俺が思うに、轟焦凍というのは危うく美しいバランスで成り立っている人間だ。 左右で髪と瞳の色が違うこともあることもそうだし、その体の大半を絶望や憎しみといった暗い感情で満たし、それでも『今に見ていろ』という挑戦者の目を忘れない、カッコイイ奴。 そんな轟の近所に住んでいるというラッキーな立ち位置だった俺は、それを利用して幼馴染っぽく登下校してみたり、何度も話しかけてみたりして、憧れの存在の近くで生きるという贅沢を享受していた。 端的に言うなら、俺は轟に惚れていたのだろう。 どこにどう、というか、その生き様に。 だから、その轟を俺の目の前で害そうとした男から憧れを守るのは当然の行動で、躊躇いの一つもなかった。自分と相手の立ち位置を交換するという世にも使えない自分の個性にこのときばかりは感謝したりもした。 そんで火傷を負うことにはなっちゃったけど、考えようによっちゃこれも轟とお揃いなわけで、痛みとともにうふふと笑顔がこぼれたりもしたわけで。 でもさ。まさか、ちょっと流れで告白しちゃって、しかもOKされるなんて、いくら馬鹿な俺でも思うわけないじゃないですか。きっと呆れたような蔑んだような顔で一瞥されるんだろうなぁって思ってたのにさ。 まさか。まさか、三日の入院期間中、轟が毎日見舞いに来てくれて、ちょっと丸っこくてきれいな字のノートを見せてくれるとか、思うわけないじゃないですか。もう夢みたいだよ。 「おおお……ッ」 俺は頭が悪いから、轟の字で書いてあることの半分も理解はできなかったけど、轟のノートを見せてもらっているという事実に感動していた。「見てるだけでわかんのか」「や、全然」「だろうな」吐息した轟が通学鞄から教科書を引っぱり出して「今日はここをやった」と説明してくれる。 ベッドの横にパイプ椅子をくっつけて、展開したテーブルに教科書とノートを載せて、顔を寄せ合って授業内容の確認をするとか。まるでカップルみたいなことをしているなぁなんて考えて、ああそうか付き合ってたんだった、と一人ツッコミ。 そんな感じで、それはもう幸せな入院期間を過ごし、まだヒリつく右肩から腕には塗り薬をもらって退院。また一週間後に来院する予約を取って、ボストンバッグ一個の荷物を左肩に引っかけて外に出ると、轟がいた。「ん」差し出される手は荷物を持つって言ってるらしい。 片腕が塞がると今は不便だから、ありがたくその手にバッグをパスする。 「腕、大丈夫か」 「ちょっとヒリヒリするくらい。まだあんまり動かすなっていうのと、上半身はお風呂はダメって」 「そうか」 気のせいか轟がちょっとしょんぼりしているように見える。たぶん気のせいだけど。 電車に乗っていつもの駅で降りて、坂道を上りながら、途中で轟と分かれる。「じゃあまた明日」ボストンバッグを引っかけた俺に轟はちょっと眉根を寄せて俺の向こう、誰もいない通りを見た。「…迎えとかねぇんだな」俺の両親のことを言ってるんだろうから、肩を竦めて「俺んとこ放任だから」と返しておく。 放任どころか、家に居場所がないっていうのは轟が気にしそうだからお口にチャック。 そうか、とぼやいた轟の瞳が昏く淀んで濁っていることに、このときの俺は気付けなかった。 バイバイ、と左手を振って轟に背を向け、家に帰るという陰鬱さを空気で出さないよう注意しながら一歩一歩をしっかりと踏み締める。 俺の家はいわゆる水商売をしている母、蒸発した父、望まれず生まれた子供が俺、という、まぁそれなりに溢れたよくある形の家庭だ。 母の口癖は『お前さえ生まれなければ今も自由にやっていたのに』 父は子供を作る気はなかったんだろう、俺が小さいうちに蒸発してそれきり。 そういう家に帰ってもおかえりなんて声が出迎えることはないし、これから仕事の母は自分の髪や顔を作ることで忙しい。俺のこともいないかのように扱う。そのことにはもう慣れた。 こんな小さな家だけど、家という形があるだけまだマシだ。 入院期間分の洗濯物と、俺がいない間誰もやっていないから滞っている家事にひっそり息を吐いていると、「あんた、金は?」と言われた。……三日ぶりに退院して戻って来た息子にかける第一声としてはわりと最低だな。 「なんのこと」 「事故ったんでしょ。なんか書類にサインしろって言われてしたわよ。だから金が出ただろって言ってんの」 「出るわけないだろ。不審者に個性引っかけられただけなんだから」 「はぁ? じゃあ怪我負っただけってこと。あたし入院費なんて出さないわよ」 「わかってるよ」 それで俺に対しての興味は失ったらしく、また自分の化粧顔作りに戻っていく。 そりゃあ、そういうふうにすることもできたよ。助けたのはエンデヴァーの息子だからさ。でも、あんたの思い通りになんてならないよ、俺は。 ぐっと拳を握って、散らかっている服を洗濯機に放り込んで回し、シンクに溜まっている空のカップ麺や弁当惣菜の空箱をぞんざいに洗っては片付けて、その辺に転がっているビール缶や空き瓶を分別していく。 そうこうしているうちに親は仕事に出ていった。いつものように、俺のことを心底鬱陶しそうにしながら。 当然、俺の飯なんてものが用意されているはずもなく、冷蔵庫にはビールとつまみくらいしか入っていなかった。 「……轟、マクドナルドとか食べるかな…」 家が和風の豪邸である轟がマクドナルドのハンバーガーをかじってる様は想像できなかったけど、安くて腹が膨れるものなんてそれくらいしか知らない俺は、ダメ元で轟にラインを送ってみた。『夕飯一緒に食べない?』と。そしたらすぐに既読がついて『食べる』と返ってきた。返事はや。 そんなわけで、ついさっき別れたところだけど、家のことをあらかた終えて外に出ると、轟が待っていた。ユニクロだろうとカッコよく着こなす轟は灯りのない俺の家を見上げて眉間に皺を寄せている。普通なら灯りの一つついてるもんな。 外が暗かったから。俺はこのときも、轟の昏い瞳には気付かなかった。 「あー、俺の家、ほら。水商売でして。夜は誰もいないんだ」 「制服から着替えてねぇのは」 「ちょっと、片付けしてて忙しかったからさ。別にいいだろ」 まさか、外食できるようなまともな服が制服以外にないから、とは言えない。 俺の嘘の笑顔を見破れなかったのか、ふぅん、とぼやいた轟が駅の方面へと歩き出すから、斜め後ろをついて歩く。「マクドナルドでいい?」「なんだそれ」「えっ。ファストフードの代表店だよ」「食べたことねぇ」「ええ……」さすがというか、なんというか。 それで、轟の初めてのマクドナルドで恐れ多くも奢ってもらい、久しぶりに腹いっぱいに食べた。具体的にはビッグマックのセットとナゲット。 轟は始終よくわからない顔でダブルチーズバーガーを頬張ってた。「おいしい?」初めてのファストフードの感想は。「………よくわからねぇ」だそうです。普段上等なもの食べてるんだろうなぁ。いいなぁ。 帰り道にある夜の公園に寄り、ブランコを漕いだり、ベンチでだべって人目を忍んでキスしたりというカップルっぽいことをして、夜の八時。そろそろ帰った方がいいだろうという頃になって、轟の足が止まった。 俺の家は相変わらず暗くて誰もいない。そんな家を見上げて轟の目が暗く淀んだあの色になる。 「えっと、どうかした…?」 恐る恐る訊ねた俺を上から下までチェックした轟が一歩こっちに踏み出すから、なんとなく、一歩下がる。 なんだろうその目は。仄暗い闇の底から見られてるみたいな。 「お前、放任されてるって言ってたが」 「うん」 「放任どころか、親の世話してんだろ。しかも食わせてもらってない」 「え、えーと」 体育の着替えとか、病院での着替えとか、痩せてる姿は見られてしまってる。それに、俺の靴とか持ち物はよく見れば年季が入ってるものばかりだ。買い与えられていないなんてこと、見ればすぐにわかる。言い訳が思いつかない。 また一歩下がった俺の背中にどんと何かが当たった。 視線をやれば氷の壁が俺の背後を塞いでいた。轟の氷結だ。 街灯を背に、轟の唇が三日月型になった。「じゃあいいよな。俺の好きにしても」「と、どろき?」「ちゃんと世話するし、飯も美味いもの食わせてやる。お前の親がいらないっていうんなら、俺がもらう。なぁ、いいだろ」、と囁く声に火傷の痕が疼いた。 俺の背後から伸びてきた氷の壁が箱になって俺を閉じ込める。 次に気がついたとき、俺はどこか暗い場所にいた。一体何がどうなったのか……。 重い頭を振って左手をぺたぺたと辺りに這わせる。畳っぽい床の上にいる、ってことはわかったけどそれくらいか。 ちょっと立ってみよう。灯りのスイッチがあるかも、と思って壁伝いに起き上がろうとして、ジャラリ、という重い鎖の音を聞いた。「え」そういえば右足の方、なんか冷たくて重い……。 ぺたぺたと手を這わせていくと、右足首には鉄製のしっかりとした何かがはめ込まれていて、鎖の先にはずっしりとした重しがついていた。とてもじゃないけど引きずって歩けそうにない。 これはまさか、と思っている俺の視界が急に明るくなった。その眩しさに目を眇めて数秒。家着なんだろう、ジャージ上下姿の轟が敷布団一式を持って部屋に入ってきたところだった。 広いとはいえない部屋で敷布団を敷く轟はいつも通りだ。すごくいつも通り。だからこそ声をかけるのを躊躇う。 ……轟はもともと危ういバランスでその美しさを保っていた。絶望に負けない挑戦者の心を持っていた。 たとえばその危うさに、俺が何かしらの影響を与えてしまったんだとしたら? 轟の中で何かが変わってしまったのだとしたら。「えっと、轟?」「ん」「ここ、どこ」訊ねる俺に、轟は三日月のようにすっと目を細くして笑う。 「俺が世話してやるからな。何も心配いらない」 「轟……」 「一生愛してやる。だからお前も、俺のこと、一生愛してくれ」 しなだれがかってくる轟を左腕でかろうじて受け止めて、目を閉じる。 そうか。俺は壊してしまったのか。轟の美しさを。保たれていたあのバランスを。俺が、壊して、堕としてしまった。 ヒーロー科志望だから鍛えてる轟に押し倒されて、畳の上に無造作にさせてる黒髪が散らばった。、と囁く声が耳を食む。「俺だけを見ててくれ」と、子供の泣きそうな言葉に似た声が胸に落ちる。 仄暗く濁った瞳の色をした轟をやんわり抱き寄せて「お前だけを見てるよ」と言うと、轟は肩の力を抜いて、笑って、泣いた。 (別に困らない。学校が好きだったわけじゃないし、家が好きだったわけでもない。轟のそばでお前のこと支えられるっていうんなら、それはそれで、良い人生だ) 以降、という人間は世間から姿を消した。 |