「ちょっと我慢しろ」

 チューブタイプの薬を指に押し出し、細い腰から生えている翼の関節部分にそっと塗り込む。
 うつ伏せにベッドに寝転がったの翼に念入りに薬を塗り、変に動かせないよう包帯を巻いていく。
 ナンデモモールで俺が取り逃がしたヴィランに遭遇したは、人質を助けるために男に挑んで、治り始めていた翼を酷使した。
 そのこと自体は、悪いことじゃないと思ってる。結果論ではあるが、おかげで人質の子供は無傷だったし、周囲に怪我人も出なかった。
 に正しい人間性があったことは喜ばしいことだと思う。ただ。
 包帯にじんわりと滲んだ赤い色を睨みつける。
 せっかく治ってきてたのに、振り出しに戻ってしまった。

「もう動かすなよ。絶対だぞ」
「うん」

 ……軽い返事だな。本当にわかってるのか。あれはヴィランを取り逃がした俺にも責任があるとはいえ。
 起き上がってぐっと伸びをしたを睨みつけ、視線を外す。
 ああ、くそ。モヤモヤする。

「きょう、ゴハン。なに、する?」
「……出前頼む。寿司でいいだろ」
「スシ」

 パッと表情を明るくしたは和食が結構好きだ。蕎麦はイマイチらしいが、寿司はよく食べたがる。
 携帯からデリバリーサービスを利用して夜の六時半に寿司が二人前届くよう注文をすませ、包帯が巻かれた痛々しい翼を睨みつける。
 両親が元ヴィラン。そのせいで不当な扱いを受けて育ってきたには『自分を大事にする』という発想がない。そういうものを知る前に周囲は彼を蔑み、牙を剥き、踏みつけ噛み千切り、その翼を引き裂いた。
 細くて薄い腹に腕を回して抱き寄せ、立ち上がりかけていたのをベッドに引き戻す。「?」膝に乗せて背中側から緩く抱けば、くすぐったそうに黄色い瞳が細くなる。
 白くてふわふわした、少し伸びてきた髪を指で梳く。
 に唯一普通に接していたろう両親も、五年前に揃って崖から飛び下りて死んでいる。
 ……お前の心はどうなっているんだろう。何を支えにしているんだろう。
 最近は少し明るくなったように感じるが、それは一体、何に起因されてのものだろう。
 無理はしていないだろうか。求められたら応える、ただそれだけの人間になっていやしないだろうか。

「ショウト?」
「……ん」

 白いシャツの向こうに覗く鎖骨の下を指でなぞる。ここにあった青痣は消えた。「体の傷は。どうなってる」「なお、た」「見せろ」ぷち、とシャツのボタンを外し始めた俺に黄色い瞳が彷徨う。「え、と」ぷち。ぷち。最後まで外したボタンからシャツに手をかけて白い肌を空気に晒す。
 目立つ傷はない。治ってはきている。よかった。
 ………たぶん。これは。保護している人間に向けるべき感情じゃないんだと思う。
 つつつ、と白い肌に指を滑らせる。「しょうと」「ん」少し汗が滲んでいる肌を舐めると、俺を止めるように手を握られる。
 腰の翼には負担をかけないように、それでも逃げられないように抱いていると、そのうちは諦める。かけるべき言葉を探すようにあっちこっちに視線を彷徨わせながら、最後には俺と目を合わせる。
 辛くなってどちらからともなく視線を外すまで目を合わせ続けて、キスをする。口を開けて、お互いのぬるい温度を交わらせる。
 ……最初は義務感から連れ帰った。同じ部屋に住まわせた。それだけだった。それだけだったのに。

(きもちい)

 高校でも、プロになっても、恋愛なんてものはしないままここまできた。だからこれがどういう感情なのか自分の中で答えが出ないが、嫌じゃない。キスするのも、触るのも、嫌じゃない。
 キスが気持ちいいもんだってことも俺は知らなかった。
 そろりとした手が俺の顔の左側、火傷の痕を撫でる。
 労わるようなその手も、嫌じゃない。
 夢中になってキスをして、口の端を伝って落ちた唾液の感覚で我に返る。「しょうと、くち、ちいさい。ね」それで、少し離れた唇がそんなことを言う。「そうか?」「うん。かわいい」かわいいって。カッコいいなら言われ慣れてるけど、かわいいとか言うの、お前くらいだよ。
 モールでの一件から一ヶ月がたった雨の通院日。
 ようやく包帯を外すことを許可されたがぐっと伸びする。なんだかんだで包帯が窮屈だったんだろう。
 油断はできないが、ひとまず翼に血が滲むようなことはなくなった。
 そこでぐう、とでかい腹の音を聞いた。が自分の薄い腹を見下ろし、買ってやった携帯をタップして「たべる」と見せてきたのは流行りの密丼とかいう甘味だ。「……パフェと何がちげぇんだ?」どんぶりに入ってるだけで、中身はパフェと大差がない気がする。
 首を捻った俺には「たべる」「…はぁ」わかったよ。そんなに食いたいなら連れて行ってやる。
 仕方なく、乗り込んだタクシーで密丼が有名な人気店に行ってもらい、昼時だってのにできている行列の最後尾に加わる。
 これ、甘味で、昼飯としては腹は膨れないと思うんだが。昼の平日、雨が降っててもこの混みようか。結構時間がかかりそうだ。

「時間かかるぞ」
「うん」
「……諦めるって選択肢は」
「? たべる」

 ああ、そうかよ。じゃあ付き合って並んでやる。
 伸びてきて邪魔になった髪をかき上げ、切るか、とか考える。ある程度伸びたら耳にかければいいと放置してたけどやっぱり邪魔だ。
 事務所の美容院を予約しとくかと専用のアプリを立ち上げたとき、「もしかして、ヒーローショート…!?」女の黄色い声が背中にかかり、舌打ちしそうになるのを堪える。傘があるし、梅雨の今は帽子は蒸れるからって被ってこなかったが、やっぱり持ってくればよかったか。
 その声を皮切りに「えっ」「うそうそ!」「やだショート!?」上がる声、声、声。
 ここまで来ると、下手に隠すより、オフのヒーローショートのサービスをしてやった方がいい。めんどくせぇがスマイル、スマイル。
 仕方なく顔を隠してたマスクを下げると、前にいた女二人組が黄色い声を上げて場所を譲った。「ど、どうぞ! お先に!」「いつも活躍、見てます!」「ありがとうございます」笑んで返しての背を押して一歩先に進むと、前に並んでたカップルの女が赤い顔で彼氏の腕を掴んで「わぁ生ショート…あ、どうぞ!」これもまた道を譲ってくれる。

「ショート、は、ニンキ。だ」

 あっという間にレジまで進んで会計をすませ、店内で密丼とやらを待ってる間、はスムージーをすすりながらそんなことをぼやいた。
 店の外では『ヒーローショートが来ている』ってことで行列がすごいことになっているし、写真もバシバシ撮られている。人気といえばそうなんだろう。自分ではピンとこないけど。
 アイスコーヒーをすすっていると、たくさんの客がいる中でも優遇してくれたんだろう、そう待たずに密丼が運ばれてきた。…プリン、アイス、果物に生クリームその他が本当にどんぶりに入ってる。胸焼けしそうなサイズだ。
 甘そうなスムージーをすすり、満足そうな顔でスプーンを口に運ぶを頬杖をついて眺める。
 周囲の視線やカメラが鬱陶しいことを除けば、こういう時間も、嫌いじゃない。
 満足そうにしてるお前を見るのは、どっちかといえば、好きだ。

「うまいか」
「あまい」
「そりゃあそうだ」

 はい、とパフェをすくったスプーンを差し出され、少し考えたが、まぁいいかと一口で食べる。
 週刊誌とか、騒ぐんだろうな。でもまぁ、相手が女じゃないだけいいだろ。
 薄っぺらい腹に密丼が消えていくのを眺めながら、夢中で食べすぎて頬についてるクリームを指ですくって食べる。甘い。甘いもんは苦手じゃないが、お前みたいには食えない。
 密丼を食って満足したを連れて帰り、遅い昼飯は俺が蕎麦ではうどんを食った。
 午後は、が日本語の勉強をしてる横でタブレットで仕事関係の書類をすませてしまう。
 今日は病院に連れて行くために有休にしたが、仕事が滞ってるから、午後は在宅でできるもんはやっておく。
 それで、夕方のニュースで昼間の俺が取り上げられていた。プライバシーもクソもない。「ショウトだ」テレビを指すに、今日は俺が夕飯の支度をしながら「そうだな」とぼやいて返し、リクエストである親子丼のために炊飯器に米をセットする。明日事務所にうるさく言われそうだな…。

「ショウトは」
「ん」
「ダレ、で、も、いいの?」

 手を止めて振り返ると、黄色い瞳がじっとこっちを見ていた。「何が」「あれ」テレビの中、密丼の人気店にいる自分はやわらかい顔でどんぶりの中身をすくって食べるを見ている。
 客観的なその様を見て、自分の顔に触れてみる。
 俺はお前といるときああいう顔してんのか。知らなかった。

「誰でもいい、わけじゃない」

 言葉を吐き出すと、は首を捻った。実感がないという顔だった。
 ち、と舌打ちが漏れたのは、不甲斐ない自分と、無自覚なお前への焦燥から。
 誰でもいいわけじゃない。俺は誰にだって優しいわけじゃない。お前だから連れ帰って、お前だから面倒をみてる。
 そう言ってしまえばいい。俺はたぶん、お前のことが好きなんだと、言ってしまえばいいんだ。
 の前に立ち、シャツの襟首を掴んで噛みつくキスをする。
 嫌がられることはない。ただ、躊躇ったような視線が惑うだけだ。
 お前を保護すると掲げたお綺麗なヒーロー像が足元から崩れていく。
 代わりに顔を出すのは身勝手な欲望だ。人間らしい欲求がヒーロー像を容赦なく砕いていく。

「好きだって、言ったら、どうする」

 ……ずるい言い方だと自分でも思った。「Like? Love?」「Loveの方」ぼやっとした顔にもう一つキスをする。唇を噛む。実感できるように。これまでの人生、痛みと隣り合いすぎて、それ以外の感覚が鈍くなっているお前にもわかるように、何度でも口付ける。
 調理のときのエプロンを解いて投げ捨て、薄い体に手のひらを這わせ……まだぼやっとした顔をしているを前に手を止める。
 されるがまま。そういうお前がいつも嫌だった。そのぼんやりした顔も嫌いだ。どうしたらお前はもっと生きているってことを実感して、笑うんだ。

「好きにしろ」
「……?」
「俺のこと。したいようにしていい」

 梅雨の湿度で満たされた部屋は暑い。熱いのと勘違いしそうなくらいに。
 Tシャツを脱いで落とした俺に、はまた首を傾げた。その視線が俺の顔から体へと落ちたことでじわりと汗をかく。まるで緊張してるみたいに。
 細い腕が伸びて、触れるのを躊躇うような間のあとにぺたりと首に添えられて、そのまま鎖骨をなぞって胸へと落ちる。「おれの。スキに。して。いいの?」顔を寄せてきたの唇が鎖骨を食むと、またじわっと汗が滲む。
 俺はお前に何かを強要したくない。
 俺から触れれば、お前は応えるけど、それじゃいけないんだ。お前からじゃないと意味がない。
 引き寄せる腕に導かれるままソファに膝をつく。「スキに、する。よ?」見上げてくる黄色い瞳に浅く頷いて、辛いな、と思うくらい目を合わせて、口で口を塞ぐような息苦しいキスをする。
 ………ヒーローらしい綺麗な話から、とても個人的な、情と欲に溺れた話にはなるが。

(俺と、お前の。愛のかたちを。さがそう)

 ゆっくりでいい。戸惑いながら、躊躇いながらでいい。そうやって迷う指は俺が握り込んで引っぱってやるから。
 行きたい場所へ行って。やりたいことをやって。そうやって生きて、笑ってくれ。俺が願うことはそれだけだ。