俺が物心ついた頃のことだ。
 長いこと『魔王』と呼ばれる存在に搾取され続けた世界は、現れた勇者、オールマイトにより救われた。
 オールマイトは魔王を倒し、世界に平和をもたらした。
 世間ではそういうことになっている。

「はらへったなぁ……」

 だがしかし。そんなこと、ボロに丸まり路地裏に転がって眠るしかないような俺には関係のない話だった。
 魔王が封印された、だとか。オールマイトは姿を消したらしい、だとか。世界は平和になった、とか。そんなこと、背と腹がくっつきそうなこのすきっ腹には何も関係がない。
 汚い路地裏に一人寝転がったままでいると、目の前を鼠が駆けてきた。スンスン鼻を鳴らしながら俺の顔までやってくる。
 死体と間違われている、とわかってさすがにムカついた。鼠にまで舐められるとは。「うぜぇ」とぼやくと、俺がまだ生きてるとわかった灰色がサッと逃げていく。
 ああ、けど、このままじゃ、そのうち死ぬな。
 上の方。建物の屋根のところには鴉がいて、こっちに目を光らせている。
 アイツらも鼠も雑食だ。なんでも食べる。俺がもっと弱るのをじっとりと待っている。
 ろくでもない人生だったなぁ、と翼を広げた黒い鳥を見て思ったとき、こんな汚い路地裏を足早に歩く靴音が聞こえてきた。
 鼠、鴉に狙われてるのに、トドメを刺すみたいに急いだ音。
 追いはぎかな。もう服だってボロ布しか纏ってないのにな。これ以上惨めにさせないでくれよ、神様。
 栄養不足が過ぎておぼろげな視界の真ん中で、カツ、と物のいい靴が止まった。汚い路地裏にはふさわしくない、金の縁取りが眩しい青いブーツ。

「……?」

 死にかけてる人間がそんなに珍しいのか、そのまんま動こうとしないから、じろ、と睨み上げる。見世物じゃねぇっつうの。
 ブーツも良いものなら着てるもんも良いもの。パッと見て、どこかの領主の息子とか、そういう感じの身なりをした相手は特徴的な紅白色の髪を揺らしてしゃがみ込んだ。「生きてるか?」「………わるぃかよ」水も食べ物も足りてないからカスカスになってる声でなんとか言い返すと、相手は首を傾げた。それから腰に提げてるボトルを外して「水」とこっちに突き出してくる。
 何か入ってる可能性も考えたが、死にかけてる相手をわざわざ殺すような物好きにも見えない。
 力を振り絞って体を起こし、震える手でボトルの蓋を外して、こぼしながら中身を呷る。
 水だ。腐ってない水。ちゃんとしたきれいな水。久しぶりに飲んだ。
 空にしたボトルを転がすと、相手はそれを拾って元通り腰につけた。……こんな汚いガキが触れて飲んだもんなのに。菌持って帰るぞ。

「ここで何してんだ」
「……なにも。ころがってた」
「なんで」

 不思議そうにすら聞こえる響きで言われて、口から溜息のような長い吐息がこぼれた。
 なんなんだ、こいつ。「だから。しにかけてる」目も霞んできた。さっきからこっちを見てる相手の顔はぼやけていてよく見えない。「なんで」「……いえがない。めしがない。みずは、さっきもらった、けど」背中と腹がくっつきそうなくらい薄くなっているのをボロ布をまくって晒すと、相手は傾げていた首を戻した。

「お前、このままだと死ぬのか」
「……まぁ。たぶん」

 カァ、と頭上で鳴いた鴉は俺が死ぬのを今か今かと待っている。死体をつついて漁るために。
 相手の手が伸びて、汚い俺に触れる。汚れることなんて知らなさそうな手が汚い俺のことを撫でる。

「放っておいたら人生終わるんなら、俺が拾う。だから、ここからのお前の人生、俺のものだ」
「………は」

 何を馬鹿なことを言ってるのか、と思いながら、ただでさえ少ないエネルギーを動いて喋ったことで浪費したツケで目の前がぐらりと揺れた。横になって寝てるだけでもなんとか息をしてたのに、もう、意地張って起きてることもできやしない。
 前のめりに倒れたから、頭ぶつけるな、いてぇだろうなと思いながら目を閉じて衝撃に備えると、ぼす、とやわらかい音と感触。
 目を開ければ、紅白頭の相手が俺のことを抱き止め、担ぎ上げたところだった。こんな汚いガキを。
 なんて物好きなんだ、と思いながら、もう目を開けてることも億劫で、意識がどんどんと遠くなる………。
 次に目を開けたとき、どこか知らない建物の中、木目の天井が見えた。「………ぁ?」掠れた声をこぼした俺に、ベッド脇で紙束に目を通していた紅白頭が顔を上げる。栄養不足が過ぎる俺の視界はまだおぼろげで、その顔はよくわからない。

「起きたか。ぐあいどうだ。治癒術をかけさせたから少しマシだと思うが」
「ち、ゆ。じゅつ」
「ああ。飯、食うだろ」
「め、し……?」
「風呂は起きてからがいいだろうと思って、とりあえず拭っておいた。着替えもまだ適当だ」

 手を伸ばすと、自分の腕を肌触りのいい白い布が滑り落ちた。
 肌。すっげぇきったなかったのに、マシになってる。それに、体、確かに少し動く。
 ベッド、に眠っているということに気付いて寝転がってみる。やわらかい。布団。枕。全部ちゃんとしてる。俺の人生にはまったく関係がなかった寝具に、きれいな服……。
 紅白頭の相手がチリンチリンとベルを鳴らすと、ドアをノックしたあと誰かが入ってきた。「飯だ。頼んでおいたものを」「はい」頭を下げた相手がすぐに部屋を出ていく。
 なんとか起き上がって、減りすぎて痛い腹を抱えて枕を背もたれにして胡坐をかいて座る。ベッドぶわんぶわん。座りにくい。贅沢。
 見える限り、手とか足とか、きったなかったろうに、見られるくらいにはキレイになってる。

「……ものずき」
「ああ。そうだな」
「かねは、ないよ。わたせるもんも、ない」
「言ったろ。お前の人生は俺のものだ。俺のものを綺麗にするのは俺の自由だ」
「………こんなきたないガキのじんせーでよければ、どーぞ、ごじゆうに」

 少なくとも、あのまま鼠と鴉に食い散らかされるよりは、人らしい死に方ができそうだし。
 それで、さっきの誰かが銀のトレイを手に戻って来た。ホカホカと湯気を立てる何かの入った食器を渡され、生まれて初めてのスプーンをグーで握って、熱そうな何かをすくって食べてみる。
 口に入れたら熱すぎて死ぬかと思ったけど、それ以上に、死ぬほどうまかった。
 腐ってない。ちゃんとした味。
 ずっと何も食ってない胃にも優しいようにほとんどスープみたいな、豆、みたいな何かの入った、なんの料理かもわからないもんを夢中になってはふはふと食う。うまい。熱い。うまい。熱い。
 水が欲しいな、と思ったところに憶えのあるボトルが差し出される。「水も飲め」視線を上げていくと紅白頭の、顔の左側に何かの痕がある面を拝めた。
 生きるためにと体が最低限の生命ラインを維持。視界すら制限されてたけど、目に回せるくらいのエネルギーは確保できたってことだろう。
 俺を拾った物好きのことをじっと見てみる。
 痕はあるけど。世の女なら噂しそうな美貌なんじゃないだろうか。
 ボトルを掴んで蓋を取って水を流し込み、はふはふと熱い食べ物を胃に押し込み、また水を飲む。「名前はあるのか」降って来た声に肩を竦める。「そんな、りっぱなもの。ない」記憶を遡る限り孤児だ。兄弟はいないし親も知らない。そんな奴に名前なんてない。
 相手は考えるように顎に手を当てる。「じゃあ、俺が考えとく」どーぞ。物好きさん。

「あんたの、なまえは」
「轟焦凍」
「トドロキ、さま?」
「名前で呼べ。様もいらない」

 何も知らないガキを侍らせたいのかとも思ったけど、そういう王様をしたいわけでもないらしい。つくづく、変わった奴だ。

「しょーと」

 呼んでみると、なんだかしっくりきた。そりゃあトドロキなんて難しい言葉より呼びやすいけど。そういうのとはまた違う。ような。
 相手はきょとんと不思議そうな顔をしたあと、花、が咲いたみたいな笑い方をした。ふわっとした、嬉しそうなやつ。
 はて。なんでそんな表現が思い浮かぶんだろうか。長いこと人の顔なんて拝む生活してなかったのに。

「名前、決めた。だ」
「はぁ。……」

 、ね。俺の名前。憶えなきゃ。……でもなんか、しっくりくるなぁ。なんでだろう。