優しかった母がいなくなって、縋る人がいなくなって脆くなった心に父が容赦なく叩きつけた拳。
 粉々に砕け散った心は光の粒として暗闇に転がっている。
 しゃがみ込んで手を伸ばし、散らばってしまった心の破片を集める。母と見たオールマイトのテレビ。このときはまだ厳しくはなかった父と、母で、幼稚園の入学式。
 拾い集めるうちに、これまでの想い出を映していた破片は力尽きたように色を失くしていった。
 途端にそれは無価値なものになってしまって、俺は集めていた破片を放り出した。
 かつて確かに在ったはずの想い出は錆付き、色褪せて、もう見れたものではなかった。
 俺の胸は空っぽで、埋めてくれていたかつての想い出はもう使えなくて、代わりに詰めるものも思いつかない。
 別に空っぽのままでも困らないかと一人納得し、クソ親父への恨みつらみだけで胸も体も満たそうと黒い泥に自ら足を浸して、

「轟」

 呼ばれて、目が覚めた。
 何度か瞬きしてぼんやりした視界を彷徨わせると、夕暮れ時の教室だった。そこで通学鞄を揺らしている一人の男子生徒がいる。「もう下校時刻」「………ああ」呻くように返事をして、机に突っ伏して寝ていたところから起き上がる。
 あまりにも授業が退屈なもんで、寝てたのか。俺。
 寄るな、触るな、喋りかけるな。そういうのを全面に押し出してクラスメイトを遠ざけている俺に唯一普通に接してくるは、今日もなんてことのない話題を口にする。「はー進路どうしようかなぁ」もう二年も終わりだってのに決めてないらしい。
 別に答えてやる義理もないし、ポケットに手を突っ込んだまま黙って歩いて下駄箱まで行く。「轟はどうすんの?」懲りずに話しかけてくる相手に一瞥くれてから「雄英」「ゆーえい」「……ヒーローの学校だよ」ぼやいて、下駄箱から靴を落とす。一緒に何か手紙が落ちてきたが気付かないフリで踏みつけて無視すると、が「こらこら」と言って踏んでひしゃげた手紙を拾い上げた。「これ、ラブレターだよ」「へぇ」「どれちょっと中身を拝借…」勝手に開封して紙片を斜め読みしたがげっと呻いて携帯で時刻を確認した。

「この子、体育館裏で待ってるって」
「興味ねぇ」
「いや話だけでも……」
「興味ねぇ」

 校舎を出ると、はラブレター片手に何か悩んでたものの、「俺ちょっと行ってくる!」と体育館に向けて走って行った。
 ……物好きな奴だな、と思う。
 お前へのラブレターじゃねぇし、俺は放っとくって決めてんのに、相手の女子のこと考えてわざわざ断りに行ってるわけだろ。馬鹿じゃねぇの。お前に得は何もないのに。
 足を止めずにそのまま歩いて最寄り駅に向かっていると、途中で「おーい轟〜まって〜〜」と情けない声が追いかけてきた。
 仕方ないから足を止めて肩越しに振り返ってやると、体育が得意ってわけでもないがふらふらしながら走って来ていた。「かわいい子だったよぉ」それで興味のない報告をしてくる。
 隣に並ぶまで待ってやって、肩で息をしているを無感動に眺める。「それ、お前に得あったか」「ないね。全然、ないね。走ってつかれた」「馬鹿だろ」「ふん、馬鹿だよ。どうせ」多少は息を整えたらしいと並んで駅の改札を抜ける。
 俺とコイツは別に親しいわけじゃない。ただ、住んでる場所が近所ってだけの付き合いだ。ただそれだけの接点でこういう関係が続いている。

「話を戻すんだけどさー。俺はさー、どうしよ。進路……」
「馬鹿だからな。どうしようもないだろ」
「ぐうういつもトップの成績にいる奴の言葉は痛い……」

 電車が来るまでの間の、くだらない、いつもの会話。
 の向こうから射し込む斜陽の眩しさに目を細めて、眩しいな、と思う。
 コイツは本当に馬鹿なのに、それなのに、俺にはない色で溢れている。
 自分で言うのもなんだが、俺は成績も悪くないし、親父に叩き込まれているから運動神経も悪くない。ヒーロー科を推薦で受けれるくらいにはなんでもできる。できないことなんてない。その能力で親父に思い知らせてやる。そのためだけに雄英に行く。
 俺はなんでもできるはずなのに、道は一本で、踏み外したら奈落の黒い泥の中だ。
 そこに落ちたら二度と這い上がることはできないというのは直感でわかっている。
 いつもそうだ。俺は一本道を走っている。なんでもできるなんて嘘だ。俺にはこの道を走ることしかできない。
 対して、成績も運動神経も良くないは進路のことを心配しながらもどこかへらへらとした顔だ。
 俺の道は真っ暗で。底なしの泥に囲まれている。
 対してお前の道は、今見てるように明るい。馬鹿のくせにな。……少しだけ羨ましいよ。本当に、少しだけ。
 そんならしくないことを考えていたせいだろうか。気が緩んでいた俺の背後に誰かが立ったことに数舜遅れて気がついた。
 俺はエンデヴァーの息子だ。ヒーローエンデヴァーへの恨みつらみで狙われることは多々ある。今まで正当防衛でそれを弾き返してきたが、今回は対応が遅れた。
 振り返った視界で逆さになった瓶。こぼれる液体。それがろくでもないものだろうことは想像に難くない。
 ち、と舌打ちして右の氷を使うより早く、俺に触れたが個性を使用した。自分と相手の場所を交換するという、ただそれだけの個性を使って、俺が被るはずだった液体はの右肩から腕にばちゃりと音を立ててかかった。
 瞬間、じゅわじゅわと嫌な音を立てて服を溶かし、皮膚を溶かしていく。
 上がった悲鳴はのものでも俺のものでもなく、周囲の学生のものだった。

「っ、」

 右手をかざして不審者を氷漬けにし、冷やした手で傷に触れようとして制された。冷や汗で白い顔をしながら「さわ、ちゃ、だめだ」細い声に言われてじゃあどうすればいいんだと束の間放心し、緑色の液体がじゅわじゅわと音を立てて肉の表面を溶かしているのを見つめる。

(落ち着け。ヒーローになるんだろ。救急車。あと警察、を、呼べ)

 ポケットから取り出した携帯を持つ手が震えて、簡単な番号すら打てない。
 なんとか救急車と警察を呼べたが、その間もの腕は見るも無残なことになっていて、液体のかかった場所はまるで刺青みたいに消えない傷になってしまっていた。
 不審者はやってきた警察が逮捕。救急車で病院に搬送されたはすぐに集中治療室で治療を施された。
 制服を溶かし、皮膚の表面を溶かした液体は個性由来のものだったが、結果的にいえば液体に触れた皮膚が火傷を負っただけですんだ。
 騒ぎの翌日。念のため、細かい検査で数日入院することになったは元気そうだった。「うわ、メロン」姉さんに持たせられたカゴのフルーツを置くと嬉しそうにすらした。
 ………火傷。
 場所は違うとはいえ、右肩から腕にかけて火傷を負ったの日常がこれから不便になるだろうことは察するまでもない。俺もそうだったから。
 枕元にあるパイプ椅子に腰かけて、今日学校でずっと考えていたことを口にする。「なんで庇った」低い声を絞り出すと、相手は首を捻った。とても不思議そうに。

「轟にはもうあるじゃん。火傷。これ以上いらないだろ」

 ………意味がわからなかった。
 俺の顔の左側には確かに幼い頃に負った火傷がある。これ以上火傷が欲しいかと言われたらいらないと言うに決まってる。けどそれはイコールでお前が火傷を負えばいいってことにはならない。「……金が欲しいのか」エンデヴァーの息子を不審者から庇って負傷した。そう訴えれば親父は金を出すだろうし。
 は眉間に皺を作って俺の額を左手で小突いた。「そういうのいらない。俺たち友達だろ」「…………ともだち?」それで呆けたのは俺の方だった。
 優しくしたことは一度だってない。いつも突き放してきたし、それでもコイツがしつこく俺に構ってきただけ。
 確かに家は近所で、なし崩し的に登下校を一緒にしてたが、友達、だった、つもりはなかった。

(ともだち。ともだち? 友達って、なんだ)

 友達っていうのは、怪我を庇うもんなのか。無視しようとした告白を代わりに返事しに行くような馬鹿な奴のことを言うのか。
 友達、って、なんだ。いたことがないからわからない。
 言葉が出てこない俺に、はまた首を捻った。「あ、でもちょっとアレかな。違うかな。だって下心があるから」「は?」友達に下心ってなんだ。意味がわからねぇ。わからねぇことだらけだ。

「こういう形で言うつもりはなかったんだけど……」

 内緒話でもするみたいに顔を寄せてきたが「轟のことが好き」と言う、その言葉が、重りみたいにゴトンと音を立てて俺の空っぽの胸の中に落ちた。空っぽだった心が少しだけ埋まった。
 好き、という言葉と吐息が耳を撫でた瞬間ぞわりと全身が粟立った。拒絶ではなく、狂喜、で。

『轟のことが好き』

 その言葉は暗い心の中でぽかぽかとしたあたたかさを提供し、真っ暗な一本道の一つの灯りとなった。
 胸の空虚に慣れていたはずの俺の心は途端にそのあたたかさに群れ、集い、もっと欲しい、もっとあたたかさを、もっと灯りを、と叫んだ。空っぽの胸にたった一つ言葉が落ちてきたくらいで、俺の長年の孤独は簡単に破られて、体と心は温もりを求めて泣き叫んだ。
 やけに細っこいの腰に腕を回して抱き寄せ、細い肩に顎を乗せる。そうするとなぜだか涙がこぼれた。人の体温に触れたのなんてどのくらい久しぶりなんだ。「轟?」と戸惑った声が胸に落ちて、俺の心はその言葉に群れて集って喰らう。あたたかさを。灯りを。
 胸の空虚を埋める方法がようやく見つかったと、俺は歓喜していた。狂喜していた。他の全部が霞んで見えなくなるくらい。

「付き合うか」
「え、いいの? っていうか轟は俺のこと好きなの……?」
「わからねぇ。だから確かめる」
「そりゃ、俺はそれでも嬉しいから、お付き合いしてほしいですが」

 じゃあ決まりだな、とぼやいて少し切れてる唇にキスすると驚かれた。かさついた唇だった。リップクリームがいるな。「は、はやくない…?」「何が」「ほら、まずは手を繋ぐとか……順番的な?」そんなもの知ったことじゃない。したいと思ったことをする。渇望する心が満たされるように。
 の言葉が降ってくる度に心の穴が少しずつ埋まる。
 の体温と感触を知る度に空虚さに灯りが灯る。
 それはとても心地の良い感覚で、今まで頑なに心を閉ざしていた自分が馬鹿だなと思った。