その日はいつも通り、焦凍の書類仕事を片付けるのを手伝って、散歩がてら町を歩いて、変わったことはなかったか、焦凍が町の人に話を聞く。
 俺はみんなから好かれていないから(浮浪者だったくせに領主の息子に拾われて、贅沢な暮らししやがって、って妬まれてる感じ)一歩距離を取ったところから焦凍のことを見てるだけ。
 潮風が運んでくる生臭さが、今までとは感じ方が違うのが、いつまでたっても慣れない。
 この臭いは、道端に転がってるだけの自分がいずれなる腐った臭いだった。
 なるべく廃棄物を出さないよう工夫している町民だから、海産物の町なのにゴミは思ってるより少なくて、そのことに鼠や鴉はいつも不満そうだ。だからあの頃、痩せっぽちで肉のない俺のことだって狙ってたわけだし。

『ハラガヘッタ』

 ふと意識に割って入った声に顔を上げる。「……?」まるで耳元で囁かれたみたいに近い声だったけど、振り返っても誰もいない。いや、俺なんかに寄って来る物好きが焦凍以外にいるわけないんだけど。
 なんだろう。なんか、嫌な感じがする。
 孫が熱を出してしまって、どうしても氷がほしいと懇願しているばーさんに右手で氷を恵んであげてる焦凍から少し離れ、町の出入り口、扉が見える位置までいって目を凝らす。
 焦凍の前では使ったことはなかったのに、俺が魔法が使えるって、なんでか知ってたな。なんでだろう。

「朝の陽射し(用途指定)」

 目に見えている景色を拡大する、という魔法の用途を指定。「宵の闇(出力固定)」力を使う場所を目に固定、意識を集中させて、視覚だけを強化する。
 拡大した景色に見えたのは、角。緑の肌。一つ目。
 異形。数は三。
 跳ね橋の上を、歩いてる。今から上げたんじゃ間に合わない。
 見張りは何してる、と扉の脇に目をやれば、外を見やることもなく仲間とだべっている。仕事しろよ馬鹿野郎。
 ここから扉まで距離がある。走ってたんじゃ間に合わない。「朝の陽射し、宵の闇っ」地面に手をつけて神経を走らせ、目的の扉に接続。ドン、と閉めて鉄の錠をかければ、横で喋ってた見張り二人が驚いていた。勝手に扉が閉まって鍵がかかったように見えたろうから当然だろう。

「し、ぉと」

 急に物を動かしてしまった。しばらくそういうことには使ってなかったから、神経の切り替えがうまくできない。膝をついてうなだれたまま立ち上がることもできない。「し、」焦凍、と呼ぶ舌が回らない。
 ようやくばーさんに解放された焦凍が俺を抱き寄せて困惑した顔をする。一体どうしたんだ、と。「?」「そ、そ、とに。マモノ」瞬間、焦凍の表情が強張った。「おい。まさか力」「かげん、した。から。いって。すぐ」ドン、とすごい音がここまで響いた。俺が硬く閉ざした、丈夫な木で組み上げた扉が外から叩かれる音だ。

『ハラガヘッタ』

 また。耳元で声がする。うるさい。
 焦凍が唇を噛んで立ち上がる。「ここにいろ」言うなり右の氷の魔法を使って滑るようにその場を駆け出し、ドン、とすごい音のする扉の向こうへ、氷の道を作って飛び出していく。
 その日までマモノのマの字もなかった大陸の端の田舎町は、その日初めてマモノに襲撃された。
 町の中に入る前に俺が防いで、焦凍と自警団が倒したとはいえ。入り口の見張りがサボっていたことで、跳ね上げ橋式という贅沢な防御も、堀も、真価を発揮できなかった。
 この辺りのことは焦凍が魔法で分からせたから(自警団が使える魔法の確認もしながら一人一人コテンパンにしたらしい)今後はこんなことは起こらないはず。ということだ。

「も、だいじょうぶ、だよ」
「全然大丈夫じゃねぇ。熱、下がってねぇ」
「う……」

 部屋に担ぎ込まれてワンピースに一枚にされ、ベッドに寝かせられてからというもの、焦凍はずっと俺についている。とても心配そうな顔で俺の額に右手を添えて冷やしてくれている。氷枕は贅沢で気持ちいし、これがあれば大丈夫なのに。仕事、溜まってるのに。
 こうして本気で心配してるって顔をされると、愛されているんだなぁ、なんて思う。
 同時に、なんで俺なんかを愛してくれるのかなぁ、とも思う。汚い路地裏に転がってた汚いガキを、汚いだけだったガキを、どうしてここまで愛してくれるのかな……。
 気が付いたら意識が落ちてたようで、薄目を開けると、ぼんやりした木目の天井が見えた。
 頭、少しマシになってる。氷枕が効いたかな。
 のろりと起き上がると、額から濡れたタオルが落ちた。拾いながら、書机で突っ伏すように寝ている焦凍を見つける。…俺が寝付いてから、少しでも仕事を片付けようとしたんだろう。あんな姿勢じゃ体痛くするし、風邪を引く。
 のろのろとベッドを下りて、揺り椅子の上でたたまれてる毛布を広げて焦凍の背中にかけてやって、左右で色の違う髪をさらさらと撫でる。「ありがとう」俺のこと、看病してくれて。……愛してくれて。
 俺は自分を大事にするような生き方はしてこれなかったし、今もまだ、大切にされることに戸惑ってばかりだけど。
 お前が俺のことを大事にしてくれるなら。俺も、もうちょっと、自分のことを大事にできるように、お前のこと悲しませないように、頑張るよ。
 マモノの件から一週間で、焦凍は轟の領地、自分の本拠地へ戻ることを決めた。
 町民は焦凍という魔法の使える実力者がいなくなることを不安がったけど、外壁を石作りにしたり、跳ね上げ橋を作ったり、町のためにできることはしてきた。お金も使ってきた。

「すまないが、しばらく留守にする。頼むぞお前たち」

 焦凍が睨みやれば、先日魔法の格の違いを見せつけられコテンパンにされた自警団の若者が畏まって頭を下げていた。
 そもそもこの町は誰が治めていたのかというと、自治、だ。
 大陸の端っこ、海産物しかない田舎町までわざわざお金をかけてくれる領主はいなかった。だから焦凍が来る前に戻るのだといえばその通りだけど、圧政を敷くでもなかった焦凍は歓迎されていたと思う。俺という浮浪者を拾ったという一点を除けば。そこだけはヒソヒソされてたかな、物好きだって。
 でも、なんとなく。もうあの場所には帰らないんだろうなぁなんて予感がしている。
 俺も別に、思い入れがあるわけでもなし。汚い路地裏に転がっているしかない、子供を助けることもしない町なんて、どうだっていいけど。
 パカパカ、焦凍の白い馬に揺られながら、メイド三人と荷物を乗せた荷馬車、最後尾を護衛する従者の人を先導して先を行く。
 あの町がどうなるのかは別にどうでもいいけど。今帰ることを決めた理由は気になる。

「なんで帰ろうってなったの? 田舎は飽きたとか」
「ちげぇ。魔王。トドメを刺さないとならない」

 その言葉に、どうしてかはわからないけど、背筋がひやりとした。
 魔王。俺にはまったく関係のない、御伽噺の中の存在。それが急に頭上に降って来た。
 この目で異形のマモノを見たとあって、魔王って言葉に、前より重みや存在感を感じる。

「オールマイトが倒したんじゃ……」
「弱らせただけだ。十年大人しかったが、力が戻りつつあるんだろう。そうじゃなきゃマモノがここまで活気づくわけがない」

 お兄さんも言ってたな。そういう噂がある、って。「じゃあ、またオールマイトに頼れば……」「十年たってんだぞ。あの人だって年を食ってる。同じようにとはいかない」「あ」それもそうか。当たり前の話、か。
 当時、全盛期だったオールマイトという勇者が魔王の力を削いだなら。今また、全盛期である誰かが、魔王の力を削いで、トドメを刺さないといけない、か。
 でも、それが焦凍である必要はあるんだろうか、と牧歌的な田舎道からチラリと視線を投げると目が合った。
 焦凍は確かに強い。氷と炎、二つの魔法が使えて、剣もできる。親父さんに叩き込まれたとかで体捌きだってお手の物だ。町の自警団は誰も焦凍に敵わなかった。
 でも、いかに焦凍とはいえ、一人で魔王の軍団に立ち向かうのは無謀じゃないか。
 俺の考えは顔に出てたのか、焦凍はやわらかく笑うと片手で俺の頬を撫でた。手袋越しの体温。そのまま流れるように後ろから抱き締められて、鞍の上でちょっと固まる。メイドや御者の人が見ててもお構いなし……。

「一人でなんて行かない。魔王が復活したら困るのはみんな同じだ。目的が同じ仲間を集う」
「ああ。うん。なるほど」

 それは、そうか。そういう志の人が集まるのなら、魔王を倒すことも不可能ではない、のかもしれない。
 そして、仲間を集めるのなら。大陸の端っこの田舎町は向いてない。
 どちらにしてももう少し街へ行く必要があるんだろう。それが轟の領地だって話。

「……俺は、留守番?」

 俺の魔法は役に立たないものだ。頑張れば周囲の探索とかできるけど、物を動かしたりすれば反動で熱が出たりして足を引っ張ることになる。
 かといって、焦凍みたいに剣ができるわけでもないし、他にこれといって特技もない。魔王を倒す旅のメンバーには役不足だ。
 焦凍が旅に出てる間俺はどうなるんだろう、と色々な可能性を考えていると、頬にキスされた。
 人目なんて気にしないっていうか、気にしなさすぎ……なんてマイペース…。「一緒に行くに決まってるだろ」「でも」「俺の世話係ってことにする。城に戻ったら一通り憶えてもらうから、頑張れ」「え。あ。うん」ぢゅ、とほっぺを吸われてこしょぐったい。うまいもんでもないだろうに。

(っていうか城? 城って言った? お城住まいなのか。さすが領主の息子)

 あのお屋敷だって充分だと感じてたのに、さらにすごいものが待ってそうだ。今から覚悟しておこう……。