「人の姿は、性善説と性悪説があるけれど、君はどっちだと思う」
 その声はカンカンカンとうるさい遮断機の音に、不自然なほどの透明さをもって俺の耳まで届いた。
 親父を見返すため。ヒーローになるために選んだ雄英高校へと向かう電車を待つ俺の隣にはいつの間にか小さな子供が立っていて、さっきまで俺が見ていた線路をじっと見つめていた。
 カンカンカン。
 遠くでも近くでもない場所で遮断機が鳴っている。電車が来る、と知らせている。
 その音が俺には呼び声に聞こえていた。
 黄色い線の内側までお下がりくださいというアナウンスを無視して一歩踏み出しかけた俺の手を、小さな手が掴む。小さいくせに異様な力で俺のことをそれ以上先に行かせない。

「ねぇ。どっちだと思う」

 子供が丸くて大きい瞳でこっちを見上げてくる。……個性なのか、不思議な瞳だった。虹が渦巻いてるみたいな。
 すぐ目の前をごおっと音を立てて電車が通り過ぎて駅に滑り込む。
 ……なんだっけ。性善説と性悪説?
 虹が渦巻いてる瞳から視線を剥がせないままでいると、通学でいつも乗っている電車が定刻通りに扉を開け、人を吐き出し、飲み込んで、また走り出した。
 俺が答えないままでいると、子供は邪気の一片もない子供らしい笑顔を浮かべて「ぼくはね、性善説だと信じたいんだ」と言う。人は善からできている生き物であると、そう信じたいと、その子供は言う。
 気付くと、俺は唇の端を歪めて笑っていた。いや、嗤っていた。そんなわけがない、と。

「それじゃ、ヴィラン溢れるこの世の中の説明がつかねぇだろ」
「じゃあ、ヒーローは?」
「……金のため、生活のため、ヒーローをやってる奴もいる」
「じゃあ、オールマイトは?」

 ヒーローの代表。俺がヒーローになりたいと思うにいたった人のことを言われてぐっと言葉に詰まった。
 あの人は金や生活のためにヒーローをしてるんじゃない。誰かに感謝されたいからとか、そういう理由で人助けをしているんでもない。
 もし、仮に、人が性善説に当てはまる生き物であるとするならば、オールマイトという人はまさにそれを体現したような………。
 だけど俺は。自分のことしか考えず、息子に自分の理想を押し付けて人を傷つける、そういうヒーローも知っている。
 子供の手を振り払って「性善説なんて、そんなわけねぇだろ。夢見てんなよ」子供に対してなかなか酷い言葉を吐いたが、虹の瞳を持つ子供は少し寂しそうに笑っただけで線路に向かって歩いていく。俺がさっきそうしようとしたように。「おい、」反射的に手を伸ばして、その小さな手を掴み損ねたときには、その子供はどこにもいなくなっていた。
 カンカンカン、とまた踏切の遮断機が鳴る音が聞こえてくる。
 さっきはその音に惹かれるようにして飛び込もうとしていたが、今はそんな気は起きなかった。ただ、次の電車に乗って走らねぇと遅刻だなと、日常的な思考をする俺に戻っていた。
「ぼくはね、人は美しい生き物だと思うんだ」
 カンカンカンカンと遮断機の鳴らす音が呼び声に聞こえた夕方、子供の声がして、視線を上げると、向かいのホームに例の子供がいた。虹が渦巻くような瞳と不自然に透明な声をこっちまで届けてくる、意味不明なことを言う子供。
 その時間だけ、周囲は俺と子供の二人だけになって、世界からは俺と子供以外の声が遠くなる。

「美しいわけねぇ。醜い。ほら」

 自分の顔の左側の髪をかき上げ、幼い頃にできた火傷の痕を見せつけてやる。それで子供の戯言を黙らせるつもりで。
 けど、子供はにこりと笑って「外見が無関係とは言わないけど、内面の話だ。君は美しくて、優しいよ。轟焦凍」「……………」呆れて物も言えなかった。子供のくせに随分と人を口説くのがうまい。
 何気ない足取りで線路へと踏み出した子供に、反射的に体が動いた。
 体重を感じさせないくらいふわっとした動作で線路へと落下する、その姿が電車と線路に挟まれ見れたものじゃないぐちゃぐちゃの肉塊になる前に、左、の炎を使って半ば子供に突っ込むようにして突進し、ホーム下の隙間に転がり込んだ。すぐ横をギャギャギャと急ブレーキを立てて電車が通過していく。
 左の炎を使った自分が信じられず、左の手のひらを見つけていると、もそりと動いた子供が俺を見上げて笑った。

「ほらね、美しい君。何も考えずにぼくのことを助けた君は、きちんと、美しいよ」

 ……ホームの方が騒がしい。人が落ちた、だとか、遅れた誰かの悲鳴、だとか。
 俺が醜さの象徴だと思っている顔の火傷の痕を小さな手がなぞる。「君は、美しいよ」それでそんなことを言う。醜いものを前にして、醜いものに触れて、美しいと、阿呆のような言葉を繰り返す。

「それじゃあ、お前は」
「?」
「性善説がどうとか言うお前も。美しいだろ」

 大丈夫ですか、と言う駅員の声を聞きながらぼやくようにこぼした俺に、子供はきょとんとしたあと、少し悲しそうに笑って、消えた。そうであることが自然なように、ふっと俺の腕の中から子供の存在はかき消えて、あとには『猫を助けて線路に飛び込んだ学生』が残るだけとなった。
 面倒な個性を持って生まれてしまったぼくは、今日も一人、ふらふらとあてどなく街を歩く。森を歩く。水を歩く。空を歩く。
 そうしていると、駅のホームのベンチに座って動かない紅白頭を見つけて、もやもやとしている彼の心を感じ取れた。
 雄英という、ヒーローを育む学校で、彼は良い経験をしている。体育祭、だっけ。あれはぼくも空から見ていた。面白かった。そこで随分良い経験をした。
 もうぼくの手などなくても線路に飛び込むことはしないはずだけど、最後の挨拶にと、ぼくは彼の隣に行くことにした。

「やぁ」
「、」

 びくっと肩を震わせた彼が驚いた顔で隣のぼくを見やる。そう、確かについさっきまで誰もいなかったものね。びっくりするよね。でもぼくはそういう存在だから。
 誰かはぼくの個性を神のようだと言った。
 だけどぼくは、この個性を呪いのようだと思っている。

「体育祭、見ていたよ。掴めたものがあったみたいで良かった」

 笑いかけるぼくに、彼は苦い顔をする。「お前の、性善説。なんか、実感したよ」「ああ、緑谷出久か。彼はオールマイトに似ているものね。自分を顧みず、他者を救おうとする」おかげで轟焦凍は一皮むけた。
 ベンチから浮いた足をぷらぷらさせながら、夕焼けの紅の空を見上げる。
 気付きを得た彼はもう大丈夫だろう。
 君も、美しい人の一人として、ヒーローとして生きていく。

「それじゃあ、お別れだ。美しい人」

 体が引っぱられるように宙に浮く。
 彼にもうぼくは必要ない。だから個性が無理矢理ぼくを次へと連れて行く。ぼくが必要な人物のところへと。
 彼は消えたぼくを捜すようにホームに目をやっていたけど、諦めたのか、ベンチに座り込んでしまった。
 ぼくは個性に引っぱられるまま、次の誰か……まだ若い女の子が首を吊ろうとしている現場にパッと降り立って、いつものように笑顔を浮かべて問う。
「人の姿は、性善説と性悪説があるけれど、君はどっちだと思う」
 ………厄介な個性を持って生まれてしまったと思う。
 ぼくは生まれ持っての『美しい人』で、美しい人である限り、永遠でいられる。そういうよくわからない個性を持って生まれた。
 この『美しい』というのもまた曖昧な定義で、ぼくはぼくなりに模索しながら美しさについて問い続け、誰にでも問えるコトとして、人の性善説と性悪説を用いることにした。
 結果として、ぼくは美しい人のまま、美しいのに脆く崩れやすい人を救い上げては手を離すことを続けている。
 これもある種のヒーロー活動かもしれないな。非正規だけど。
 そんなことを思いながらいつもの活動を続けていると、街で、見覚えのある紅白頭を見かけることが多くなった。
 いつかに助けた彼だ。どうやら雄英を卒業して無事にヒーローになったらしい。
 この頃はヒーロー社会が崩壊して間もない頃で、ぼくは大忙し。時の経過を意識していなかったけれど、どうやらそんなに経っていたらしい。
 ぐい、と引っぱられる感覚のまま、今日もぼくの個性が呼ぶままに美しい魂の持ち主を救おうと誰かのもとに降り立つと、見知った紅白の髪。
 相手はぼくの来訪を予期していたようにこちらを振り返る。
 轟焦凍。……高校生のときから比べて、大きくなった。もうすっかり大人だ。今ではプロのヒーロー。

「随分探した」
「ぼくを?」
「都市伝説からウワサの眉唾もんまで全部だ。ようやく見つけたよ」

 目の前の美しい魂の一部分が陰っている。
 これを晴らせばぼくはまた次へ行かなければならない。君はそこまでわかっているのだろうか。ぼくらの邂逅はこの瞬間で終わるのに、捜す意味なんて、なかったのに。
 笑うぼくに、大股で距離を詰めた相手が簡単にぼくをすくい上げた。それで、何をするのかと思えば、キスされた。しかも舌を絡める方のやつ。
 急なことで混乱するぼくを置いて、彼はやりたい放題だ。口を犯して、その舌でぼくの顔と言わず腕と言わず、とにかく全身舐めてきて、混乱は深まるばかりだ。
 それで彼の魂が清らかになったかといえば逆だ。また少し陰った。

「性善説と性悪説がどうとか言ってたけど」

 ぼくの太ももを舐め上げながらぼやいた彼の色の違う両目がこっちを見る。「俺は、両方だと思う」「りょうほう」「美しいときもあれば醜いときもある。どちらか片方だけであることなんて、ありえない」首筋に彼の唇が埋まって、肌を強く吸われる。キスマークという所有印をつけられる。
 まるでそのためにこの場所でぼくを呼んだかのように、部屋は広くて、ベッドは大きくて、二人で転がっても余りある。
 ぼくに覆い被さっている彼は大人で、もうプロのヒーローなのに、どこか泣きそうだった。

「巷ではこう呼ばれてるんだろ。カミサマ」
「……そう、呼ぶ人もいたかな」

 長いこと生きて、長いことこの活動を続けてきて、それがどのくらいになるのかももう忘れてしまった。
 どうやら彼はそんなぼくのことを悲しんでいるらしいとわかって、ぼくはなんとも言えない気持ちを抱く。
 規格外の個性を持って生まれた。美しくあればぼくは永遠でいられた。だからそうした。
 ただ、それが正しいことなのかは、よくわからなかった。
 見返りを求めるわけでもなく、ただ無心にすべきことをしてきたぼくに、彼は言う。「人間に戻ろう」と。カミサマと呼ばれてきたぼくの体を愛でて「俺が戻してやるから」と言う、その言葉の意味を、君は、理解しているのだろうか。
 ぼくより大きな手を掴んで引き剥がし、小さな体でも余っている大きな力で彼を引き倒し、ぼくが上に乗っかる。重量も増やす。ぼくはわりとなんでもできる。そんなぼくを、カミサマを、そんなに簡単に人間にできるとでも。

「これまでずっと美しかったぼくが、そうでなくなるときって、限られているよ。君は、ぼくに全部捧げる覚悟があるの?」
「ある」
「どうして」
「お前のことを愛してるから」

 愛、と呟いて、筋肉がついて引き締まっている体を小さな手のひらで撫でる。愛でる。
 彼の言葉は変わらない。「俺にできることをする」と、「お前を愛してる」と、甘い言葉を繰り返す。
 言葉はとても甘いのに、その表情はどこか必死だ。何度も唱えてはぼくに届けと願っているようにも聞こえる。

(たった数回、少しの時間、出会っただけなのに。ただ少し、その手を引いて道を教えただけなのに)

 それでも君はぼくを愛していると言う。そのために全部を差し出すと言う。
 美しい人でいること。美しい人で在ること。その美しさを捨てるのに手っ取り早いのが、性、というやつだ。
 興味があったのは魂の美しさで、人間の体になんて意識がいったことはなかった。
 ただ、長く生きてきたから知識だけは持っていた。男と男がどうやってセックスするのかとか、そういうことも知っていた。
 彼は最初からこのつもりで全部準備していて、ぼくは自分の中の美しくないソレを自覚するだけでよかった。
 自分より小さい子供に犯されるのはどんな気分だろうと思いながら、解き放たれた欲望のまま、ぼくは彼をベッドに縫い付けて犯した。長年忘れていた情欲に掻き立てられるまま、せめぎ合う熱に浮かされるまま、時間も忘れてその肌を吸い、愛でて、気が付いたときには、ぼくの個性は『お前にその資格はなくなった』とばかりに消失していた。……ぼくは『ただ美しい人』ではなくなったのだ。
 なんだか重くなったと感じる体でベッドを転がると、体が痛むのか、バスローブ姿の轟焦凍が顰めた顔でバスルームから出てきた。「痛い?」「すげぇ痛い」「そうか」笑ったぼくに彼は口をへの字にして、まだぼくがここにいることを確かめるように手を取ってくる。
 世に言うイケメンってやつが目を伏せて「俺は、お前に救われたから。どうにかしてお前を救いたかったんだ」と吐露する。
 それがセックスで、ぼくの性欲を自覚させることだというのはこれもまた極端な話だけど。おかげでぼくは大切なことを思い出したよ。

「ねぇ」
「ん」
「お腹が減った」

 そんな基本的なこともぼくには欠如していたのだ。
 それに、眠たい。今まで眠ることなんてしなくたってよかったのに、今は瞼が重たくてしょうがない。
 今にも寝そうなぼくを抱き寄せた彼は苦く笑っている。「食うのか寝るのかどっちだ」「ねる……あとで、たべる…」「そうか。おやすみ」空に抱かれるか、水に抱かれるか、森に抱かれるかだったぼくが、その日は人の腕に抱かれて眠った。こんこんと、今までの分を取り戻すかのように、深い深い眠りについた。
 ……………深い、意識の深層で、夢を見た。
 夢の中で、ぼくは虹の橋の前に立っていた。
 そして、誰かに背中を押されるままに橋を歩かされ、強制的に向こう岸に渡らされた。
 振り返ると、誰かはわからないけど、誰かが手を振っていた。さようなら、と。
 だから手を振り返した。さようなら、と。
 それきり、虹の橋は幻のように立ち消えて、ぼくの瞳から虹は消えた。
 そこで目が覚めた。
 夢は一瞬。でもぼくが随分眠っていたのだというのはどこか心配そうにこっちを見つめていた轟焦凍の顔から知れた。「……おはよう?」重いな、と思う体で手を伸ばすとしっかりと手を握られた。「おはよう」と、どこか泣きそうな顔で。
 朝ご飯はホテルのルームサービスで、そういえば卵はこんな味だった、オニオンスープはこんな味だった、なんてことを思い出しながら食事をして、彼が用意した服に着替えて、ドアマンが恭しく頭を下げて開けてくれた扉からホテルを出る。

「したいことをしよう。
「?」
「名前。勝手につけた。今日からお前は轟だ」

 タクシーを呼びながら窺うようにこちらをチラ見する彼に、少し考えたけど、自分の名前らしきものも思い出せない。ならばありがたく授かろう。
 ぼくは今日から、轟家の人間の一人。轟だ。