目を覚ますと、誰よりも美しいと感じる人がいて、俺が起きたことに気付くと頬杖をついていた姿勢から微かに首を傾けた。さらり、と細い肩を夜色の髪が滑り落ちて、薄く笑んで「焦凍」と俺の名前を呼び、口付けをしてくれる。
 もう朝か。俺、シてたのに、また意識を飛ばしたのか。それくらい気持ちよかったのか……。
 まだぼやっとしている俺に、昨晩もかわいかったね、と耳を食む声に寝起きの意識が一気に醒めて顔が熱くなった。「か、わいく、ねぇ」ガキの頃と違って俺の身長は伸びたし、体格だって一緒くらいになったろう。そんな野郎が情事でよがって喘ぐ姿がかわいいわけがない。
 じゃあ確かめてみようか。そんな声と一緒に降ってきた口付けと、ひんやりと冷たい指が俺の陰茎に触れる。
 朝っぱらから何をしてるんだ、と思うが、別に嫌でもなかったから、されるがまま、流されるがままに体を重ね、何度目になるかわからない快楽だけが待つ迷宮に溺れる。
 ………差し迫っている鬼と人との最後の戦いに、は背を向け逃げると言った。
 俺を連れてどこか遠く、陰陽師の手の届かないところへ行くと言ってくれた。
 手離さない。たとえ危険だとわかっていても俺を連れて行く。そう決断してくれたことが嬉しくて、腹の奥を穿つ熱が嬉しくて、泣いて、啼いた。

(きっと大丈夫だ。外国に行ければ親父だって追ってこれないだろう。鬼のみんなも逃げる方が多いって聞く。だから、大丈夫だ)

 そう、思っていたかったのに、終わりのときは思っていたよりも呆気なく訪れた。
 勝己が言っていたとおり、轟家を中心とした陰陽師たちが決起し、鬼の殲滅に乗り出したのだ。
 呆然と立ち尽くす俺の前では刀を構えたと、十年前、憶えているときより傷痕で酷い顔になったな、と思う親父がいた。俺のことは見ていない。俺を取り戻すってのは鬼に戦争を仕掛けるための口実だろうってことはわかっていたが、本当に、親父は一度もこちらを見ない。俺のことなんてどうでもいいのだ。奴は鬼って生き物を殺せればそれでいい。
 親父の背後からいくつもの氷の弾丸が飛んでを狙ったが、すべて刀に叩き落とされた。「焦凍!」と悲鳴のような声に呼ばれて顔を背ける。お母さんの声だ。「焦凍!」今度は姉の。「焦凍、こっちに来い!」今度は兄の。

(やめてくれ)

 俺はもうのものなんだ。と一緒に逃げるんだ。二人で遠くへ行ってまた静かに暮らすんだ。
 贅沢な暮らしじゃなくていい。質素でいい。ただ穏やかに、二人で笑い合う時間があれば、それでいいんだ。この世界はどうしてそんなことも許してくれない?
 石畳を蹴って炎を繰り出しながら五芒星の印を結んだ親父にが水の衣を纏うが、十年前のようにはいかなかった。
 親父の火は特製の刀で切っても切っても次々と生まれて消えず、の作った水が蒸発させられて、しまいには炎を纏った拳風を受けて刀は折られてしまった。
 バキン、という乾いた音に、石畳に転がった刀の残骸。
 親父の拳で吹き飛んだが神社の壁を突き破った。「ッ!」もつれる足で駆け出して砂埃に咳き込みながらその姿を探すと、石畳の地面で、の肢体があらぬ方向に曲がっていた。内蔵も出ている。
 ごほ、と咳き込んでいるから生きてはいる。生きては、いるけど。
 ぺたん、とその場に座り込んだ俺は、無力だった。目の前の光景に何もできなかった。自分の親がした仕打ちにただ打ちひしがれていた。

「しょうと…」
「、いる。ここにいる」

 ばき、ぼき、と音を立てての体があるべき姿に戻っていくが、普段綺麗なその顔には汗が目立った。辛いのだろう。「にげなさい」ごほ、と咳き込んだの口から血が滲む。
 気だるげに着物をはだけさせ、暇潰しに笛を奏で、俺に気が付くと笑んでみせる優しい人が、今、目の前でボロボロになっている。血を吐いて、綺麗な着物を土埃と赤黒い色で汚しながら立っている。
 逃げろという言葉に頭を振る。何度でも。

「いやだ、にげない」
「…私では、力不足なんだ。お前を、まもって、やれない。だから」

 幼い子供に言い聞かせようとするように微笑む、その横顔が赤と橙に発火した。炎だ。親父の炎がを呑み込んだ。「あ…」燃えている。愛しい人が燃えている。それなのに俺は震えているだけで何もできない。
 瓦礫を踏み越えてやってきた親父の後ろにはお母さんや姉たちがいたが、みんな、知らない誰かだった。家族が俺を取り戻しに来る度に目を閉じて拒否していたから、十年たったみんなの姿を今知った。「焦凍」駆け寄ってこようとする母親から這いずって距離を取り、ばしゃん、と降ってきた水で消化されたものの黒焦げになったが咳き込む声を聞く。
 膝だったろう部分が炭になって崩れ落ちる、その足元に這い寄って黒い体を抱いた。「…っ」鬼は再生能力を持つ。さっきもそれで回復していた。だけど今のは黒焦げの顔をなんとかいつもの表情に戻すので精一杯らしく、焦げて炭みたいになった手がぼろりと崩れて落ちた。
 喉も焼けてしまったのか、何か言っているのに、聞こえない。の声が聞こえない。
 遠くで聞こえる悲鳴、炎による爆発、氷の弾丸により抉られる地面や建物の音から、小さなその声を必死に拾い上げる。

「おまえは、わたしにじゅつをかけられて、とらわれていた。そういうことに、しなさい」
「いやだ」
「しょうと。おねがいだから」

 もう虫の息のを親父の太い手が掴む。「やめ…っ」その手がを宙に引きずり上げ、また燃やす。
 は悲鳴一つ上げずに親父の炎に呑まれ、燃えカスになってしまった。
 こんなものか、とぼやいた親父がだったものを放り出し、「私が相手をしよう」と着物の袖をまくった俊典と対峙する。
 俺は震える手でだったものに触れた。
 触れた個所からぼろりと崩れて、再生、しない。
 もう、ただの黒い炭だった。そのどこにもらしさは残っていなかった。
 俺が。俺のせいで。鬼のみんなも、お前も、こんなことに。
 焦凍、と呼ぶ声が聞こえるが、聞きたい声じゃなかった。だから俺はの残骸を握りしめて蹲った。「焦凍! もう大丈夫よ。遅くなってごめんね」「母さん、たぶん洗脳だ」「そうね。解きましょう」頭の上で交わされる声もどうでもよかった。
 大切な人が死んでしまった。

(いかないでくれ。お願いだから。いかないで。ひとりにしないで)

 蹲り、だった残骸の燃えカスに口付け、せめてと口に含んでごくりと飲み下す。灰の味は苦く、ひんやりとしたあの肌の滑らかさは欠片もなかった。
 俺が殺さないでとお願いしてきたから、轟家は生きてきたのに、そんなことも知らないで、この人たちは優しくて美しいあの鬼を殺した……。
 俺のせいだ。
 俺が、家族とお前、どっちが大事か決められなかったから。俺のせいでお前は死んでしまった。俺と出会ったから。あの日、轟の家から、俺を、助けたから………。