今日も本の虫になってる幼馴染が陣取ってる図書館の端っこのスペースに、今日の復習と明日の予習を兼ねた教科書を持って向かい側に座ると、ちら、と視線を投げられた。黒い墨みたいな艶のある瞳。

「他、空いてるよ」

 ガランとした図書館のスペースを指す素っ気ない声に「別にいいだろ、ここでも」俺も素っ気ない声を返しながら、さっそく今日の教科の復習のために教科書を並べていく。
 本の虫になっている幼馴染は、ほんっとうに本が好きで、本しか好きなものがないってくらいに本ばかりを読んでいる変わり者だ。
 そのくせ、左の目元に涙ホクロがあって、色白できれいな顔をしてて、睫毛が長くて、女子顔負けのさらりとした黒髪を無造作に背中に流している。
 放っておくと女子が寄って来るし、もっと悪いと男子も寄って来るから、虫よけとして俺が向かい側に陣取るようになったのは、中学からだっけ。

「面白いか、それ」
「まぁまぁかな」

 ぺら、と紙の本をめくる指は白くて細長い。まるで女子のものみたいだ。
 なんとなくその指が紙のページをめくるのを眺めながら、特別復習なんて必要ない教科書の斜め読みをする。
 なんでそんなに本ばかり読むのか、と、いつかに訊いたことがある。
 すると相手はこう答えた。本の中の世界の方がきれいだから、と。
 たぶんそれは、幼馴染なりの、現実逃避の方法の一つなのだろうと思う。
 幼馴染は本を読んで、俺は今日の復習を終えたら明日の予習に入って。しばらくそういう静かな時間を過ごして、幼馴染が唐突にぱたんと本を閉じた。それで俯けていた顔を上げてさらりと揺れた髪を耳にかけて、小綺麗な顔して言うことは、「轟。お腹減った」「……はぁ」これでもかってくらい本を読んでるくせに、情緒とか、そういうのないのかこいつには。
 当たり前だが、本を汚す可能性があるから、図書館は飲食は禁止だ。
 仕方なく教科書を鞄にしまい、本を小脇に抱えて歩き出している幼馴染を追いかける。「なんか持ってるのか」「んーん」「クッキーならあるぞ」鞄から小袋を取り出した俺にぱっと顔を上げた、その表情が眩しくて目を細める。「食べる」「ん」図書館を出たすぐ外で、制服のまんま芝生に座り込み、ぼりぼりとクッキーを頬張る姿を眺める。
 身長もあって、ジムに通わされてるとかで意外と肩幅とか筋肉もついてて、誰が見たって整っている幼馴染は、俺と同じで、家庭にがんじがらめにされている。
 俺はヒーロー科に来るという目的があってここに通うことを選んだが、こいつは違う。親に強制された。経営科に押し込まれ、卒業したら家業を手伝うという敷かれたレールの上を諦めたように歩いている。

「それ」
「ん?」
「俺が作った」
「んん? んー」

 ただ口に押し込むだけだったクッキーをしげしげと眺めた相手が、それまで胃に入ればいいという食べ方をしていたのをやめて、味わうようにゆっくり食べ始めた。それが地味に恥ずかしい。
 いや、言わなきゃわからないことを伝えた自分もなかなかに意味が分からない。
 口癖みたいに『本が読みたい』『お腹減った』って言うから、俺が常に何かの文庫本と何かの食べ物を持ち歩いてるってことを、こいつは知らないんだろう。おまけに今日はそれが手作りだ。言わなきゃわからなかった。伝わらなかった。……なのになんで言っちまったんだ、俺。
 自分の言動に自分で戸惑い、口元を手で隠していると、ふっと唇を緩めて笑った相手が俺の手を指した。「轟はさ、照れるとそうするよね。隠す」「……うるせ」わかってんのに指摘するとか性格悪いぞお前。
 笑った相手の顔はとにかくきれいだ。身長がなくてジムで鍛えてなきゃ女だって言っても通るくらい。

「おいしいよ」
「………ん」
「次は違う味がいいな。ジンジャーとか、メープルとか、はちみつとか。チョコ練り込むとか」

 ぱき、とクッキーを割った相手の手が伸びて俺の前で止まる。「…、」口を覆っていた手をどけて、細い指から餌付けされるみたいに自分で作ったクッキーを食べる。
 何度だって味見した。焦がさないように作るのにものすごく練習した。だからそのクッキーの味はそれなりだが、ずっと同じ味は、確かに飽きる。甘いだけで、メリハリがないっていうか。次は姉さんに言って違う味を教えてもらおう。
 幼馴染が親に敷かれたレールの上を大人しく走っているのには訳がある。
 その個性が、ほとんど無個性だと言ってもいいくらいに役に立たないものなのだ。

『散歩しよ』

 夏休みももう終わりだなというその日に来た一言のラインに、夏休みの宿題が終わったかとか、登校の準備とか、寮生活の準備とか、そういったことの確認作業をすべて放り出して財布と携帯だけ掴んで轟家の外へと飛び出す。
 幼馴染との待ち合わせ場所はいつも決まっていた。公園だ。
 夏、夕暮れとはいえまだ陽は高い公園の入り口で、本片手に視線を落としている小綺麗な顔を見つけて息を整えて近づいていく。「」「ん」ぱたん、と本を閉じた相手が俺を見ずに公園内へと入っていく、その背中を追いかけて隣に並ぶ。
 そんな幼馴染の周囲に緑の光を点滅させる虫が寄って来る。
 蛍だ。今じゃそれなりに田舎へ行かなきゃ見られないっていうのに、幼馴染は蛍を引き寄せることができる。それが幼馴染の個性だ。夏の限られた季節にしか見られない、あとは無個性と変わらない個性。だからは親が敷いたレールの上を外れることなく歩いている。そこから外れてまで生きる方法も、生きる目的も、ないから。

「災難だったね。合宿」
「ああ……まぁ。な」

 なんの話かと思えば、夏休み、ヴィラン連合に襲撃されたあの話をされて、俺は口を噤んだ。そのことはあまり触れないようにとも言われてるし。
 幼馴染は墨のような艶で濡れた瞳で俺のことを眺めて、細くて長い指を伸ばして、触れる前にぱたりと落とした。

「俺、雄英からいなくなるから」
「は?」
「交換留学生、っていうのかな。しばらくアメリカに行くよ」
「は? なん…っ」

 うまいこと言葉が出てこない俺から視線を外した相手は、どこも見ていないようだった。

「ヒーローを育成する名門校、それが雄英だった。セキュリティだってバッチリ。しかもオールマイトが教師に就任。だからウチの親だってOKしたんだ。それが、これだろ」

 夏休み、ヒーロー科の合宿が襲撃されて負傷者が出て、生徒である爆豪が攫われ。オールマイト率いるプロヒーローが総出で救出に向かい、ヴィランの親玉とされる奴はタルタロスにぶち込むことに成功したが、それは、長く日本を支え続けていたオールマイトというヒーローを道連れにしていった。
 ヴィラン連合と名乗る連中は今もどこかで身を潜めている。機会を窺っている。「日本は、オールマイトがいたし、安全な方だったけど。それも今となっては」幼馴染がベンチに腰掛け、長い足を汲んで文庫本を広げた。英語の本だった。「ウチの会社、ニューヨークに支社があるんだ。学校にも行くんだけど、ほとんど、会社の手伝いかな。まぁ英語はできないことはないし、将来のためと思えば」一人喋り続けているその手から文庫本を取り上げる。
 さっきから。一人で押しつけるみたいに喋りやがって。俺のことは無視か。

「それでいいのか、お前」
「………そう言われても。こんな大したことない個性の俺には、親の敷いたレールの上を走るのがお似合いだろ」

 白くて細い指が伸びて斜陽に照らされ、そこに蛍が集まっては止まる。ただそれだけ。夏になったら蛍を引き寄せてしまう、ただそれだけの個性。
 だけど俺はそれを、ずっと、

「きれいだって思ってた」

 拳を握り締めて文庫本をベンチに叩きつける。
 お前が大したことないって笑うその個性は、確かに、力はないし、夏にしか形にならないし、たったそれだけの個性、なのかもしれない。
 だけど俺には。夏の夜、祭りの日、蛍の緑の光の中で食べたかき氷とか、チョコバナナとか、焼きそばとか、好きだったんだ。
 いつもきれいなお前が、緑の仄かな光に照らされていつもよりきれいに笑う。その顔が好きだったんだ。

「俺は、お前が大したことないって笑う個性のこと、好きだった」

 お前の個性が。
 違う。お前のことが。好きだった。

(ああ、もっと早くに伝えていればよかったんだ。そうしたら結果はきっと違っていた)

 凪いだ瞳で俺を眺めた幼馴染が本を拾って立ち上がる。「話、それだけだから。じゃあ。元気で」拳を握って顔を俯ける俺の横をすり抜ける黒い髪からは香水のいい香りがした。上品な男の香りが。
 こんなの。前まで。しなかった。
 知らない。こんな、俺は知らない。

「ね、轟。好きとか、きれいとかだけじゃ、生きていけないんだよ」
「……っ」
「人生がそれだけ甘かったらよかったのにね。お前がくれるクッキーみたいに、控えめな甘さで、俺の腹も人生も満たしてくれたら、よかったのに」

 今までそれとなく周囲を牽制し、それとなく俺のものだと示し、それとなく守って来た幼馴染。
 だけど、とっくに、そんな必要はなくなっていて。俺の知らないうちに相手はどんどん大人の世界へと浸っていく。
 これはただの俺のエゴだった。
 世界の五か所くらいに会社を持ってて、その一人息子で、敷かれたレールの上を走る人生しかなくて。そこから抜け出せるだけの個性もなくて。
 いつか、一度だけ、お前がそのことを嘆いて泣いたことをまだ憶えている。

「俺が! 炎を使って飛ぶから! お前を、連れてっ!」

 叫ぶように口にして振り返ったときには、幼馴染の姿はもうそこにはなかった。ただ、さっきまでそこにいたんだと示すように蛍がチカチカと緑の光をこぼしながらどこかへと散らばっていく。

(ああ)

 もう、遅すぎたんだ。
 想っているだけなら迷惑じゃないだろうって、お前のためになることならきっといいだろうって、貴重な時間を、浪費した。
 気持ちを伝え損なった。
 ぐっと唇を噛んでベンチに座り込み、背中を丸めて蹲る。
 きっと既読はつかないだろうとわかっていながら携帯のラインに縋って『好きだ』と卑怯な言葉を送ったが、一日たっても、二日たっても、三日たっても、既読の文字がつくことはなかった。
 そして、夏休みが終わり、寮生活が始まるとなった新しいその日。
 俺の幼馴染は交換留学生という形で雄英を去り、日本の携帯も解約したようで、ライン相手は存在しないことになっていて、携帯に電話しても使用されていない番号だと絶望的な通告をされた。

(俺は)

 敷かれたレールの上を走る、あいつを止めるために、その手を握るのが。遅すぎたのだ。行くなと伝える、たったそれだけを叫ぶことができなかった。
 蛍みたいに消えてしまった幼馴染を思って部屋で一人蹲り、その日はただ泣いて過ごした。
 ……あの仄かな緑の夜。いつかの夏休み。まだ将来のことなんて深く考えなくてよかった、俺の火傷のことを嗤わなかった、心配しなかった、同情しなかった、そんなお前がただきれいに微笑んで差し出したかき氷は、おいしかったな。ただの氷、シロップの味しかしないもんなのに。
 あの日に戻れたら。
 あの懐かしい夏の日に。
 お互いだけを想っていられた日々に、戻れたなら、よかったのに。