よく晴れたその日は空が透き通るように青くて、公園では桜が咲いていた。
 花見日和のその日、僕は人を殺した。
 駅のホームから、電車が来るとわかってるタイミングで突き飛ばした。
 なるべく多くの人がいる状況で。なるべく事故に見える環境で。保身を一番に考えて、自分の人生の障害となる人間の背中を突き飛ばした。
 僕がそんなことをするとは夢にも思っていなかったんだろう、相手は簡単によろけてホームから身を乗り出す形になり、
 そこへ、
 電車が、
「っ!」
 布団を跳ねのけるようにして飛び起きると、見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。「はぁ……」脱力して肩の力を抜いてもう一度ベッドに倒れ込む。
 ごろりと転がれば自分の部屋が見えて、ベッドの脇には当たり前のようにしゃがみ込んでいる紅白髪の持ち主が一人。『おはよう』と声をかけてくる。
 無視していると、ベッドの上に上がった相手が僕の上に跨って乗っかる。重みはない。ただ、冷たい空気が相手から沁みるように下りてくるから、寒い。今が春だってことを忘れてしまうくらいには。

『今日で俺が死んでちょうど一年だ』
「………」
『祝わないのか? キリのいい数字だぞ』
「……はぁ」

 二度寝できる時間があるのに、二度寝なんてできそうにない。
 よろけるように起き上がれば、轟焦凍という人間だった幽霊…のようなものが僕を追いかけてくる。『なぁ』「話しかけないで」小声でぼやいて階下に下りれば、みすぼらしい我が家の散らかったリビングがある。
 ソファで突っ伏すように寝てるのは父親だ。昨日も知らない女を連れ込んでたからそのせいだろう。母が死んでから、この人は余計に女にだらしがなくなった。
 洗面所で顔を洗って歯を磨いて気分をスッキリさせたところで、背後にいる轟が僕のことを緩く抱いてくるから、気分はまた最悪になる。それに、寒い。
 顔の左側に火傷の痕があるイケメン幽霊は、なかなか最悪の性格をしている。
 そのイケメンを活かした笑顔を浮かべて言うことといえば、『親父さんもそろそろ首吊るな』「………」『俺が呪ったからな。おふくろさんは半年。親父さんは一年』洗面所を出てもう一度リビングの方に行く。ソファで突っ伏すように寝てる父親をそろりと覗き込む。…まだ生きてる。
 リビングの入り口で突っ立ってるイケメンはにこりとした人の好さそうな笑みを浮かべる。

『なぁ、死んじまったらどうするんだ。死人の借金返すためにまだ働くのか?』
「…うるさい」
『そんな人生嫌だろ? だから殺したんだ。親だろうが、これ以上お前の負担になる人間なんていらない』
「それはお前が決めることじゃない……」
『俺のこと抱いたのも、借金返す金が欲しかったからだもんな。
 なぁ、電車に轢かれたのは結構痛かったんだ』
「あれは轟が、」

 荒げそうになった声に自分の口を手のひらで塞いで、起きなかった父にほっとしながら自室に逃げ帰っても、轟はついてくる。どこまでも憑いてくる。家でも、学校でも、通学路の電車の中にも、仕事先にも、憑いてくる。
 ポケットの中のサバイバルナイフを弄びながら、指定された場所、指定された時間に通りがかるだけの裏路地へ行く。
 指定された人間の心臓を一突きして帰るだけの簡単な仕事。
 世間一般で言うヴィラン的な仕事をしている僕は、人を殺すという事実に今日も無感動だ。
 馬鹿な親の元に生まれたから、生まれながらにして借金があった。生活に困るレベルだった。普通に生きていたんじゃとてもじゃないが返せない。だから、ヴィランになって、生きるため、手を汚すことにした。
 ちょうどおあつらえ向きの個性を持って生まれた。そういう宿命だった。そう諦めることにした。ああだこうだと叶わないことを考えるより、こういう運命だったんだと思って受け入れた方がまだ苦しまずにすんだ。
 こんな家庭に産んでごめんねと泣いて謝るくせに借金を重ねる母と、僕に働くことを強制しながら女で遊び惚けている父。どちらにも心を動かすだけの価値はなかった。
 ドス、と音を立てて人にナイフを突き刺す作業を終え、凶器を消し去って歩く。
 轟は僕の仕事を離れたところで見ている。いつでもどこでも刃物を生成できる僕の個性を眺めて、それで首を捻る。

『俺のこともそれで殺せばよかったのに』
「……うるさい」

 ほんと、この幽霊はうるさい。おかげでこの一年の僕はつい独り言をぼやいてしまう奴になっている。
 そのつもりだったよ。だけど殺した感覚が手に残ると嫌だからと思って突き飛ばすことにしたんだ。でも全然、意味なかったよ。
 一週間に一回はあの日のことを夢に見る。
 僕は夢の中で何度も何度も轟のことを殺している。殺し続けている。

(なんでこうなったんだろう)

 指定口座に振り込まれた金を確認して帰ると、リビングにぼんやりした長い影が揺れているのが見えた。
 朝に家を出たときには生きていた父親が、梁に太いロープを縛り付けて首を吊っていた。
 ぎい、と軋んだ音を立てるロープに、微かに揺れている父の爪先を眺め、視線を外し、一つ吐息する。
 母のときもそうだったけど、父にはなおのこと、心は動かなかった。
 どうにか泣く準備をしている僕の顔を無遠慮に覗き込んだ轟は嬉しそうだ。『どうだ。俺、強いだろ』「……はぁ」溜息をこぼして携帯電話を取り出す。警察に電話をしないと。ウソ泣きできるようにしないと。
 なんとか作った声、なんとか作った泣き顔で警察に電話する僕を、轟は楽しそうに見ている。

「帰ってきたら、お父さんがっ、リビングで…! く、首を、吊っていて」
『次は誰がいい? 虐めに見て見ぬふりする学校の先生? カツアゲしてくる先輩?』
「救急車、は、まだです。はい。住所は……」
『借金取りでもいいぞ。イタチごっこになるだろうが、向こうが諦めるまで呪い殺してやる』
「……はい。じゃあ、家の外で、待っています」
『なぁ』

 寒気がするほどの冷気と一緒に纏わりついてくる轟に、これなら殺さない方がよかったな、なんて束の間考え、警察との通話を終える。
 なんでこんなことになってしまったんだろう。
 幽霊なんて、そんなものがこの世に存在していて、確かに殺した轟が当たり前みたいにそばにいるなんて。そんな想像、誰がした?
 一年前のよく晴れたあの日。春らしくあたたかく、花見日和だったあの日。電車に轢かれて肉塊と肉片になったはずの轟が、僕の顔を覗き込んで、笑っている。
 その顔は少し透き通っていて、轟の向こうから春の陽射しが差し込んでいる。春なんだからあたたかいはずなのに、幽霊の轟を通してるせいか、肌寒い。

『お前の邪魔になる奴はみーんな殺してやる』

 轟の笑顔には一片の邪気もないのに、考えてることは空寒いにもほどがある。
 僕の人生はどこからが間違いだったんだろう。それとも、最初から間違いだったろうか。そんなことを思いながら家の外に出て、パトカーと救急車の到着を待つ間、纏わりついてくる轟はやっぱり冷たくて、季節外れのマフラーをしっかりと首に巻いた。