暑さはまだ続くが、夏、と言える八月が終わった九月の一日。
 各方面に時間をかけて根回ししていたかいあり、兄である轟を俺の秘書役にするという一つの目標が叶った。「マジかー…」俺が本気だと思ってなかったのか、採用の書類その他を持ち帰ってきたその夜、は参った顔で書類と睨めっこを続けていたが、最後には観念したように署名の欄にサイン。俺の専属秘書という形でヒーロー事務所に所属することになった。

「オレが決めていいわけ? 取材受けるか受けないかとか」
「ん」
「あとで文句言うなよ?」
「言わない。がやれって言うんならやる」
「そ。じゃあこのCMの依頼受けちゃうよ、いい?」

 氷の個性を使う俺をぜひ起用したいという新作CMの依頼を表示したタブレットを突きつけてくる兄に「好きにしたらいい」と返すと、さっそく電話で連絡を取り始めた。「お世話になっております。わたくしヒーローショートの専属秘書で轟と申します」わたくし…。真面目に仕事してるの似合ってねぇな。面白い。
 今は出動要請があるまで事務所で書類その他の処理をする時間で、新人だけど人気者、あとは親父の贔屓目もあって、俺には個室が与えられている。
 今は家の外だけど、誰の目もない。
 ソファでタブレット片手に電話を続けているのもとまで行って後ろからぎゅっとしてみる。「おっ…いえ、失礼しました」何すんだ、と睨まれたけど知らん顔でタブレットで表示した書類にタッチペンで署名をしていく。
 仕事はしてるんだから文句ないだろ。こうしてた方が俺は落ち着く。
 じんわりとしたぬくもりを感じながら淡々と電子の書類に目を通しショートと署名していく作業の時間。
 耳に入るのは兄の声とタブレットを叩くペンの音だけ。
 CMの話がまとまったらしいが電話相手にぺこぺこ頭を下げながら通話を終えて、じろ、と俺を睨んでくる。「ショート」「焦凍」「今は仕事中だろ」「二人のときにショートとか言わないでくれ」逃げずに見つめ返していると、負けたのは兄の方だった。はあぁと溜息を吐く顔が本気で俺に失望しているなら傷つくとこだけど、俯き気味に逃げるその横顔は『手がかかる奴だ』と言っていたから、お前の手を煩わせて俺だけで埋めたい身としては満足だ。お前は家でも仕事でも俺のことだけ考えてればいい。
 兄を秘書にしてから俺の仕事面での効率は上がった。
 朝から晩まで一緒で、俺が外回りに出ているとき兄は事務所で仕事をしているから安全面も確保できる。
 そうやって安堵できていたのは最初の一ヶ月だけだった。
 秘書って仕事に慣れ、俺の専属秘書のって存在に慣れてきた世間は、プライベートでもアイツを通して俺とのアポを取ろうとしたり、俺の弱みとして付け狙ったり……と面倒なことが顔を出し始める。
「いない? なんでですか」
「や、わかんないよ。さっきまでそこにいたんだけど」

 氷を使った炭酸飲料のCMを終えて探したらいつものスーツ姿が見つからなくて、そのへんのスタッフを捕まえて聞いたらなぜか兄がいないと言う。
 ち、と舌打ちをこぼして携帯を引っぱり出し、のネクタイに忍ばせてあるGPSを探知できるアプリを起動すると、反応はこの建物内だった。階数まではわからないが電波の強さを追えばなんとかなる。
 まずはトイレとか平和的な事情である可能性にかけてみたが空振りし、最終的に、地下で縛られて車のトランクに詰め込まれるところだったのを保護した。
 ヴィランはその場で氷漬けにして細胞が壊死していく恐怖に落とし込み、スタンガンか何かで気絶させられたらしい兄を固く抱く。
 実力ある目障りなヒーローの排除。そのために人質を取る。
 ヴィランは手段を選ばない。それなのに俺は手段を選ぶ必要がある。を攫おうとした奴らの生命を保証して警察に引き渡さないとならない。なんて面倒な誓約なのか。「冷たい、痛い。たすけてくれ…」細い声に視線だけ投げて、青い顔をしているヴィランをそのままにして、抱き上げた兄を介抱するために上の階に戻る。
 多少凍傷負おうが、指先が壊死しようが、死なないだろ。死なないなら、このくらいの罰は受けろ。

「ねぇ、ショートの連絡先教えてよ〜」
「ダメです」
「ケチぃ。ね、イイコトしてあげるから」

 プロヒーロー同士で対談をしないとならなかったあるときは、性に訴え出て胸元の開いたドレスを着た女に詰め寄られ、パーティー会場で視線を泳がせ逃げたそうにしている兄がいた。
 惑う視線で助けを求めているのに、檀上でプロヒーローと話をしている俺は兄のもとへ行くことができず、豊満な胸を押し付けられてなるべく体を離し逃げようとしているを十五分に渡って見せつけられるという拷問じみた時間を味わった。
 壇上で何を喋っていたのかは記憶にない。ショートと呼ばれてかろうじて相槌のようなものを打っていた気はするが、俺の意識のほとんどは兄を惑わす女への嫉妬やら羨望やらに染められていたから。
 その日の夜はの服を剥ぎ取って、明日も仕事だと諭す声を無視してセックスをした。
 何泣いてるんだと困ったような顔で言われたけど、気持ちがいいから勝手に涙が出てくるだけだと誤魔化した。
 ………俺には胸はないし、筋肉ばっかで、女みたいなやわらかさは欠片もない。ああいうふうに兄を誘惑することはできない。
 視線を逃がしながらもどこか満足そうだったあの顔が忘れられない。
 俺だけを見てほしいのに。俺だけで埋まってほしいのに。俺だけの人であってほしいのに。他の誰も見ないでほしいのに。全然、うまくいかないな。
「轟くんてさ。もしかしてだけど、好きな人、いるんじゃない?」

 たまには雄英同期生で飲み会を開こう。プロヒーローになってからこういうのしてなかったし、みんなで久しぶりに話そうよ。
 そう言ってきた緑谷と、そういうのも大事だと兄に背中を押されて行くことになった居酒屋の、かつてのクラスメイトが騒ぐ空気の中で、何気ない口調で、だがどこか確信めいた響きを持って言われた言葉。
 今頃何をしてるのかと兄のことを考えながらビールのジョッキを撮って『久しぶりに同級生と飲んでる』とツイート。早く帰りてぇなと思いながらこの間撮ったの後ろ姿を眺めていたところから顔を上げると、真剣な表情の緑谷がいた。
 好きな人。……インタビューとかでもさんざん聞かれて、未だにしっくりこないままの言葉だ。

「なんでそう思うんだ?」
「それ」

 携帯を指す緑谷になんとなく画面を隠す。向かいにいる緑谷に兄の写真まで見えちゃいないだろうが。
 やわらかい表情で「轟くん、優しい顔して携帯見てたから。相手がそういう人なんだろうなって思って」緑谷にそう指摘されて、自覚はなかったがどうやら緩んでいたらしい顔に手をやってみる。
 人を、好きになる。誰かを好きになる。
 それが具体的にどういうもんなのか、俺にはよくわからない。
 家庭が家庭だったし、俺にはがいて、それ以外はいらない状態がずっと続いてた。知った顔して近づいてくる教師は鬱陶しかったし、俺の気を引こうとあの手この手を尽くす女子も鬱陶しかったし、そんな俺を遠巻きにけなす男子も、すべてがただ鬱陶しかった。
 足りないものはが埋めてくれる。心も、体も。
 わざわざ他の誰かを好きになってまで埋める必要なんてなかった。
 がいれば俺は満ちていた。「…その。好き、ってのが、俺にはよくわからない」こういうことを言ってもきっと笑わないだろう緑谷だからこそ吐露すると、相手はこんなときでも持ち歩いているらしいノートとペンを持ち出して何か書き始めた。

「僕も偉そうに言える立場じゃないんだけどね。僕が思う好きっていうのを箇条書きしてみると……」

 その人がいたら他に何もいらない。逆に、その人がいなきゃ、世界は味気ないし、色がない。物足りない。そう思ってしまう相手がいたら、それが好きな人なんだと思うよ、と言う声に、今ここにいない兄を想う。
 全部当てはまる。がいたら他に何もいらないし、がいなきゃ世界に意味はない。全部が当てはまる……。
 そこにいたら兄のことを目で追うし、隣に並びたいと思うし、声が聞きたいと思う。
 俺はあの人のことが好きなんだろうか。好きだから守りたいし、好きだからどこにもやりたくないし、誰にもあげたくないし、独占、したいと。思うんだろうか。
 じっと緑谷の字を見下ろしてこれまでの自分とのことを考えていると、背中に重み。「ウェーイ! 何してんだよ二人して、真面目な顔でさ〜」どっか顔が赤い、半分くらい出来上がってそうな上鳴が勝手にノートを覗き込み、慌てて閉じる緑谷に構わず「おー恋愛!? 恋愛相談だったりする!? マジか〜!」バンバン背中を叩いてくる。いてぇ。まだ始まって一時間もたってないのに酔ってんのか。

「なーみんな! 恋バナしない!?」
「ハァッ!? いきなり何言ってんだバカっ」
「いやいや、プロヒになったわけだし、色々出会いあったっしょ? 酒が入ってるこんなときでもないとぶっちゃけないしさ〜なぁ恋バナしようぜ〜!」

 空気を読んでないのか、あえてそういう振舞いをしてるのか。酔ってるのか酔ってないのか、上鳴が言い出した恋バナってヤツに食いつくのは女子が多く、その女子に強要されて男子も渋々口を開く、という流れの飲み会に、ビールのジョッキを呷り、蕎麦はないと言われたから仕方なく枝豆を食べる。
 俺はのことが好きなのかもしれない。
 そのことを意識しながら改めて人の恋バナってヤツを聞いてみたが、なるほど、相手を思い浮かべることができるとしっくりくる場面が多い。「でさ、イイ感じにデートまでいけた。当然二人だ。ここまでくるとそろそろ告白を…というところで」「というところで…?」「その子にはすでに相手がいたと知った……」「ま、まじかぁ…辛いな……」がっくりと肩を落とした瀬呂の肩を砂藤が同情気味に叩いている。
 もし俺がとデートしていて、映画見て雰囲気が出来上がったところで女が登場して兄を攫っていったら。個性使ってでも追いかけて奪い返すが、悔しくて悲しい。と思う。泣きたくなると思う。そんな状況になったらしい瀬呂には本気で同情する。
 相変わらず真面目な飯田は恋バナ会になった飲み会でも司会進行役をしている。「では次、轟くん!」「お」指名されて枝豆が手からすっぽ抜けた。いっせいにこっちを見てくる目、目、目。

「轟はモテるからね。テレビでも特集番組あるし、インタビューも引っぱりだこ、雑誌でも表紙を飾るのは当たり前」
「そんな轟の恋愛話とか? そりゃーみんな興味あるよな?」

 無駄にハードルを上げてくる芦戸と峰田。勘弁してくれ…。
 緑谷の気遣うような視線を感じつつ、空になってしまったビールのジョッキに目を落とす。「つまんねぇぞ、俺の話は」「スキャンダル話がつまらないハズがない!」「…スキャンダル。ね」基本と行動を共にしてるが、ときたま、女を寄越されて仕組まれることはある。熱愛か、とか、そういうヤツ。これまで気にしたこともなかったが、世間ではそういうのは気を遣うべきモノなんだろう。
 が苦笑いしてまたヤられちゃったなぁと同情してくる、話のタネくらいにしか考えてなかったけど。もしそういうウワサがの心を一ミリでも傷つけるのなら、もうしない。これまでより気をつける。

「………みんなの話、聞いてて、ようやく確信したんだが。俺にも好きな奴がいるんだ」

 今頃パソコンでも弄ってるか、テレビを見てるか。
 切るのが面倒だからと夏の間伸ばし続けて結べる長さになった白い髪。うなじの辺りで一つにまとめたその首筋を思い出すと色々と疼く。
 持ち帰ってまで仕事はするなと言ってあるけど、秘書だからそういうわけにもいかないんだよと仕事用の携帯を持ち歩いているが家でまで仕事をしてないことを願う。
 ざわり、と揺れた空気は気にせず「小さい頃から、一緒にいるのが当たり前だったから、気付くのが今頃になった。我ながら馬鹿だよ」俺が好きだと伝えたら兄はなんて言うだろう。どんな顔をするだろう。
 最近俺と近いと顔を逸らしたり逃げようとしたりする姿を思うと、まったく意識してない、ってことはないはずだ。
 世間的に言わせれば顔に火傷の痕があっても俺はイケメンらしいし、そのイケメンってものがにも効果があればいいなと思う。

(これまで数え切れないほどセックスしてきたのに、気持ちは伴ってなかった。無自覚だった。気持ちがいいことで満たされていた。愛は、あったけど、なかったんだ)

 俺が片思いだという事実に衝撃を受けている元クラスメイトたちから質問攻めにされるよりも早く、「次僕だね!」と挙手した緑谷は、たぶん、俺を気遣ってくれたんだろう。「実はちょうど相談したいって思ってたんだ。聞いてよ…」続く言葉に耳を傾けながらラインの画面を見つめる。ほとんど一緒に行動してるから最近これで連絡を取り合ってない。
 これで、好きだ、と打って送信するのは簡単だ。本人を目の前にして口にするより、指先一つで想いを伝えられる。簡単で便利。
 でもやっぱ、直接伝えてぇな。どんな反応するのか、怖いけど、見てみたい。
 好き、と打ちかけた文字を消してラインを閉じる。代わりにグーグルで『好きになった相手にはどうアピールしたらいいのか』を検索しつつ、盛り上がっている恋バナの話に耳を傾ける、こういう時間も悪くはないのかもしれない。