その日、私は鬼と人が共存する最後の都に焦凍を連れて出かけることにした。
 決戦の時が近い。平和な時間は砂の城のように呆気なく崩れ去るだろう。
 鬼とて、滅ぶときは滅ぶ。
 もともと数を減らしていた生き物だ。時代と歴史の流れに鬼が淘汰されるというのなら、そこまでの生き物だったということだ。

(我ながら、冷めているな)

 煙管を指で弄んでいると、私と同じくらいの背丈になった焦凍が部屋から出てきた。外行きの着物を一人で着られるようになったが、髪だけは未だに慣れないようで、かんざしを手に「できねぇ」と眉尻を下げている。
 その手からかんざしをさらって、左か右、どちらの側につけようかと束の間悩み、かんざしの紫が映えそうな白い側に差して止めてやる。
 こうして着飾らせるのは、焦凍が私のお稚児で、私の食糧源だからだ。
 煌びやかに着飾らせることは『それだけ大事に扱っている』という鬼なりの証明でもあり、同時に、『手を出したらどうなるかわかっているな』という牽制の意味も込められている。
 もう転ぶこともなくなった焦凍に下駄を履かせ、カラリ、と二人分の音を鳴らしながら鬼の最後の都のある森を訪れると、提灯の光が私たちを出迎えた。夜の闇の中に浮かぶ提灯は薄い緑をしている。

「浮いてる」

 提灯を手に取った焦凍に「そういう鍵なんだ。それがないと入れない」鬼にしか寄ってこない浮いた提灯から、カチリ、と音が鳴って空間が開き、その場を呑み込む。
 焦凍を伴って訪れた鬼の都は夜でも変わらない活気を見せていた。並ぶ商店。灯る明かり。行き交う鬼、たまに人間。
 もう何年も来ていなかったが、人が歳を取ったことを除けば、変わっていない。不変を体現した都。「、久しぶり!」門番である片手を挙げた鬼の元に提灯が浮いて戻っていく。
 その手に片手を挙げて返し、空っぽになった焦凍の手を取って歩き出すと、しばらく見ていなかった顔がかわるがわる現れて私と、隣を歩く焦凍に興味深そうな視線を投げていく。

「君がウワサの焦凍くんかぁ。こんちわ!」
「どうも」
「君の父親しつこすぎ。どうにかならない? 困ってんだよね〜」
「すいません、クソ親父で」
「お、クソときた! 言うねぇ」

 勝己で慣れたのか、他の鬼の前でも物怖じせず話している。その様子を横目で眺めつつ刀を扱っている店に顔を出すと、変わらない主人に出迎えられた。相変わらず化粧が濃い。「あらイケメン、変わらないね! ウインクちょうだい!」仕方ないのでやってやったが、太い声で喜ばれても嬉しくはない。
 見た目と性格はこうだが腕は確かな刀鍛冶に頼んでおいた物を受け取り、鞘から刀身を覗かせる。冷たく光る銀の刃はそれだけで空気を斬れそうな鋭さだ。
 昔から変わらない業物だが、私の手には少し重くなっていた。
 たった十年、力の吸収をサボっていただけだが、この都にいる者で止まっていた者など他にはいないだろう。「相変わらず良い仕事だね。ありがとう」刀を鞘に納めて腰帯に差す。「決戦が近いからね〜。気合い入れて作ったわ」大事に使ってね、とウインクされたが、その笑顔に曖昧な笑みを返すことしかできない。
 決戦。私はそれに参加しないつもりでいる。
 鬼の命運を決める戦いが私にも重要な局面となるのはわかっている。だが、私は自分の命運より優先したいものを見つけてしまっている。
 こちらを窺うような視線に首を傾けると、すっかり同じ目線の高さになった焦凍の視線が泳いだ。逃げるように口元にりんご飴を運んでいる。

「りんご飴、うめぇ」
「そう」
「食わないのか」
「私はいいよ」
「……ここ。人間もいるんだな」
「そういう稀有な都だよ。代表が平和的な思考の持ち主でね。人と鬼の共存を唱えていた」
「今は?」

 肩を竦めた私に焦凍は黙り込んだ。がり、とりんご飴をかじって咀嚼している。
 あの屋台は人間の真似事をして食感やその空気感を楽しむためのものであり、ここにいる人間を飢えさせないためのものだ。基本鬼の口には合わない。私はお前が満足しているその顔だけで充分。
 焦凍を連れて都を歩き、人間の屋台を真似した店で焦凍のために物々交換で物を買い、都の一番奥に位置する神社までの坂道を下駄を鳴らしながら歩いていく。
 カラ、コロ、カラ、コロ。
 提灯が先導する坂道に生ぬるい風が吹いて、ギギギ、と目の前の両開きの扉が自然と開くと、中にはすっかりやせ細った背中が一つ。こちらに背を向け、角の生えた観音像を見上げて正座をしている。

「俊典」

 その背に声をかけると、まるで骸骨のようにやつれて細くなってしまった鬼が私を振り返り、笑ってみせる。

「やぁ、久しぶりだ。君は焦凍くんかな、初めまして」
「初めまして」

 ぺこ、と頭を下げた焦凍の髪からずれたかんざしを取ってつけ直す。「そろそろだと勝己に聞いた」ここを訪れた理由を告げると、俊典は痩せた体で立ち上がって「まぁ、お茶でもどうだい」どこかから茶器のセットを取り出した。湯を入れるだけではない、茶道の方だ。俊典はまた面倒なことを憶えたらしい。
 好きにすればいいと肩を竦め、狐型の石に腰かけると、焦凍も真似をした。このあと俊典の茶が出るとわかってか、がりがりとりんご飴をかじって片付けようとしている。
 今回私が来たのは、この刀を受け取るためと、焦凍がどうしても俊典に会っておきたいと譲らなかったためだ。
 自分のせいで鬼と人の争いが本格化してしまったと思っている焦凍には、鬼の代表たる俊典に言いたいことがあるのだろう。
 すべては私の気紛れで、私が引き起こした。お前を攫ってお稚児にした。お前のことを手離さなかった。すべて私のせいにして、自分は悪くないと、そう思えばそれで良いのに。根が優しい良い子なんだろう。
 焦凍がりんご飴の最後の欠片を口に入れた頃、ふわり、と抹茶の香りがここまで漂ってきた。「ほら」ふわふわ浮いてやってきた器を受け取る。
 私には味の良し悪しなんてものはわからないが、出された以上飲まないのも失礼だろう。何より焦凍が気にしているし。
 仕方なくすすってみたが、いつも飲む茶より濃い味だ、ということくらいしかわからなかった。「結構なお手前で、とでも言えばいいのかな」「世辞はいいよ。真似事だからね」次の茶が入るまでの間、焦凍は髪を弄ったり着物を直したりと落ち着きがない。

「さ、焦凍くんもどうぞ」
「……いただきます」

 畏まったように両手で器を受け取った焦凍がお茶をすすって、熱い、という顔をする。
 満足したのか、茶器のセットをしまった俊典はコホンと一つ咳払いをして、眼下の景色に視線を逃がした。
 鬼が住まう最後の都であり、鬼と人との共存が叶っている最後の場所は、今日も変わらず賑わっている。
 穏やかな、ぬるい風が吹いて、私の黒い髪をさらって揺らした。

「顔がバレていない鬼はね、逃がそうと思っているんだ」

 基本面をつけて顔を隠すようにと教えられている鬼だ。俊則のように、晒してしまった場合を覗けば、当てはまる鬼は多い。この都の半数くらいにはなるか。

「大人しく、人間に混じり、同じような生活を送れば、鬼だとバレることはないだろうからね。そうできそうな者たちにはそうしろと言ってある」
「…そうか」

 抹茶を飲み干したらしい焦凍の髪を指先で梳く。「我々は外見がそうすぐには変わらないから、定期的に人の街を移動しなくてはならないなど、面倒はある。だが、死ぬよりはずっといいだろう?」笑ってみせる温和な鬼の顔には疲れの色が濃い。もうそうするしかない……鬼を滅せんとする人間から逃げ、隠れ、暮らすしかない。そう諦めて笑ってみせている顔だった。
 焦凍は膝の上でぎゅっと拳を握っていたが、意を決したように顔を上げ、「あの、親父が、すみません」と俊典に向かって頭を下げてみせる、その髪からカツンと音を立てて落ちたかんざしを拾い上げる。「俺が。俺のせいで。すみません」「……お前のせいではなくて、お前を攫った私のせいだろう」小さく震えている肩を抱き寄せ、すっかり大きくなったな、と思う。もう私と同じ肩幅だ。
 泣きそうだな、と思う目元に舌を這わせるとびくりと震えた焦凍の頬に朱色が走った。「」人前だからと言いたいのだろう焦凍に仕方なく舌を引っ込める。
 石の狐を蹴ってゆるりと歩き、俊典の隣に立ち、眼下で夜に咲く花畑のように色取り取りの提灯で賑わう都を見下ろす。
 不変の都。鬼と人が共存する都。見るのはこれで最後になる。
 見納めか、とこぼすと俊典に笑われた。「まだ時間はあるさ」「そうだとしても。私は、焦凍を連れて逃げるから。もうここにはこない」そう言うと俊典が若干残念そうな顔をした。「そうか。…そうだな。そうしなさい。早い方がいいぞ」「勝己は、どうするって?」「彼は戦うそうだ。逃げるなど性に合わんとさ」いかにもあいつが言いそうなことだ。
 肩を竦めて勝己らしさを唇の端で笑ったとき、どさ、と重い音がした。人が倒れる音だった。視線を投げると、狐に寄り掛かるようにして鬼が一人、血にまみれた陰陽師の服を着て青い顔で息をしていた。

「としのり、さま…。来ます」
「なんだって。おい、大丈夫か」

 虫の息の鬼の背中は肺などの内臓が見えるくらいに焼け焦げ、いくつもの氷の弾丸が突き刺さり、絶命は目に見えていた。それでも報せんと最期の力を振り絞ってここに戻ってきたのだ。「すみ、ません、潜入が、バレて………」言いながら石畳に倒れ込んだ鬼はそれきり動かなくなった。俊典が悔しそうに拳を握って鬼の無残な背中に着物をかけてやる。
 目を見開いて呆然としている焦凍の元へ行きその手を取る。今すぐここを出なくてはならない。「焦凍」「あ…」ぎこちなく顔を上げた焦凍は顔面蒼白だった。

「すまない俊典、私はこれで」

 最後の挨拶をしようと思い投げた視線の先で、火が、落ちた。次々と、人の世界を模して暗い空から炎が落ちて、家を、建物を、木々を、次々に燃やし、鬼と人の都を業火の中へと叩き込む。
 空間転移のために手を伸ばしたが、私の指にはなんの感触も掠らなかった。そのことに舌打ちが漏れる。
 狐がやられているか、危険を察知して逃げたか。
 どのみちここはもう包囲されていて、私よりもあちらの方が力が強い。一体何人を引き連れてきたのか。
 俊典が神社の裏手を指し「抜け道がある。山へ通じる道だがお前ならば行けるだろう」「わかった」最期の挨拶も満足にできないまま俊則が指す方向へと焦凍の手を引いて走った。
 視界の端では炎が舞い、氷の弾丸が降り、人の悲鳴がそこかしこで上がるが、目もくれない。私が大事にしたいものはこの手に握っている。「街が…っ」「焦凍、走るんだ」「でも、みんなが」今から行ったとして陰陽師が来ている。間に合わない。
 それに、私たちは鬼だ。攻撃されて黙って殺られるタマでもない。泣きそうな顔で心配することはないんだよ。
 ここに留まっている人間は、鬼のことを信頼している。酷い扱いは受けていない。この戦いについても覚悟している。
 灰色の石畳を蹴飛ばし、俊則に言われた外へ通じる抜け道まであと少し、というところで、ビリッと空気が揺れた。反射的に抜刀して斬った視界を焔が舞う。…憶えのある炎だ。

「久しいな。鬼よ」

 十年前、轟家で見た男は、一回り大きくなった体躯で焔を纏って行く手を塞いでいる。焦凍の父親、炎司だ。
 久方ぶりに感じた冷や汗が背筋を伝う。
 私と違い汚れる努力をし続けた勝己でも敵わなかった相手に、私が敵うわけがない。
 だが、諦めることだけはしまいと、私は薄く笑んで相手に応えた。