1Aのクラスメイトが緑谷を捕捉し、今まさに脱獄ヴィランの手にかかるところだったのを救い出した、その日も雨だった。
 暗い空からゴロゴロと雷鳴の音がしている。
 ようやく見つけた緑谷はボロボロで、すり減ったのは、ヒーロースーツの見た目だけじゃない。
 本人の希望でもあったし、現実に、オールマイトすら振り切ってしまった緑谷に追いつける人が誰もいなかった。

(ホークスに羽が生えていたら緑谷の独断も止められていたかもしれないけど、できないことを言ってもしょうがない)

 精神的にも肉体的にも疲労した緑谷、彼の持つ個性ワン・フォー・オールの確保。
 死柄木弔という肉体の完成。
 この二つが今のところオール・フォー・ワンの目的と言えるもので、俺たちは当然、そのどちらも阻止しないとならない。
 みんなが言葉をかけても緑谷は「僕は、大丈夫だよ」としか言わない。汚れてボロボロになったヒーロースーツ姿で大丈夫としか言わない。そう言い続けていればなんとかなると、俺たちが諦めると信じているかのように。
 話に聞いていたとおり、緑谷は俺たちが知っている頃よりも個性を増やしていた。緑谷を中心に煙幕が形成されて雨で煙る視界をさらに悪くする。これは六代目の個性、だったかな。それを使ってこの場を去ろうとする緑谷をみんなが追う。
 そんな中、俺と焦凍は立ち止まってビルに突っ込んだ緑谷を見ている。
 左腕を伝う雨が少し冷たい。

「ひでぇ面だな」
「うん。まずお風呂入った方がいいなぁ。それからおいしいもの食べて、たくさん眠った方がいい」

 みんなが声をかけて、みんなが話をしに行く。それで緑谷の心が多少なりとも揺れて行動にブレや焦り、隙が生じる。
 焦凍が息を吐いて右手をぐっぱと動かす。「俺が足止めする。も一緒に押し上げるが、あの緑谷相手に五秒もつかはわからねぇ」「うん。俺も頑張るよ」この日のために発目に無理を言って新しいバックパックを開発してもらった。緑谷の意識を落としたら俺の意識も落ちるんだけど、その辺りは焦凍や誰かがカバーしてくれるだろう。
 みんなに追われてビルから飛び出してきた、泣きそうなのに泣けない顔をした緑谷を焦凍の穿天氷壁が絡め取る。うおー高い…。「なんだよその面。責任が、涙を許さねぇか」焦凍の言葉を聞きながらバックパックで緑谷のところまで降下、ボロボロの緑谷の頭にぽんと手を置く。焦凍の言葉の続きを引き取って「その責任、俺たちにも分けてよ」笑って言いながら神経を接続。緑谷のそれと同調開始。
 開始と同時にものすごい情報量が頭になだれ込んできた。
 一個人だけのものじゃない。緑谷が持ってるワン・フォー・オール……そこにいるという歴代の人の。顔が。浮かぶ。
 ワン・フォー・オールについて話は聞いてたけど。想定外だ。情報量が多すぎてこちらが圧倒される。俺の情報よりもあちらが優先される…。
 ばし、と俺の手を払いのけた緑谷の顔は、泣きそうで泣けない、迷子の子供みたいだった。

「緑谷の今の状態がAFOの狙いかもしれないし、お前が疲れてる隙に雄英を狙ってくる可能性もゼロじゃない。
 一人で駆けずり回って見つからなかったんだ、次善策も考えよう。俺たちも一緒に戦うから」
「……できないよ」

 焦凍の氷にバキとヒビが入る。
 覚悟を決めた緑谷に、一度手を貸した俺なんかの言葉は届かない。
 ダメ元でもう一度、と伸ばした俺の手は緑谷を掠りもしなかった。焦凍が強化した氷を突き破って脱出した緑谷は速い。
 提案しといてうまくいかなかったな、と思いながら氷に足をかけてずざざざと滑りながら地面まで降下、なんとか地に足をつけて着地。
 ワン・フォー・オールなんて個性、イレギュラー中のイレギュラーだ。想定できなかったことは残念だけど仕方がない。頭を切り替えよう。
 氷壁から降りてきた焦凍が「大丈夫か」と自然と肩を抱いてくるのを押し返す。「次も出番だろ、俺はいいから行きなさい」自分の力で立ち上がった俺に焦凍がぐっと唇を噛んでから駆け出す。
 降り続く雨で額にはりついた前髪をかき上げて目を眇める。
 俺の個性で緑谷を落とせれば、それが一番楽でよし。失敗したとして、次のプランがある。
 1Aのクラスメイトが力を合わせて逃亡を図る緑谷に追いつこうとするところから視線を外す。
 スピードには自信のない俺の出番はここまでだ。
 振り返れば、エンデヴァーが控えめな炎を出してそこに立っていた。「ディクテイターだ」焦凍が氷づけにしたダツゴクを切島が削り出したらしいのを指して「単独とも限らん。散会した脱ヒーロー派の民間人、彼らの安否確認もある。個性を使ってくれるか」「はい」望まれるまま、半径五百メートルの範囲に神経を接続する。
 範囲が広いから濡れた地面に手を当てて目を閉じ、細い糸のような情報に意識を集中させる。「………今のところ、異常はない、と思います」情報の総括を伝えると、「そうか。そのまましばし注意してくれ」と言われたので黙って頷く。
 意識を広く薄くしながらも、飯田が緑谷を捕まえて立ったことが分かって薄目を開ける。
 ほんと、手がかかる。こうって決めたら案外と突き進むんだよな、緑谷って。
 緑谷の確保という第一関門は突破。
 次は緑谷を連れての雄英への帰還。
 どちらかといえばこっちが難しい。何せ、今度は緑谷一人を説得すればいいんじゃなくて、民間人の集団という総意を納得させないとならない。
 俺は焦凍と一緒に雄英バリアの外に立って、聞こえてくるヒステリックな糾弾の声を聞いていた。
 焦凍は『轟』の人間で、荼毘のこともある。エンデヴァーもそうだけど、民間人をなるべく刺激しないように、中には入らないことに決めた。俺はそれに勝手についてるだけ。
 雨はまだ止まなくて、ポツポツと肩や髪を叩く。風邪引きそ。お風呂であったまりたい。

『その少年を雄英に入れないでくれ!』
『出ていってくれ!』
『雄英は安心と安全を保証するんじゃなかったのか!』

 言葉の剣。槍。心を鋭く抉る切っ先を首筋に添えられているだろう緑谷のことを思いながら、ちょっと熱いな、と思って額に手を当てる。少し緑谷の個性と情報戦をしただけのつもりだったけど、案外と消耗してる。状況を理解しておきたかったけど……個性、解こう。
 雄英バリアに背中を預けて座り込むと、隣にいた焦凍もしゃがんだ。紅白の髪から雫が落ちるのが、こう、色っぽい。「大丈夫か」「ちょっと。立ち眩み」俺のことになると心配がちな焦凍には多少無理してでも笑って返しておく。ちょっと休めばよくなるよ、と。
 ただでさえ厳しい目で見られているヒーローへの反感をこれ以上買わないため。そのために民衆の目につかない砦の外にいるわけだけど。雨が冷たいなぁ。
 隣で俺と同じく雄英バリアに寄り掛かった焦凍の顔にはりついてる前髪を払ってやると、おほん、とエンデヴァーの咳払い。
 おっと。親御さんがいたんだった。「俺もいるよーん」エンデヴァーの向こうからひょっこり顔を出すホークス。すっかり忘れてた。
 ぱっと手を離して一歩距離を取って離れた俺の気遣いを、一歩詰め寄って手を掴んできた焦凍が台無しにする。「風邪引かれたら困る」それで体の左側をホカホカあったかくしてぴったりくっついてくるのが。かわいいというか。でも親御さんの目が痛いというか。
 ぬくいなー、と微睡んでいる耳には麗日の声が聞こえている。一生懸命喋ってる。

『特別な力はあっても! 特別な人なんていません!』

 うん。俺もそう思う。

『泥に塗れるのはヒーローだけです! 泥を払う暇をください!』

 うん。しっかりご飯食べて、お風呂に入って、眠る。安心してそれができる。たったそれだけのことを求めて俺たちはここまでやってきた。

『緑谷出久は、力の責任を全うしようとしてるだけの、まだ学ぶ事が沢山ある、普通の高校生なんです!』

 ぺた、と額に当たったぬるい温度に目を開ける。「…大丈夫か」普通の高校生。十六歳。ちょっと、だいぶ重たい過去を背負ってる轟焦凍という人間がそこにいて、少し疲れた俺のことを眉尻を下げて案じている。
 ここを彼のヒーローアカデミアでいさせてください、と叫ぶ麗日の声が俺にまで突き刺さってきて、なんだか、泣きたくなってくる。
 結果としていうなら、民衆は彼を檀上で演じる『ヒーロー』としてではなく、一個人として、十六歳の少年として、受け入れた。
 それでも空は涙のような雨を流し続けている。

(ここからだ。オール・フォー・ワンはどう出るか)

 ぶっちゃけ、一度も相対したことのない相手の考えは読めない。話を聞いた限りじゃ一筋縄じゃいかないってことだけしか…。
 シリアスに沈もうとする思考を無理矢理持ち上げ、隣でホカホカとした体温で俺のことをあたためようと努力しているかわいい奴のことを考え、頭を解す。
 やって来たエクトプラズム先生に促されて雄英バリアの向こうにそっと顔を出してみれば、避難民に気遣われている十六歳のみんなの姿があった。
 ヒーローとしてではなく。一人の人間として。隣人として。
 世界が。人が。もう少しだけ、隣にあるもののことを考えられたなら。もう少しだけ、優しく在れたなら。それはたぶんきっとこういう光景だ。
 自然と緩んでいた口元を左手で隠して、焦凍の頭を右手でぽんぽんと叩くと、その手をしっかりと握り込まれる。
 お互いの指の一本一本を確かめ合うように、しっかりと絡めて、握り合う。

「俺、この世界のこと、けっこー好き」
「ん。俺も」

 オセオンのときにも思った。
 そして今、ヒーロー社会が壊れてしまったこの現在も。実のところ結構好きかも。なんてね。

(たぶん。そんなの。たとえ終わってしまった世界だとしても、お前がいたら、俺はそれでもういいんだろうけど)