あ、えっと」とりあえず口を塞いでいた手を離したとき、男子寮のエレベーターの扉が開いた。
 まるで図ったようなタイミングで開いた扉の向こうに眠そうに目を擦っている紅白頭の焦凍がいて、キッチンで密着したままの俺と八百万を見て目をまんまるにする。
 マズい。マズい状況になったぞこれは。

「何、してんだ」

 渇いている、と思う喉で八百万の肩を押して密着状態を解く。「いや、えっと。事故だよ」ね、と八百万に同意を求めるものの、彼女は慰めなかった俺を怒ってるのか、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
 焦凍の右側に霜がおり、左側にぽつぽつと炎が灯る。「もう一回訊く。何してんだ」「えっとー」困ったぞ、八百万が反応してくれない。「紅茶を飲んでて、話をしてて、それで…その」なんでこうなったんだと訊かれると俺だってうまく答えられない。八百万が甘えてきたんだとしか。
 そのままブチ切れるかと思った焦凍だったけど、俺を睨みつけていた色の違う両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ぎょっとした俺を置いてくるりと背を向けてエレベーターで五階に戻ってしまう。
 傷つけた。人前で堪えきれないで泣いてしまうくらいには、傷つけた。

「ごめん八百万、俺焦凍と付き合ってるから! 応えられないッ!」

 行ってしまったエレベーターを待てずに階段へ直行、何も言わない八百万を置いて五階までを段飛ばしで駆け上がる。
 俺の部屋に焦凍の姿はなくて、和室の焦凍の自室の方に飛び込むと、なぜかヒーロースーツを着ていた。「焦凍、話を」「聞きたくねぇ」「誤解なんだ。さっきのは八百万が急に」「聞きたくねぇ!」叫んだ焦凍が窓を開ける。そのまま外へ出て行こうとする、その手を右手で掴む。…震えている手だった。傷ついて、どうしようもなく震えている手だった。
 振り払われることを承知で片腕で抱き締めて、なんとか窓から引き剥がす。

「どこ行くんだよ」
「緑谷、捜す。ここにいたくねぇ」
「ダメだよ危ないから。それと話聞いて。さっきのは誤解だから。傷つけたことは謝る。ごめん」

 とにかく謝った。焦凍を泣かせたのも傷つけたのも本当だったから、土下座してでも謝った。「この通りです、ごめんなさい。行かないで」「…………」俺の土下座に少しは効果があったようで、窓に手をかけていた焦凍の足がこっちを向いた。蹴られるかな、と思ったけどそんなことはなく、冷たい右手と熱い左手で頬を挟まれ顔を上げさせられる。
 泣きそうだな、と思う歪んだ表情をした焦凍が、「行ってほしくねぇか」と訊くから「うん」と答える。「じゃあ全部話せよ。それで許してやるから」焦凍がポケットから引っぱり出したのは例の手紙だ。俺がドアの隙間に挟んだやつ。
 はぁー、と深く息を吐いて目を閉じる。
 いつから気付いてたんだろう。うまく隠してるつもりでいたんだけど。焦凍、案外鋭いのかな。
 でも、援交のことは気付いてないみたいだし、俺も言ってないんだよな。そっちはそっちでちゃんと話さないとダメ。だよな。

「わかった、話す。話すから、行かないで」

 諦めとともに言葉を吐き出すと、パチン、と部屋の電気が点いた。俺でも焦凍でもない誰かが部屋のスイッチを押したのだ。
 振り返れば、八百万を始め、クラスメイトが扉の向こうに集合していた。「…え?」なんでいるんだ。っていうか八百万、なんで両手を合わせて「ごめんなさいさん」なんて言ってるんだ。
 クラスメイトの先頭に立っていた爆豪が真面目な顔して突き出したのは、緑谷からの手紙だ。「やっぱテメェの仕業か」「……え」思わず焦凍を見上げると、ぷいっと盛大に顔を逸らされた。
 うわぁ。謀られた。そうわかって思わず脱力する。
 なんだ。そっか。八百万、演技上手だな。焦凍も。すっかり騙されちゃったじゃん。……演技でよかった。
 やっぱり、と言ってみせたんだから、今回のことを仕組んだのは爆豪だろう。「もう焦凍とのことはバレてるんだ」「オセオンのときからバレバレだわ」「まぁ。そうだよね。わかってて指摘しないでくれてたんだろ。そこはありがとう」畳で正座してたところから立ち上がって、観念して右手を上げる。

「知ってることなら話すよ」

 ごめんなさいエンデヴァー、ホークス、ベストジーニスト。緑谷もオールマイトも、ごめん。
 好きな子の涙をいなせるほど、俺は大人じゃなかったよ。