轟の幽霊は呆れるくらいに僕に付き纏い続けた。
 両親は死んだし(殺されたという方が正しいのかもしれないけど)、生前の轟が僕の交友関係を絶ちまくっていたから、親しい人間というのもいない。
 これはそのせいだ、と言い訳しながら、ピピピピと鳴り響いた目覚ましに手を伸ばしてパチンと叩いて止めた。
 もそりと寝返りを打てば、今日も枕元で微笑むイケメンがいる。

『おはよう
「……はよ」

 最初は絶対に反応してやるものかって無視していたけど、最近はその労力も無駄なことな気がしてて、ぼやくだけだけど、返事をするようになってしまった。
 そのことに轟がにこにこ嬉しそうな笑みを浮かべているのが、こう。居づらい。僕が応えるだけでお前はそんなに嬉しいのか、とか、考えてしまって。
 ロフトベッドを下りて欠伸しながら卓上の電子カレンダーの日付を睨みつける。
 今日で轟が死んで五年目だ。
 両親が借金をしていた金融機関の人間は、この五年で、時間をかけて、轟が全員呪い殺してしまった。おかげで最近は静かで、取り立てというものもない。
 でも、そっちの業界では僕はブラックリスト入りしてるんだろうな。触らぬに祟りなし、って感じで。
 オリーブオイルを垂らしたフライパンにハムを一枚落として卵を割り入れる。『ちゃんとご飯食べるんだな。偉いぞ』冷たい温度が纏わりついてくるのに肩を竦めて返し、スティックタイプのコーヒーを淹れて、あたためた牛乳で割る。
 トースターでチンしたテーブルロールを置けば朝食の完成だ。朝からサラダを用意するのはダルいから夜に食べるってことで勘弁してほしい。
 轟がいるとやっぱ寒いな、と思いながら寝間着の上にセーターを被って着る。もう春だっていうのにこれでも肌寒いと感じる。
 小さな机に一人分の朝食を並べ、椅子に腰かけた僕の前にはにこにこしている轟がいる。
 食費を浮かせるためにも朝は食べない派で通してたのに、どうやってか金を調達してくる轟がそれで足りるだろ、食べろとうるさいもんだから、渋々食べるようになって、最近はこんなふうに調理もする。そのことに轟はとても満足そうにしている。

「いただきます」
『召し上がれ』

 いや、作ったの僕だし、お前は何もしてないだろ。と心中でツッコミつつもあたたかいうちに食べてしまうことにする。
 暇潰しのために買った小さなテレビをつけると、桜の開花予想をしていた。
 桜は、あの日を思い出すから意識的に避けている。『今週末は寒気の影響で冷え込む予定で、お花見には肌寒い日となりそうです』聞き流しながら窓の外に視線を投げると、晴れていた。あの日みたいに。
 五年前の春。僕が轟を駅のホームから突き落とした。
 僕が殺した。
 ……そういえば。轟の口からそのことについて責められたことは一度もない、気がする。

「お前はさ」
『ん』
「いつまでこういうこと続けるんだ」
が幸せになるまで』

 当然だろ、と言わんばかりの顔をした相手に閉口してコーヒーをすする。
 幸せ、ってさ。僕が他人と関わるのを拒むくせに、よく言うよ。
 轟が死んで五年だ。僕だってあれから成長した。当時よりは色々、大人になった、と思う。色んなところでバイトしたし、一人暮らしもやってる。すべてを諦めて憂うだけだった中学生の頃に比べれば人付き合い以外は色々安定している……と思う。
 全部、轟のせいで、轟のおかげだ。
 僕から全部奪ったくせに、僕に自分の全部を与えるみたいに、お前はそばにい続けた。
 表現方法とか、色々間違ってるところはあるけど……。僕は轟に愛されている。そう実感してしまっている自分がいる。
 じんわり、じんわり。時間をかけて。轟が僕の障害になるものを取り除いていって(それには僕が望まないものも含まれていたけど)、僕の人生の空いた場所を、その分占拠した。蝕んだ。
 ずず、とコーヒーをすすって視線を投げる。テーブルに頬杖をついて俺を見ている轟は今日も邪気のない笑みを浮かべている。

「じゃあさ」
『ん』
「さっさと生まれ変わりでもしてよ。幽霊のままじゃ、抱けないだろ」

 十六歳で時が止まったままの轟と、今年で十九歳になった僕。
 僕が最後に轟を抱いたのは十四歳のときだ。それ以降誰ともセックスしてない。お付き合いすらしてない。轟がそういうことを許さないってのもあって、正直欲求不満だ。
 ……それにしたって、あまりに孤独だからって、ほだされすぎだろう僕。大きな独り言は癖になっちゃったしさ。
 これじゃ轟の思うツボだ、と思いながら半熟卵を割ってハムと絡めて口に運んでいると、向かい側にいた轟が急に立ち上がった。と思ったらにこりと笑んで『わかった。時間がかかるかもしれないが、待っててくれ』言うなりその場からふっと消えてしまう。
 残された僕はマイペースに朝食を平らげてから、戻ってこない轟に『自分は何かとんでもないことを言ってしまったのではないか』ということに遅れて気が付いた。

「轟?」

 呼んでも返事がない。いつもならなんだって笑顔で纏わりついてくるのに。
 なんか、暑いな、と思ってセーターを脱ぐ。『今日の最高気温は二十度。最低気温は…』テレビに視線を投げると今日の天気と気温が予想されていて、セーターなんていらないくらいあたたかい温度を告げていた。
 ずっと轟がいたから。あいつ、冷たくってさ。体温は奪われるし、だから夏でも長袖だったし、春でもセーターとか着てたんだけど、急に暑くなった。なんで。

「とどろき」

 いくら呼んでも轟が戻ってくることはなかった。
 次の日も、その次の日も、朝の枕元には誰もいなくて、纏わりついてくる冷気も感じなかった。
 そうやって轟焦凍だったものは僕の世界から唐突に消えた。あんなに僕に憑いてたくせに、その気配はあっさりと消えてしまった。
 轟焦凍が死んで十年。
 僕の世界から幽霊の轟が消えて五年。朝の六時半に目覚ましが鳴った。
 のそりと起き上がって「はよ」とぼやいてみるも、おはよう、という声は返ってこない。一人暮らしの部屋には僕しかいない。紅白頭の轟はいない。
 本来ならそうあるべき一人暮らし、僕しかいない部屋を無感動に眺める。
 ………いつだってそばにいて離れなかった轟のこと、鬱陶しいと思ってたのにな。

(あれだけ一緒にいて、いつも口うるさかったから。いないと、静かなもんだ)

 のそのそと起きて一人朝食を用意し、もそもそ食べて、仕事先である八百屋に向かう。
 地元の商店街でこじんまりとした店を続けている店主は車を用意して僕を待っていた。「おはようございます」「おう。相変わらず厚着だなぁ」はは、と笑ってマフラーを解く。こうしていればそのうち寒くなるんじゃないかなんて、我ながら馬鹿みたいなことをこの五年続けてる。ほんと、馬鹿みたいだ。
 僕の借金その他が厳密にどうなったのかは知らないけど、世間では僕って人間はブラックリスト入りしている。だから僕が働ける場所というのは、リスクを承知で仕事を振るヴィラン関係のことか、それを除くと、こういう個人商店が多くなる。
 野菜の仕入れから付き合うから朝から起きなきゃならないけど、そのかわり夕方前には上がれる。そういう健康的な仕事だ。時給は安過ぎず高くもない平均値。
 ただ、野菜が重いから女の子には不人気。だから未だにカノジョなんてものはいない。そんなもの作ったら轟が呪い殺す。
 ………もうあいつはいないのに、この五年、そんな言い訳ばかり並べて、僕はずっと足踏みをしている。

(だって。待っててくれって、言ってたし)

 もう普通に生きてもいいのに、轟の最後の言葉に縋りつくみたいにして、僕は諦め悪くあの頃を繰り返している。

。それ終わったらこっちも頼む」
「はい」

 値付けが終わった野菜を店先に並べ、店内で品出しを待ってる状態の野菜の段ボールを気合いを入れて抱える。
 地元の八百屋だから人員は最低限。店長は腰痛持ちだとかでレジ打ちと力のいらない仕事しかしないから、野菜を運ぶ仕事は全部僕の方に回ってくる。
 ちょっと疲れたな、と思いながらとんとん腰を叩く。今日は湿布貼って寝よう。
 というか、野菜、全部棚に並べる方式にしないかな。地べたに段ボール置くのは衛生的にもアレだと思うし。しゃがみで置くの何度も繰り返すのは辛いし。手に取る方も、棚に入ってるか机の上の方がいいんじゃないだろうか。



 しゃがみ込んでいたところに降ってきた、どこか舌足らずな声。
 顔を上げると、紅白色の髪をした、左右瞳の色が違う子供が僕のことを見ていた。「」それでぱぁっと顔を輝かせて抱きついてくる。「え」子供。知らない子供だ。だけどとても、見覚えのある……。
 向かい側の道路から慌てた様子で、母親、と思しき若い女性が駆けてくる。「こら焦凍」その女性の横っ面へとダンプカーが突っ込んで、秒で人を肉塊に変えた。
 遅れたブレーキ音に派手な衝突音。上がる悲鳴。
 ついさっきまで平和な下町風景をしてた商店街が惨劇の現場に変わる。
 子供が冷めた目で一瞬だけ母親だったものを一瞥する、その視線をよく知っていた。
 邪魔だ、と相手のことを蔑むように見下ろしながら手を下す。そういう奴を一人、知っている。
 ドクドクと鼓動する心臓と、ぎゅう、と抱きついてくる子供に触れる手が震える。「とどろき?」火傷の痕こそないけど、その子供の外見は轟焦凍だった。
 僕を見上げた子供はにこりと憶えのある笑みを浮かべ、小さな手をぺたりと僕の頬に当てる。つい今しがた母親が死んだなんてことは感じさせない、無邪気な笑顔。

「生まれ変わったはいいけど、最近まで、そのこと忘れてて。思い出してからは、一生懸命、さがしたんだ」

 、と嬉しそうにこぼしてキスしてくる体温に理解が追い付かない。
 そのくせこの手は子供のことを抱き上げて、ぎゅっと強く抱き締めている。
 ………中学生の頃は、轟の愛が重たくて、とにかく逃げたかった。そのために殺した。
 幽霊になった轟がそれでも僕に纏わりつくことが、最初は怖くて、次に鬱陶しくなって、最後には諦めた。
 長い時間をかけて。僕は轟焦凍がいないと駄目な人間にされてしまった。「おかえり」「ただいま」とても満足そうな声に引きつる唇で笑う。
 愛は呪いになって、呪いは愛に還った。
 僕の世界はまた轟で埋まるんだろう。息苦しいくらいに四方八方を塞がれて、轟以外の人間なんてわからなくなるくらいに埋め尽くされて、そんな僕を見て、満足そうな顔で笑うんだろう。
 その人生は想像するだけで空寒かったけど、僕のことになると見境のない轟をコントロールしなくてはならない、という責任のようなものも感じた。
 僕は根が真面目なんだ。そうじゃなきゃ、親の借金返すために手を汚すものか。
 なんで僕がこんなに愛されてるのかはわからないけど、その呪いのような愛を、もう疑ったりはしない。

「焦凍」

 もう轟の姓ではないだろうから、名前で呼ぶと、焦凍はさらに顔を輝かせた。
 そうしているとただの純粋無垢な子供に見えた。焦凍の向こうにある道路に彼の母親だったものの残骸と赤い色がなければ、パトカーと救急車が出すサイレンの音がなければ、名前を呼ばれて嬉しそうに笑う子供は本当にただの子供に見えた。「ああいうのは駄目だ」「どうして?」「どうしても」むぅ、と頬を膨れさせた子供はかわいらしい。邪気の一片もない。そのくせ平気で人を殺す。たぶんそういう個性を持ってる。
 僕の言うこと聞けるだろう、と囁くと、焦凍がなんだか幸せそうにとろけた顔で笑う。

「俺がいい子だと、は嬉しい?」
「うん」
「じゃあ、いい子でいる」

 ぎゅっと抱きついてくる焦凍のことを緩く抱き締めて、この先に待つ人生の困難を思って細く息を吐く。
 毒を食らわば皿まで。
 焦凍を受け入れるなら、その人生の終わりまで、責任持たないと。
 まずは、駆けつけた警察への事情の説明と。店先に広がる惨状に呆然としてる店長への釈明から、だな。