轟焦凍、という人間の子供を攫って十年ほどがたったある日。
 緑の蛍に似せたものが舞う庭で新しい扇子をこしらえていると、リィン、と鈴の音が響き、この空間の見張りに立てていた狐が慌てた様子で逃げ込んできた。『様っ』「下がりなさい」作ったばかりの扇子を広げた私の前で、空間が揺れ、バリィ、と乱暴に引き裂かれ……入ってきたのは見知った顔だった。「よォ」相変わらず、鬼らしく極悪な面をした知り合い、勝己は、派手な虎柄の着物を揺らしながらずかずかと私の庭に入ってきた。
 一つ息を吐いて扇子を閉じる。乱暴な入り方をしてきたものだから、狐が反応してしまった。「大事ない。戻っていい」右往左往している狐に声をかけると『はい』と頷いてぴょんと茂みに消えた。
 今日の勝己は虫の居所が悪いようで、苛立たしそうに屋敷の縁側に腰かけ足を組んだ。「茶!」「…焦凍は眠っているよ」仕方ないので私が淹れてやることにする。
 白夜でわかりづらいが、今はまだ夜明け前だ。あの子は寝ていて起きないだろうが、あまり騒ぐと目を覚ます。勝己が望むとおりに茶を淹れてやるしかない。
 焦凍の真似事をして茶を淹れてやると、湯飲みを奪い取った勝己が苛々と貧乏ゆすりを始めた。……いつもに増して機嫌が悪く、凶悪な顔をしている。何かあったな。これは。

「どうしたんだ」
「ん」

 こちらに右腕を突き出してきた勝己。よく見るとその手首の辺りにつなぎ目がある。「…やられたのか」「轟のクソ親父だ。野郎、火力上がってンぞ」「……そうか」勝己は炎を得意とする鬼だ。どういう経緯かはわからないが、陰陽師の轟炎司とやり合い、右手を落とされたか、燃やされたか。再生した右手にはまだうっすらとその痕が残っている……これはそのつなぎ目だ。
 じろ、と私を睨んだ勝己が私の着物の衿を掴み上げる。
 彼の力は私より強い。なぜなら、彼は人を食っている。力をつけている。この十年のらりくらりと焦凍のそばで息をしていただけの私と違い、彼は人を喰らい、血肉を得、力をつけている。
 その勝己が負けたのだ。
 轟炎司とは十年前に少しやり合っただけだが、今出会えば、私は負けるだろう。私より強い勝己の手が落とされたということはそういうことだ。
 言われずともわかっていた。今のままでは私に未来はない、ということは。「……強かったかい。轟炎司は」「ああ。歳食った人間のくせしてな」「そうか」ぱ、と離された着物の襟を直しながら一つ吐息する。
 そうか。あの男はあの頃よりさらに強くなった、か。厄介なことだ。

「悪いこたァ言わねェ。手離せ。そんで逃げろ。少しは生き延びれるだろうよ。
 人間なんていくらでもいる。適当なの捕まえて囲うくらいお前ならわけないだろ」

 手離せ、と言われているのは焦凍のことだ。勝己は焦凍を轟家に戻し、それでできる少しの時間を利用して私に逃げろと言っている。
 私は薄く笑んだ。
 この勝己という鬼は、顔が鬼らしく怖いし、口も性格も悪いが、根は仲間想いの良い奴なのだ。

「同じように、出久を手離して逃げ延びろと言われて、お前、そうするかい」
「…………」
「焦凍は陰陽道の天才児だと期待されていた。今でも喰らえばその力を得られるかもしれない。
 でもさ、勝己。もし出久がそうだったとして、喰らえるかい。あの子を」

 問うた私に勝己は舌打ちをし、庭へと視線を投げただけで何も言わなかった。
 そう、彼にもわかっているのだ。わかっていて私に言った。言わずにはいられなかった。その厚意には感謝しよう。
 言いたいことを言ったら帰っていった勝己が残した湯飲みを洗い、元通りの位置にしまってから、焦凍が眠っている部屋の障子戸を開けた。
 すー、と寝息を立てている焦凍の顔は穏やかだ。最初の頃に見た火傷の痕もない。
 枕元に膝をつき、安らかな寝顔に手を伸ばす。「……愛いね。お前は」左右で髪の色が違う細い毛先に指を絡め、少し開いた唇に触れるだけの口付けを落とす。
 大きくなった。最初の頃は片腕があれば抱き上げることができたのに、今では両腕でないと難しいくらいの背丈になった。もうほとんど私と変わりがないんじゃないだろうか。
 男らしく突起している喉仏に舌を這わせ、少しの汗の味を舐め取り、毎日畑仕事をしていたせいか男らしくなった手を指先で撫でる。
 ………殺されるか、力が枯渇するか。どちらかでないと滅びない鬼という存在にとって、十年、というのはほんのささいな年月だ。
 私はもう何百年と生きてきた。
 焦凍との日々はささやかで密やかな幸福だったが、代えられないものではない。この先、いつか誰かと同じような日々を過ごすことは、その気になればできるだろう。私がそうしようと思えれば。

(鬼と、人の、愛など。笑ってしまう御伽噺だったのに)

 飽きもせず焦凍の寝顔を眺め続ける私は、鬼と人の恋を笑えなくなっている。幸せに暮らす愛の物語を羨んでいる。そうなりたい、と思ってしまっている。
 罪深い存在に何度目かになる口づけを落とすと、瞼が震えた。「…?」目を覚ました焦凍がぼんやりとした顔で私を見上げ、次いで、慌てて起き出す。「どうか、したのか」なぜか姿勢を正している彼に首を傾げる。別にどうもしない。お前を見ていたかっただけで。

(私の命は、いいんだ。充分長く生きた。私のことはいい。心配なのはお前だ、焦凍)

 焦凍は何も言わない私に困ったように眉尻を下げたが、「飯、準備する」と残して部屋を出て行った。
 先ほどまで焦凍が寝ていた布団の上に手のひらをのせる。まだぬくい。
 私がいなくなったとき、この温もりは、どうするだろうか。どうなるだろうか。
 人間として、轟焦凍に戻ることを選ぶか。それとも。
 緩く頭を振って立ち上がり、明るい黄金色に染まり始めた空を見上げる。
 …………もう時間はいくらもないだろう。
 最後のそのときまであの子のそばにいられれば、私はそれでいい。そうして終われるなら、それは幸せな生だったと言えるから。
 だけどあの子は。残されたあの子はどうするだろうか。焦凍の人生は本来の家族と過ごすより、私と過ごした時間の方が長いのだ。そんな私がある日突然消えてしまったら、あの子はちゃんと生きていけるだろうか。それだけがずっと心に引っかかっている……。