高校を卒業して、プロヒーローになって、そうしたら、お前を轟にしたい。
 とんでもない告白をされた翌日。轟が拇印を押して持ってきた誓約書なるものを受け取るわけにはいかないと突っぱねたが、部屋を覆っている防音材の壁に接着剤で貼り付けられてしまい、無慈悲かな、剥がすこともできず、一枚の紙は俺の部屋で異様な存在感を保ったまま現在に至る。

(ウソだろ…)

 法的な効力はないただの紙だ。それはわかってる。ただ、そんなものを作って拇印を押してまで自分の本気ってヤツを俺に認めさせたいらしい轟に、何も感じない、わけはない。
 文化祭は終わった。イベントごとは終わったんだ。いよいよ実技の方も始まるヒーロー科の授業に今まで以上に本腰を入れなきゃならないのはわかってるのに、目に入る壁に拇印つきの書類があるとどうにも落ち着かない。
 冗談だろと流すこともできなかったあの真剣な顔を思い出すと、なんか、顔あっつ。
 よし、勉強しよう。勉強。今日わからなかったところの復習と明日の予習。俺は頭よくないんだ、物量こなしていくしかない。
 気持ちを切り替えるためにローテーブルの前で教科書を広げてみたものの、お前がいいんだからと囁く声が聞こえた気がして右手で耳を覆う。

「ああ、も〜〜〜」

 ぜんっぜん集中できないわ馬鹿! 轟の、馬鹿野郎!
 叫びたいのを堪えていると、その轟が涼しい顔して当たり前のように部屋に入ってくる。鍵はかけてたけど合鍵を盗られてるから意味なし。「なんだ、その百面相」今日のおやつは上等そうな海老せんべいだ。一枚一枚に乾燥海老が入ってる。贅沢だ。「主にお前のせいだよ」右手をべちっと顔に当ててむにむにっと揉んでからいつもの顔を心掛け、轟が滞在することが普通になりつつある自室で、買ってもらった電気ポットにボトルの水を入れてスイッチをオンにする。
 俺は日本茶の淹れ方とかよくわかんないけど、轟は家が和風なんだとかで、一通り揃えた茶器で淹れてくれるのだ。
 差し出される湯飲みを受け取ってずずっとすする。熱い。でもせんべいとの相性がサイキョー。いいせんべいってうまいなぁ。
 パリパリせんべいを食べながら、今日の授業でピンとこなかった部分を轟に教えてもらい、明日の予習をしながら教科書と睨めっこを続ける。
 轟は頭の出来がいいから、俺が復習と予習をしてるとたいてい先に終える。
 最初こそせんべいをかじりながら俺のことを見てたけど、暇になったのか、今日は俺を後ろから抱き締めながらテレビを見始めるという所業に出た。

(……集中できん。ぜんっぜんできん)

 これまでの俺の人生は、楽な道へ、義務的に生きていく、平坦で薄っぺらなものだったのに。轟に会ってからそんなつまらない俺はどんどん殺されていく。
 ゆるりゆるりと幸福に首を絞められて、不幸に浸かっていた俺が死んでいく。
 死んだ俺の背中を食い破って現れる新しい俺は、轟に殺される度、不幸だった自分を踏み台にして、頭上で光るあたたかさへと少しずつ近づいて、両親が沈む赤い水溜まりの底から遠ざかる。

「髪切れよ。金は出すから」
「なんで」
「ヒーロー科、続けるんだろ。ヒーロー目指して頑張るんだろ」
「まぁ、今のところはそのつもり」
「ヒーローするのに、髪がこのまんまってのは格好がつかねぇと思う」

 自分で切ることで美容院代を浮かせてきた、だからこそざっくばらんで手入れの行き届いてない俺の黒髪をつまんだかと思えば唇を寄せてキスしてみせる轟に開いた口が塞がらない。ホストかお前は。
 でも、髪は。まぁ確かに。本当にヒーローになれるかは別として、ヒーロー科の一員としてこれからメディアに出てしまう可能性は十分にあるわけで……そのとき、ヒーロースーツが上出来でも、髪がこれだと格好つかない。か。
 口をへの字に曲げた俺は体重をかけて轟に寄り掛かった。当然のように抱き留められるのが気に入らない。
 ついでとばかりにキスされて、がっちり抱擁されている俺は舌を出すキスに応えるしかない。
 次の日、ネットで検索した適当な美容院を予約して外出届けを提出。週末に混み合う店を訪れて「似合う髪型にしてください」と言ったところ、ナチュラルマッシュウルフなる髪型にされた。
 俺には良し悪しは全然わかんないけど、長くてざらざらしていた髪がなくなったわけで、これはこれでサッパリした。
 轟にもらった金で会計し、ついでに買い物もし、届け出た時間内に雄英の敷地内に走り込む。エクトプラズム先生の前を走り抜けると「セーフ」判定をもらった。間に合ってよかった…。
 しかし落ち着かないなぁとスースーする首をさすりながら寮に戻ると、切島に遭遇した。「お、サッパリしたじゃん」声をかけてきた切島に片手を挙げて「変じゃない?」と前髪をいじるとぐっと親指を立てて「前は髪邪魔そうだったもんな。今はスッキリでいいと思うぜ」と返された。それは似合ってるのか似合ってないのかどっちだ。
 ビニール袋をがさがさ言わせながら階段で五階に上がって自室に戻る。
 今日は、轟は仮免の補講でいない。夜までは一人だ。

「ふぅ」

 コーラを胃に流し込んで、白い防音材に貼りつけられた誓約書をぼんやり眺める。
 あそこには『浮気しない』だとか『俺の嫌がることはしない』だとか、甘ったるくて吐くかと思う誓約が轟の字で書き連ねられている。

(俺がいいとか。馬鹿だなぁ。轟は本当に馬鹿だなぁ)

 ぽた、と落ちた雫に気付いて自分の目元に触れてみると、ぬるい温度の雫がついた。
 どうやら俺は泣いてるらしい。
 ………あんなに全力で俺のことを肯定してくる存在を、最初は疑って、次に利用して、その次に甘えて。それでどうする。轟に寄り掛かってこの先も生きていくのか。それでいいというアイツを利用して、甘えて、生きていくのか。それは本当にアイツのためになるのか。俺のためになるのか?
 俺がどうすべきなのかは明白なのに、轟の真剣な顔を思い出すと、あいつの気持ちを切って捨てることができない。
 轟焦凍はエンデヴァーの息子で、個性も文句なく強くてイケメンという将来有望なヒーローの卵だ。美しく生まれて美しく咲く大輪の花。約束された輝かしい未来があって、それを望んでいるたくさんの人々がいる轟焦凍という人間。その未来に拭いがたい泥を塗るのが俺だ。
 轟だけが俺を必要だって言う。あいつだけが本気でまっすぐな気持ちをぶつけてくる。

(おかげで俺は、お前の未来のために、お前を突っぱねることが、できないままだよ)

 このまま俺と一緒にいることがお前のためになるとは思えないのに、突き離せない。あの涼しいすました顔で少しだけ唇を緩めてと俺のことを呼ぶ声を払いのけられない……。
 だってさ。本気のお前を建前で突っぱねるなんて、失礼だろ。
 グルグル考えていると熱くなってきた。考えすぎて変な熱でも出そうだ。
 顔でも洗ってサッパリしようと洗面所に行って「うわ」と驚く。鏡の中に映っているのが俺だと思えなかったからだ。
 しげしげと鏡の自分と見つめ合って、そう出来損ないの顔をしてるわけでもないんだな、と思う。今まで自分にすら関心が薄かった…というか、ない左腕に意識のほとんどがいってて、それ以外にはいってなかった。かも。
 これで髪を染めたら、結構イケてる部類になるのでは?
 背丈はどのくらいあるんだろうとふと気になって周囲を見回していると、ちょうどいいところに緑谷がやってきた。歯磨きらしい。「あれ、くん、髪切ったんだ」「ん。これどう? 変じゃない?」「いいと思うよ。おでこ出してるのと出してないのだと、雰囲気違うね」「そー?」そういえば、いつもは前髪が長くて鬱陶しいからと上げてばかりだったっけ。今は視界にかからないし邪魔じゃないから上げてないけど。
 歯磨きを始めた緑谷と並んで立ってみる。俺のがちょっとだけ高い、かな。「緑谷って身長いくつ?」「僕は、166」俺は轟より低くて緑谷よりちょっとだけ背が高い、と。
 顔を洗ってさっぱりしてから部屋に戻り、気持ちを切り替える。
 今週の授業内容を復習し、轟が置いて行ったせんべいをかじりつつ左腕の改造案についてをまとめ、個性特訓の自主練もして、夕食食べて、お風呂に入って。部屋で日課のストレッチをしていると、ノックなしに扉が開いた。「お」今日も補講で生傷を作ってきた紅白頭のイケメンが俺を見て目を丸くする。
 …なんだよ。お前が切ってこいって言うから切ったのに、その反応。

「変ならそう言えよ」
「いや。変じゃない。すげぇ新鮮だ。触っていいか」

 抱き締められて、そのついでという感じで髪をわしゃっとされる。「今の方が好きだ。かわいい」「か…っ」耳元でのイケメンボイスに絶句する俺。
 男に向かってなんてこと言うんだお前は。かわいいって。

(ここはハッキリさせておかなければ)

 俺はお前とキスとかしちゃってるわけだけど、あくまでキスで止まってるし、それ以上があるとして、男を捨てるつもりはないぞ。
 俺より逞しい胸に腕を突っぱねてなんとか体を離し、「俺はネコにはなんないから」と宣言すると、轟は首を傾げた。「猫? は人間だろ」「あー…そういうイミじゃないかな……」「じゃあどういう意味だ」ぐいぐいくる轟から顔を逸らす俺である。先走って墓穴掘った感がすごいぞ。「いや、だから。お、つきあいをする場合の上とか下とかそういう話……」ぼそぼそっとこぼした俺に轟がさらに首を捻っていく。
 マズいな。すっごい、墓穴掘ったじゃん?

「付き合ってくれるのか。俺と」

 逃げる分顔を寄せてくる轟から逃げきれない。イケメンが近い。面が良い。イケメンの暴力。「い、や、今のは言葉のあやで………だいたい、俺と付き合ってどうするんだ」「キス以外もしてぇ」男子らしくズバッと欲求をぶつけてくる轟からものすごく逃げたい。
 お前、知らないんだろ。男同士はセックスどうするとかさ。受けは準備したり痛いのとか違和感慣れたりって大変なんだぞ。簡単に言うなよ。「俺は受けはしない」「受け? ってなんだ」「だぁから、女役ってコト!」初な轟に指を突きつけると、なんだそんなことか、とばかりに普通の顔で指を舐められた。そのまましゃぶられて背筋がぞわっとする。

「俺がやる。お前になら抱かれてもいい」

 轟の口から出るとは思ってなかった言葉の羅列に思考が追い付かない。
 そんな俺は隙だらけだったんだろう。気付けばキスされて、舐められて、至近距離に色の違う瞳がある。
 、と呼ぶ声がどこか掠れて「抱いてくれ」と言う、声に、思考がフツフツと沸騰を始める。凍り付いていたのが徐々に溶けて、これが現実だ、ということを受け入れ始める。
 1Aきってのイケメンが、誰かを抱くんじゃなくて、抱かれる、とか。誰が想像しただろう。

「お前、知らないだろ。痛かったり、違和感すごかったり、するんだぞ」
「そうか。頑張る」

 さらっとしてるなぁ。気合いだけで乗り切れるほど甘いもんじゃないぞ…。
 しかし、かく言う俺も男子高校生である。誓約書まで書いて俺を轟に迎え入れたいと言う、受けでいいからセックスしたいと言う相手を蹴飛ばせるほど鉄の理性ではできていないのである。
 これは確実に轟の汚点になる。いつかの未来、顔を覆ってわーわー喚いてなかったことにしたい過去になる。

(なるのに、なぁ)

 『セックスに興味がないのか』と言われれば俺の答えはNOだし、相手が男でも、轟は美人だからまぁいいんじゃないかという気持ちになってしまう。し。
 セックス、していいならしてみたい、というのが健全なる男子たる俺の正直なところだった。
 汚してもいいなら汚したい、なんて、俺も男なんだな。そんなことを思いつつ頬を摺り寄せてくる轟に「後悔するなよ」とぼやくと頷いて返される始末。
 でも今はダメだ。なんでって、色々ないから。コンドームなんて部屋にないし。男同士の場合、調べることもしないといけないし。

「今はダメ。今度」
「…今度っていつだよ」
「用意するもんがあるの。一通り揃えてから」

 轟は不満そうにしていたものの、ちゅっちゅとリップ音を鳴らしてついばむキスをして甘やかすとすぐに機嫌を直した。轟はこういうところ扱いやすくて助かる…。