が誰かに個性をかけられて、記憶がなくなった。
 半日が経過して、夜になったけど、がかけられた個性から生徒の特定を急いでいる先生方からの連絡はない。
 夕飯時、部屋から出てきたに自然と寄って行ってしまってから「なに」と冷たい声と半眼で言われてハッとする。今のは俺と飯を食う仲じゃない……。

「いや、なん、でもない」

 声を絞り出した俺に、一人でさっさと歩いて行ってしまうの背中がもう遠い。
 廊下に一人立ち尽くし、泣かないように唇を噛み締めて自分を律するので手いっぱいで、飯を食うどころじゃなくなってしまった。
 もうあまり使っていなかった畳の自室に引きこもり、こっそり泣いて、飯のことはもう諦めた。に素っ気なくされて一人で食わなきゃならないくらいなら食わない。
 だから夜、に最後に借りたあの本を読み返していて鳴ったノックの音には警戒した。のはずがないからだ。「俺だよ、砂藤」なんだ、砂藤か。
 鏡で目が腫れてないことを確認してから出ると、砂藤はタッパを手に持っていた。「ほら、お前の分の飯」「……わりぃ」別に腹は減ってなかったが、気を遣ってくれたろう砂藤の厚意を無下にもできずにタッパを受け取る。
 砂藤はのことを気にするように廊下の奥の部屋に視線を投げた。

「それにしたって、素っ気ないな。あんなだっけか」
「……そこまでしか記憶のないっていう、夏の頃は、俺も知らねぇ」
「そうか。辛いなぁ……あとで甘いもんも差し入れてやるから元気出せよ」

 別に辛くない。なんて嘘は返せず、黙って頷くと、砂藤は片手を挙げて自室に戻った。これから何か菓子を作るんだろう。
 タッパの飯を義務的に口に運んでもそもそと食って空にし、空にしたタッパを片付けに階下に行くと、風呂だったらしいとばったり鉢合わせた。「あ」思わず声に出してしまってから口を噤む。相手は明らかな半眼で俺のことを見ていたから。
 の隣をすり抜けて(石鹸のいいにおいがした)キッチンでタッパをキレイにし、ちらりと振り返って、その姿がなかったことに落胆した。
 ………まるで悪夢だ。
 に愛されなくなることを恐れていた。そんな現実が来たらどうしようかと思っていた。
 たとえば今みたいに記憶喪失とか、そんなことになって、が俺以外を愛したら? 愛されなくなったら? そんなことをいつからかずっと恐れていて、そんな恐れが現実になってしまって、俺はもうずっと息をできてない。
 油断したら泣きそうになる唇を引き結び、部屋に取って返して風呂の用意をして浴場に行って、珍しく一人だったから、頭から被った水で誤魔化しながら、こっそりと泣いた。
 愛されないことが辛くて仕方がなかった。
 愛なんて知らなかったのに、いらなかったのに、一度知ってしまったら甘くてしょうがないソレが欲しくて仕方がなかった。



 カラカラに渇いた喉で名前を呼んでも、応えてくれる声はないのだ。
 時間がたてばたつほど、が遠くなればなるほど、生きている実感が薄くなって、自分が透明になっていく。
 あるべきものがない。たった一人がいない。それだけで自分が穴だらけの欠落品になっていき、やがては全部が剥がれ落ちて透明になっていく錯覚。
 なんとか風呂をすませて畳の自室に戻って、そこで膝から崩れ落ちた。「……くそ」ぽたぽたと畳に落ちる雫を見つめて袖で擦るが、拭っても拭っても溢れてくる。
 菓子の差し入れにきた砂藤には泣き腫らしたみっともない顔で応対したが、察してくれたんだろう、何も訊かれなかった。ただ肩を叩かれ「甘いもん補給しとけ」と言われた。
 俺は砂藤じゃないから、甘い物食べてもエネルギーにはならないが…。
 焼き立てでふわふわしたシフォンケーキを一口食べると、うまーい、と隣で顔をふやけさせるが見えるようで、自然と口元が緩んだ。
 こんな状況なのにな。俺の中はいつもお前のことでいっぱいだ。

(個性をかけられてるだけなんだ。効果時間とか、条件とか、色々ある。そのうち解ける。絶対解ける。この時間はずっとは続かない。だから、頑張れ、俺)