朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めて、のそりと起き上がる。
 やわらかいベッドを抜け出して、大きな鏡の前で今日の翼の状態をチェック。腰のところが空いたシャツに着替えて部屋を出る。
 3LDKの広さがあるマンションの一室は今日もまだ見慣れない。
 広くてあんまり何もない、そんな殺風景なリビングダイニングを見つめて数秒。まずは顔を洗って目を覚まして、思考も醒まして、ようやくここが自分のいていい場所なんだと思い出す。
 ヒーローショートに連れられて日本にやってきたオレは、現在、その焦凍と暮らしている。
 鏡の前で少し伸びてきた前髪をピンで止めて、邪魔な襟足の部分は一つにくくって、朝ご飯に髪が入り込まないように注意する。
 ガスも電気も水も、すべてが滞ることのない日本のキッチンは快適だ。冷蔵庫も大きいし。
 だいぶ慣れてきたな、と思う調理をしていると、そのうち焦凍が起きてくる。今日も寝ぐせが酷い。

「はよ…」
「おはよう」

 朝の挨拶くらいはすんなり日本語で返せるようになった。
 焼き魚、卵焼き、白いご飯に、お味噌汁。見た目はイマイチ崩れてしまったりしてるけど、立派な和食のご飯だ。
 一人満足していると、向かいでご飯を食べながらまだ眠そうにしている焦凍がぽつりと「うまくなったな」とこぼした。それは、調理の腕だろうか。味のことだろうか。なんて考えながら、味噌の味にも慣れたな、と思う。最初はなんとも言えない味だと思ったけど、納豆とかよりはマシだ。
 汁をすすって、壁にかけてある大きなカレンダーに視線を投げる。
 オレが日本に来て一ヶ月がたった。
 禿げていた翼は少しずつ羽が生えてきて、揃うにはまだ時間がかかるけど、骨と皮だけではなくなった。
 全身にあった青痣や打撲もだいぶよくなった。
 毎日ちゃんとご飯を食べてふかふかのベッドで眠る。あたたかいお湯のお風呂に入れる。おかげで体の調子はとてもいい。
 日本語の文字の勉強は、難しいけど、ひらがななら全部わかるようになった。今はカタカナの習得を目指して毎日勉強中。
 日中はテレビで外国人向けの簡単な日本語会話のレッスンを見る。おかげでだいぶ、片言でも、日本語で会話ができている。と思う。

(今日は何をしようかな)

 今日は休みだという焦凍に洗い物を任せ、よいこのドリル、という名前の子供向けの勉強冊子を掲げる。今日もこれでいいかな。あとは教科書を少しだけ読もうかな。
 焦凍が休みの日にはあんまり勉強はしなくていいことになってるから、今日は少なめにしよう。
 顔を洗って髪を直したら、眠そうに洗い物をしてた焦凍がいつもの焦凍になった。ちょっと目つきが悪くて、でも顔が良い。

「買い物に行く」
「いってらっしゃい」

 これも、すんなり返せるようになったな、と思う日本語を返すと、焦凍の眉間に眉根が寄った。だいぶ伸びて視界にかかっている髪が邪魔なのか、くしゃっとかき上げて、はい、イケメンだ。「お前の服を買うんだ」「……? フク。ある」今着ている服と、着替えも三日分はある。そんなにたくさんはいらない。
 首を捻ったオレに、焦凍は溜息を吐いてカレンダーを指す。もう五月も半ばになった。「日本には四季ってものがある。これから暑くなるんだ。着替えがいる」シキ。聞いたことはある。季節の移り変わりがあるから日本は美しい、って。
 そうか。そりゃあ、そうか。ドイツとは全然気候が違うだろう。
 確かに最近、暑いなって腕まくりすることが多かった。
 前は痣や痕を隠すために夏でも長袖だったけど、今年からは半袖を着られる。そうなると確かに服がない。かなぁ。
 午前十時。焦凍の提案に乗って、このあたりでは一番大きいというショッピングモールへタクシーで乗りつけた。
 ナンデモモール、というらしいこの場所はいつも人で賑わっている。
 一度、人混みに慣れておこうと思って一人で来て、無理だなってすぐに引き返してしまったっけ。
 オープンしたばっかりなのにすごい人だなと思いながら振り返ると、タクシーは行ってしまっていた。その向こうにはいわゆるコンクリートジャングルな街があって、何度見てもこの景色は変わってるなぁと思う。オレがミュンヘン育ちだからそんなことを思うのかもしれないけど。
 正面に顔を戻して、視線が彷徨う。やっぱり人混みはまだ苦手だ。
 オレはどちらかといえば、こっそり道の端を歩く人種、というか。そういう人生だったから。一ヶ月程度じゃ、そうしなくていいって言われても、慣れない。
 焦凍の上着の裾を掴む。迷子にならないように。
 日本ではイケメンで実力がある若手ヒーローとして人気の焦凍は、今日もマスクと帽子で容姿を誤魔化している。「ここ行くぞ。翼関係の個性持ってる人が企画したブランドの店」フロア案内を指す焦凍に黙って頷く。たくさんの店と人がいて眩暈がするから、オレは大人しくついていくよ。
 そのブランドの服はゼロが一つ多かったけど、翼を早く治すためにも、衣服で負担はかけない方がいい。なんてことを訥々と説明されて、オレの方が先に折れた。
 焦凍はお金を使うことに迷いがない。使うためにあるのがお金とはいえ。

「……ショウト」
「ん」
「オナカ、へった」

 日本語これで合ってるかな、と思いながらレストラン街を指す。お昼にはまだ早いけど、おやつか何かが食べたい。「デザート」紙袋を二つぶら下げた焦凍が帽子に手をやって深く被り直し、仕方なさそうにレストラン街に足を向けるから、ついていく。
 女の子が好きそうだなと思うテイストでまとめられた店に入って、一番奥の席、通路から遠いところに座る。
 日本語のメニューを試しに読もうとしてみたけど、当たり前みたいにひらがなとカタカナと漢字が混ざっていて、全然わからなかった。日本語は難しい。

「何がいいんだ」
「デザート」
「それはわかってる。チョコとか、キャラメルとか、フルーツとか。ワッフルとか、パンケーキとか、パフェとか、そういうのだ」
「んん」

 味と種類、か。そこまで考えてなかった。今の気分。今の気分は。
 焦凍の髪を見ていて思いつく。「いちご。くりーむ」オレの代わりにメニューに目を通した焦凍がデザートの一つを指して「パンケーキでいいか」「うん」焦凍はお腹が空いてないらしく飲み物だけ頼んだ。
 アイスコーヒーをすすりながら焼き立てのパンケーキ、イチゴと生クリームのソースを堪能する。贅沢だ。
 ふわふわ焼き立て。甘い。おいしい。日本の食事は安くてクオリティが高い。もっと値上げしていいと思う。
 ふわっとしたパンケーキを切り分けてフォークを差し出すと、たぶん、焦凍は変な顔をした。マスクでよくわからないけど。いらないんだろうか。
 首を捻ってフォークを戻すと、いる、とぼそっとこぼしてマスクを下げる。
 小さいなと思う口にパンケーキをあげて、次々口に運んでいたら、ぺろっと食べてしまった。二枚あったのに。おかげでお腹がいっぱいでとても満足だ。
 ついでに食料品や日用品を買い出していこうと言う焦凍についていって、色んなものがあるなぁとあちこち目移りしていると、きゃあ、という悲鳴を聞いた。「待ってろ」本職がヒーローである焦凍の行動は早くて、オレをベンチに座らせ紙袋を預けると全力で駆けていく。
 ……いつもこうやって仕事をしてるんだろうな。それで困ってる誰かのことを助けているわけだから、本当に偉いと思う。
 そんな焦凍のプライベートはといえば、オレで埋まってる。
 最近そのことに『これでいいんだろうか』と思ったりする。

(焦凍は人気のプロヒーローだし。誰と付き合うにしても、引く手数多だろうに。どうしてオレなんかと一緒にいるんだろう)

 ぼんやりしていると、「退けぇ!」という騒がしい声が聞こえてきた。
 顔を向ければ男が一人、通行人を突き飛ばしながら走っている。どう見ても誰かから逃げている。この場合、焦凍や警備員の人から。
 その焦凍がいない。犯人が複数だったのか、個性でうまいこと誤魔化されたのか。
 ここから逃亡しようとしているんだろう男の腕に抱えられた小さい女の子がいるのを見て、オレは無意識に立ち上がっていた。「…?」そんな自分の足を見下ろして、少しは治ってきている翼を振り返る。
 ここで負荷をかけたらまた治るのが遅くなる、けど。仕方がないか。
 腰の翼をはためかせて力を入れて飛び、一瞬滞空し、男の後ろへ。
 ビキッと翼が軋んだけど無視する。「Schild」かざした左手に小ぶりな盾を握って翼で加速、ヒーローを撒いたと思って無警戒な背中にアタックを決めて、よろけた男に、その腕で泣いていた女の子をすくい上げて飛ぶ。
 ああ、腰が痛いな。ズキズキする。

「なんだてめぇ!」

 振り返りざま男が構えた腕からドロッとした粘性のある弾のようなものが複数射出されて、判断に迷う。腕には女の子がいる。巻き込めない。盾で防げるかはわからない。
 タイミングが難しいけど、鳥譲りの目を見開いて「Kasten」透明な箱を作ってドロッとした弾を閉じ込める。
 ごん、と音を立てて落ちた箱の横になんとか着地を決め、「メイ!」駆け寄ってきた父親だろう人に「パパぁ」と泣きじゃくる女の子を預けて手を掲げる。箱は解除。「Schwert」落ちてきた剣の柄を握って構える。殺傷能力はない見た目だけのものだ。これで精いっぱい牽制するしかない。
 俺はヒーローじゃないから、本当はこういうこともしてはいけないんだろうけど。泣いている子供を放っておけるほど、人間腐ってはいない。
 周囲の人が悲鳴を上げながら逃げ出す中、じりじりと後退る。腰が痛い。砕けそう。「仕方ねぇ。こうなったらてめぇが人質だな」「……いやだ」当たり前だけど。
 今度はさっきよりたくさんの粘性の弾を射出した相手に剣を消す。箱を出してさっきと同じことをしようと思った、そのオレの前に氷が突き立った。そのまま男ごと巻き込むようにして凍らせる。



 振り返れば白い息を吐いている焦凍がいて、服の左側が燃えていた。個性を使ったんだろう。
 焦凍の姿を見て安心したのか、腰が砕けた。がっくり座り込んで、ズキズキと痛む腰に手をやる。「…ッ」後悔はない。後悔はないけど、痛い。な。
 知っている腕がオレのことを抱いて、ぽた、と落ちた赤い色を見る。無理をさせたから翼から出血してしまった。「ごめん」何か言われる前に謝ると舌打ちされた。不機嫌だぁ。
 ぎゅう、と抱き締められて、苦しいなと思う。力が強い。「俺こそ。一人逃がしちまって。わりぃ」…さっきの奴のことか。やっぱり複数犯だったのか。それはしょうがないよ、焦凍。悪くない。頑張ったよ。だから、そんな泣きそうな顔をする必要はないんだよ。