その日、通算何度目だろう、薄氷が割れるような音がして、黄金色の美しい空が砕け散った。

「焦凍を返せ!」

 兄や姉がときたま『俺を取り戻す』という理由で黄金色の空を割っては俺とを現実に引きずり下ろしたが、は俺の希望を汲んですべてを追い払い続けた。追い払うだけで殺しはしない。怪我をさせることもあるが、それだけ。
 優しい鬼は俺の願いを叶え続けた。
 のもとを去りたくはないが、兄や姉に死んでほしくない。そんな愚かな願いを叶え続けた。
 時折やってくる兄や姉たちを除けば、とても平穏な生活。……そう思っていたのはきっと俺だけだった。

「俊典はヤることヤったが、限界だ。そう遠くないときに人間どもが決起する。鬼を殲滅するためにな」

 その日、たまたま聞いてしまった、勝己との話。
 二人にお茶を出そうとしていた俺は、部屋の襖戸の前で湯飲みをのせた盆を持ったまま固まってしまった。
 聞いてはいけない話。今まで聞いてこなかった話。だが、なんとなく、出久を伴って現れるこの鬼がそういった現状をと話し合っているというのは雰囲気から悟っていた。
 俺は知らないフリをしてきたのだ。今の生活が壊れてしまうことが怖くて、知らなくていいならと耳を塞いで目を閉じて、ぬるま湯の世界に浸かっていた………。
 お前はどうする、という声にごくりと生唾を飲み込む。の答えが気になった。

「そういうお前は、どうする」
「俺ァ……アイツには、恩はあるが、なァ」

 いつも半ギレ、鬼らしい形相できっぱり物事を言う奴が珍しく歯切れの悪い返答をする。
 たぶんだけど。出久がいなかったなら、この鬼は人間を虐殺することに躊躇いもなかったに違いない。ここできっぱりと『戦う』と返していただろう。
 けど、今は出久がいる。に俺がいるように。
 二人には共通したものがある。だからこうして話をしている……。
 俺が固まったまま動けないでいると、すらり、と襖戸が引き開けられた。「あ…」こっちを見下ろす紅い瞳にごくりと生唾を飲み込んで湯飲みを差し出すと、細い指が俺の手から湯飲みを持ち上げた。勝己にも出したらもぎ取るように持っていかれた。
 ちら、と視線を上げると、湯飲みのお茶をすすっているがゆるりと目を細くして笑むから、心臓がどきりとする。
 勝手に立ち聞きしてしまったけど怒ってはいない。いや、そもそも、俺はこの人が怒ったところなんて見たことがないけど。
 お茶をすすったは、俺を自分の膝に乗せると「私は、どうしようか」とこぼして細い指で俺の髪を梳いた。俺は人形よろしくの膝の上に乗ったまま、自分の湯飲みでお茶を飲んで話の流れを見守ることにする。
 それで、俺たちの様子を目の当たりにした勝己が、ち、と舌打ちして俺を指さした。その指には火がある。親父が使うような業火とはまた違う火が。

「轟家が中心となった決起だ。大義名分はテメェだ」
「え」
「テメェを鬼から取り返す。それが理由だっつってンだ」

 思ってもみなかったことを言われ、頭の中が真っ白になった。
 もともと鬼と人は争っていた。完璧な存在たる鬼に世界の主導権を握られまいと、人間は身勝手な理由で鬼を殺し、忌み嫌い、戦いを仕掛けていた。だけど『決起』だなんてことは今まで一度もなかった。
 俺。俺が理由。俺が、人間が鬼を殲滅する戦いを始めるための理由……。

(俺が。俺の。せいで)

 そう理解したとたん、じわ、と視界が滲んだ。俺一人のせいで鬼の世界が滅ぶかもしれないということに途方もない責任を感じた。
 暗くなりかけた視界、目元をぬるい温度が撫でた。の舌だ。人より長い舌で俺の涙を拭って食べている。「お前のせいではないよ。お前を攫ったのは私なのだから、私のせい、と言う方が正しい」「でも…」ひんやりと冷たい指に触れて握り締めると、緩く握り返される、その幸福。けれどその代償はあまりにも。
 だん、と湯飲みを置いた勝己が畳を蹴飛ばして立ち上がり「テメェが帰れば状況が変わるかもな。まァせいぜいない頭で考えろや」吐き捨てるようにそう言うと、ゲートを繋げて自分の領域に帰っていった。
 陰陽道の代表格とも言える轟家。その決起の理由は俺を鬼から取り戻すこと。
 なら、俺が戻れば、鬼が滅ぶという状況は回避できるのだろうか。
 そんなことを考える俺の首筋をぬくい温度が舐め上げる。「…っ、」着物の帯が解かれ、布が落ちる。
 輝く紅い瞳に見つめられると、さっきまで考えていたことがぐにゃりと歪んで、解けて消えて、世界のすべてがどうでもよくなってしまう。
 これは鬼の術だ。わかってる。わかっててかかっている。曲がりなりにも陰陽道に生まれついた俺が、されるがまま、畳に倒されて、首筋に埋まるの頭を抱き締めている。

「俺、かえりたく、ない」

 帰ったら最後、俺はもう二度とこの人と会えないだろう。美しい黒髪に櫛を入れることも、優美な笛の音を聞くことも、陶磁器の肌と触れ合うことも、焦凍と呼ばれることも、宝石のように紅い瞳で見つめられることも、全部なくなる。それが、嫌だ。
 鬼の世界の存続と、自分のわがまま。天秤にかけて、自分の気持ちを選んで帰りたくないと泣く俺の涙を舐め取るは優しかった。「帰らなくていい」と、俺が望む言葉をくれた。
 降ってくる口付けに応えて口を開けると、長い舌が入ってきて俺の口内を蹂躙していく。
 熱いな、と思う体をひんやりとした指が撫でていくのが心地いいのに、まだ熱い、と思う。腹の、奥の、方が。

(抱いてほしい。今すぐ)

 舌を出して乞うた俺はどんな顔をしていたのか。

「愛いね。お前は」

 そう言って着物を落とした美しい人の肢体に手を伸ばして触れることの喜び。紅い瞳に見つめられることの高揚感。ひんやりとした指に愛でられることの気恥ずかしさ。俺の中を穿って腹の奥まで貫く熱。全部手離したくなくて、この先も抱き締めていたくて、その望みだけで、頭の中が埋まっていく。