轟家に連れ帰られた俺は、用意される食事を跳ねのけ、ただ布団の上に転がり続ける、屍のような日々を送った。
 姉たちはそれを洗脳を解いた後遺症か何かだと思っているようで、しきりに俺のいる座敷牢を訊ねては「もう大丈夫よ焦凍」と声をかけ、優しく俺の背中を撫でる。
 だが、その手は俺が欲しい手ではなかった。
 ある日、親父に襟首を掴んで庭に引きずり出され、「しっかりしろ焦凍」と怒鳴られたが、これも少しも響かなかった。心はもうここにはなかった。だから親父がキレて俺の左の顔を焼いたときも、痛くはなかった。
 親父の蛮行を止める姉たちの声が遠い。
 投げ出した視界の先に映った池。覗き込めば、いつかのように、焼けて爛れた醜い顔がある。
 だけど治してくれたあの手がない。かわいそうに、と落ちる声がない。夜色の髪。宝石のように紅い瞳。治してあげよう、と傷跡を撫でた手のひらが、ない。
 なんでないんだろう、と考え、死んでしまったからだ、と胸の内で答えが返ってくる。
 美しく優しいあの鬼は死んでしまった。
 俺のせいで。
 ほろほろとこぼれてきた涙が池に落ちて一つ二つと円を作っては消えるのを眺め、手当てしましょう焦凍、と腕を引っぱられるままついていき、応急処置をされたが、左の視界は見えにくくなった。別にどうでもよかったので、また布団に転がり、出される食事は口にせず、水だけを飲む日々を過ごす。
 このまま緩やかに、のことだけを考えながら逝こう。そう決めていた。
 そんな屍の日々をどのくらいか過ごした夜。あの鬼、勝己が現れたのは、本当に急なことだった。

「よォ。ひでェ面してンな」
「…………」

 ひでぇってのは、親父に焼かれた顔のことか。それとも、絶食を始めて顔までコケてきたのか。
 答える気力もなくて寝返りだけで返事をする。
 仮にも陰陽道の代表格たる轟家、俺が封じられてるこの牢にどうやって侵入したのか知らないが、勝己は気に入らなそうに舌打ちして俺のことを蹴飛ばした。別に痛くない。痛みはもう忘れた。「腑抜けた面してんじゃねェぞ。犬死にする気か」「……出久。は」かろうじて気になった存在、出久のことを思い出して訊ねると、相手はなぜか鼻を高くして腕組みする。「無事だわ。ったりめェだろ」…そうか。出久は別れずにすんだんだな。俺は駄目だったけど、お前だけでも幸せなら、よかった。
 満足して目を閉じるとまた腹を蹴られた。「おい、死ぬなっつってんだろ」うるせぇ。俺はもう世界の全部がどうでもいいんだ。放っておいてくれ。

なら戻る。核が砕けてねェからな」
「……あ?」

 言葉の意味がわからず、適当言ってんのか、と睨みやると、勝己は俺の胸に手を当てていた。何してんだ。「ちょっとじっとしてろ」「は? なん…っ」勝己の手に引っぱり出されるようにして、俺の中から、紅い宝石みたいなものがずるりと出てきた。
 ぽかんとする俺の前で、その宝石をひっくり返したり爪で弾いたりして何かを確認した勝己が一つ頷く。「ちと欠けちゃいるが、問題ない。いいか、これが鬼の心臓だ」びし、と赤い宝石を指される。パッと見ただの宝石にしか見えないが、なんとなく、脈打っているように。感じる。
 それに、この紅色は、の瞳の色だ。

「修復不能な損傷を負った場合、鬼はコレに戻って生物に寄生して力を蓄える。お前が飲まず食わずしてるとコイツも回復しない」

 突き出された宝玉を両腕で抱き締めると、俺の胸にずぶずぶと埋まるようにして消えていった。そういうもん、らしい。痛みとか違和感はとくにない。
 俺、気付かないうちにに寄生されてたのか。そうと一言言ってくれれば…。まぁそんな暇、あのときはなかったけど。

「お前は飲んで食って寝て健康に過ごせ。アイツを戻したいならな」

 びしっと指さされ、言い澱む。俺が今いる場所は鬼にとっては憎く、俺にとっても憎い場所だ。「ここでか……?」鬼を殺した連中の中で生き長らえるなんて。
 勝己は鼻で俺のことを笑い、今日も手をつけていない膳の飯を顎で示した。「飯はいいもん出てるだろうが。適当に家族に合わせろ。ンなこともできねェのか?」「で、きる」むっと眉間に皺を寄せると例の極悪な顔で笑われた。「アイツにデカい貸し作ってやったわ。じゃあなァ半分野郎、せいぜい頑張れや」俺の髪色を見て勝手につけたあだ名で呼び、勝己は来たとき同様、急に消えていなくなった。
 残された俺は、自分の胸に手を当てて、涙で歪む視界で畳の床を見つめていた。

(なんだ。ここにいたのか。そう言ってくれ。全然、わからなかった)

 大事なものが入っている自分の胸に手を当てて、ここにあるはずののため、顔を上げて飯の膳を掴んで引っぱり寄せる。菜食に魚、味噌汁と粥もある。
 急に食ったら胃が驚くだろうからまずは汁ものと粥から食べよう。あとはあたたかい茶だ。ずっと寝てる胃を起こさないとならない。
 その夜以降、俺は生気を取り戻し、しっかりと食べて眠り、家族とも普通に接するようになり、クソ親父の厳しい修行もこなすようになった。
 一見すれば、鬼による洗脳の後遺症がようやく抜けて、轟焦凍は家族の一員に戻ったのだ……。そう感じられるように演技をした。
 空白の時間を埋めるように兄や姉、母と時間を過ごしながら、俺の手はいつも自分の胸にあった。

(俺の中で眠る愛しい鬼のために、俺は俺にできることをしよう)

 俺の中で眠っている大事なもののため、俺にできる全部のことをして、すべてを捧げた。
 よく食べ、よく眠り、よく鍛錬し、かつて天才児だと呼ばれた異名を欲しいままに親父の炎と母の氷結を使いこなせるまでになった。
 いつかと再会する。その日だけを夢見て、日々自分を偽り、家族に笑いかけ、厳しい鍛錬に励んだ。轟家、陰陽道の一族の天才児として力を培った。
 今度は呆然と見ているだけの俺じゃない。のためなら人間相手でも戦える。
 お前を害した親父のことは俺が殺してみせる。
 そうやって、気付けば三年が経過した夜。
 クソ親父が鬱陶しいからと昼間の自主練を夜に変え、一人庭で竹刀を指定の回数まで振っていると、ぬるい風が吹き抜けた。

「…っ」

 左目が疼く。
 埃でも入ったんだろう、と瞬く左の視界に、手、が映る。「かわいそうに」細くて小さい指が俺の左の顔の上半分、火傷の痕に触れている。ひんやりとした指だ。「治してあげたいのだけど、今は力がなくてね」幼い声に、竹刀に落としていた視線を上げると、いつの間にか左肩に幼子が乗っていた。
 夜色の艶やかな黒い髪。紅い宝石の瞳。
 幼くとも憶えのある色香を漂わせるその姿は知っていた。わかっていた。この数年陰陽道の道を歩き直した。自分の中にあった大事なものがなくなっている。だからこれはそういうことだ。

?」

 掠れた声で呟いて竹刀と落とした俺に、紅い瞳をゆるりと細くして「そうだよ」と笑む、その小さな体をめいっぱい抱き締めた。ふわりと香るのは白檀の匂いだ。の匂いだ。煙管を吸っているからだろうと思っていたけど違う。鬼は良い香りがする。「遅い、だろ。何年待ったと…ッ」「すまない」がり、と額を引っかく。感動の再会だっていうのになんか、痒い。
 が眉尻を下げて俺の額を小さな手で撫でた。「だから、これはやりたくなかったんだ」「…?」「お前の中に入ってしまった。お前は鬼を受け入れた。つまり、焦凍。お前の体は」痒い、と感じる額には瘤みたいなものができていた。ぶつけた覚えもないのに。
 を抱えたまま池の水面を覗き込むと、めり、と音がして、額から小さな角が生えたところだった。
 言葉の出てこない俺に、はぁ、と吐息した小さな鬼が俺の角に口をくっつける。

「鬼になってしまったんだよ」
「俺が、鬼?」
「鬼を体内に入れていた。私の再生を心から望み、そのためなら自分にできるすべてのことをする、と思っていただろう。
 私の核に、私の意思はなかった。ただ、『損傷を効率よく修復する』という目的のみがある。
 だから、お前は半分鬼になって、鬼の自分と人間の自分、両方の力を私に与え続けた。たとえるなら人間の母親と、父親と、両方を担っていたようなものさ。
 骨も残らなかったから、本当ならもっと眠っていなくてはならなかったんだけど……おかげで形は取れた」

 生えた角をさすってぐるぐるする思考をなんとか整理しようとしていると、見回りだろう、灯りの気配と足音にとっさにを懐に押し込み、落とした竹刀を手に自主練の体を装う。
 ちゅう、と乳首が吸われる感覚が久しぶりすぎて体が跳ねたが、努めて無視する。「焦凍様、そろそろ」「ああ」顔は向けずに背中で答えると、とくに不審には思わなかったのだろう、見回りの人間は来た道を戻っていった。
 ちゅうちゅうと音を立てて乳首を吸ってくる小さいを懐から出す。「おい」「おいしいね、相変わらず」ぺろ、と舌を覗かせて笑う姿にごくりと生唾を飲み込み、これに欲情するとかまるで犯罪者じゃないか、と思うが、そういえばは小さい俺を攫って血を吸ってたんだったな。ならおあいこか。
 汗を拭うための手拭いを被って角を隠し、を懐に入れ、人の気配を避けながら足早に自室に戻る。
 いざというときのために用意おいた風呂敷包みを床板の下から引っぱり出すと埃を被っていた。
 中身の保存食は定期的にチェックしてたから問題ないはずだ。いつそのときが来てもいいよう逃げ出す準備はしておいた。
 手早く着替えや日用品、部屋から持ち出せるものを風呂敷に包んでいる間、はうんうん唸って両手で壁に手をついて何かしようとしていた。何してんだ。

「焦凍。おいで」
「ん」

 呼ばれるままにそばに行って、差し出された小さな手を握ると、ヴン、と音を立てて空間が開いた。「お…」久しぶりに見た。ちょっと陰陽に似てるんだなこれ。
 風呂敷包みを掴んでと俺とで作った空間に入り、歩いていくと、小さな山寺に出た。「…? どこだここ」「さて。私を呼んでいた場所だけど」小さな体で背伸びして辺りを見回したは、「おぅい勝己〜」とあの鬼の名を呼んだ。
 スパン、と寺の障子戸が開かれ、最後に見たときから三年たっても少しも外見が変わらない勝己が欠伸をしながら出てきた。小さなを見つけると寺の住職らしい格好でげらげらと笑い出す。「ざ、ざまァねェな、チビぃ!」「うるさいな」ぷくっと頬を膨らませた(なんだそのかわいい顔)に手を伸ばされ、軽い体を抱き上げる。そこで初めて俺に目がいったらしい勝己の笑い声がピタッと止まった。

「おい、鬼になってんじゃねェか」
「分かっていて私のことを言ったんだろ、君は」
「その気がなきゃなれねェだろ。ソイツ、髪だけじゃなく存在まで半分野郎になったぞ」
「そうでもなければ、私の回復が早すぎるだろう」

 会話を流し聞きながら寺の縁側に腰かけて荷物を置く。とりあえずここが避難場所で合ってるらしい。
 俺は自分に角が生えたことにもう驚いていなかった。それどころか落ち着いて受け入れていると言ってもいい。何せと同じ生き物になれたか、少なくとも近づくことができたのだ。こんなに喜ばしいことはない。

「何か問題あるのか」
「私はないよ。人としてのお前を食べれるし、鬼として一緒に生きていけるから」

 じゃあもうそれでいいじゃねぇか。お前と一緒に生きていけるなら俺はもう全部を捨てる。家も、家族も。ずっとそのつもりで生きてきた。
 今度は俺も戦う。そのために血の滲む鍛錬を続けてきたのだから。
 小さいが悩ましげに自分の体を見下ろし、次いで、お前にとっては成長したろう俺を見上げる。
 ぐぬぬ、と眉間に皺を寄せて何か力んだが、一瞬だけ憶えのある大人の姿になったが、すぐに子供に戻った。「とても疲れる…」とこぼして俺の膝に腰かけてくる。諦めたらしい。
 でも、そうか。一瞬しかデかくなれないのか。じゃあ、昔みたいに抱き合うことはできないんだな…。
 そもそも鬼の食事に性交が必要かといえば、たぶん、いらない。できなくても問題はないんだと思う。思う、が。
 三年ぶりのひんやりとした体温を緩く抱き締め、小さな頭に顔を埋める。白檀のいい香りがする。「焦凍」「ん」「ご飯をおくれ」幼く甘い声に吸い寄せられるように口付けて薄く唇を開けば、人間のそれより長い舌がぬるりと口内に入ってくる。
 ちゅくちゅくと水っぽい音を立てながら接吻を始めた俺たちに勝己が呆れ顔をしている。

「おい、人ンちでイチャつくな」
「君が呼んだんだろう」
「笑ってやろうと思っただけだわ。帰れ」
「帰るところなんてないよ。少し置いておくれ。そうだ、出久は元気かい?」
「元気だわボケ。今風呂だ」

 幼い声を聞きながら、抱き締める腕に置かれている小さな手のひらを感じながら、じわじわと胸に広がる幸福感を噛みしめる。

(おかえり。俺の、愛しい、)