「ヒーローに親を殺されたの」

 その人は、端的に言えば、頭のおかしい人だった。
 口癖のようにヒーローに親を殺されたというけれど、その両親からはたまに電話がかかってくるし、それを当たり前のように取って応対するし、当たり前のように通話をしながら、当たり前のように、俺の手首をカミソリで切る。
 ざく、という音と感触にはもう慣れた。
 流れた血はすぐにカツンカツンと音を立てて結晶化して床に転がり、失血死しない程度のところでその人の個性で止血されて傷口を塞がれ、失った分の血を補えとばかりに色々なことをされる。栄養素の注射、精のつく食べ物その他、俺が回復するまでは、いい生活をさせてくれる。
 体が回復したら、またどこかを切られて血を取られ、三日に一度は射精も強制されて、とにかく体液という体液を搾り取られ続ける。そういう生活をもう十年もしてきた。
 どうしても体が回復しなくて、しんどくて寝込んでいるとき、狂っているその人は、ときどきだけど、とても心配そうに俺の世話をする。
 たぶん、生来はそういう人だったんだろう。美人だと言える部類なのに、今は口を開けば頭がぶっとんだことしか言わないけど。
 会社のものか、口座の残高を見つめて「足りないわ。これじゃあ全然」ブツブツと独り言を言いながら、檻の外にあるソファで足を組んで何かの計算をし続け……熱が下がってのろりと起き上がった俺に気付くと、にこりと笑んで、その手にナイフを握る。

「お金が足りないの。もっとたくさんいるの」

 だから、もっと、血を流して。そう言って振りかぶられたナイフの切っ先が迷いなく俺の首を狙う。
 ざくり、と首を切った冷たい刃が肉を抉る鋭利な感触に、溢れた赤が次々と結晶になってバラバラと自分から散らばり落ちていく。
 思わず首を押さえて目を開けると、ベッドの上だった。「……ああ」ぼやくように呻いて目を閉じて、首の傷痕を押さえていた手をぱたっと落とし、もう一度瞼を押し上げる。
 あのビルと違って狭い部屋は向かい合う位置にベッドがあって、そこに一人、紅白頭をしたきれいな人が寝ている。あの人とはまた違う種類のきれいな人だ。

(そうだった。助けられたんだった)

 いや、これは助けられたでいいのか? そんなことを考えながら寝起きで跳ねてるうざったい髪を払って起き上がり、部屋を出れば、広くはないリビングダイニングがある。
 轟焦凍、というあのきれいな人は食に無頓着だ。放っておくとサプリと水とエネルギーバーですませようとする。俺が作らないとなって義務感も芽生えるってもんだ。
 しかし、調理はまだ初心者なので、包丁を握る手がおぼつかない。
 刃物。それを見て手首に当てられるカミソリの刃を思い出すあたり、どうしようもない。「大丈夫」自分に言い聞かせて、そのためにセラミックの白い刃の包丁を買ったんだろうと思う。大丈夫。これは鈍い銀色をしていない。俺の手足を切ったりしない。大丈夫。
 栄養を考えて、今朝は食パンに、下味をつけたサラダ、煮て割いておいた鳥の胸肉をはさむ。
 これにお湯で溶かせばいいだけのスープを用意すれば完成だ。調理始めたての男子にしては頑張ってる方じゃないだろうか。
 出来上がった朝食二人分を小さなテーブルに並べ、まだ寝てるらしい轟を起こしに行く。

「轟さん」
「ん…」
「朝ですよ」
「ぅ」

 色の違う両目を薄く開けてこっちを見上げたぼやっとした顔は、きれいだ。イケメンってやつ。
 いいな、俺もこういう顔立ちがよかったな。こんなピンクの髪と中性的な顔じゃなくて。
 そんなことを思いながら「ご飯だから起きてください」と腕を掴んで引っぱって、轟はようやく起き出す。まるで手のかかる大きな子供だ。これでプロのヒーローやっててもう二十五歳だとか信じられない。俺の方が生活力があるってどういうことだ。
 今は俺の護衛が主な仕事だとかで、タブレットで無表情に書類仕事をしてるところしか見たことがないけど。たぶん、やればできる人なんだろう。俺といるときやる気のスイッチがオフになりっぱなしなだけで。
 ねぇ、この島にヒーローが来るの。たくさん来るの。だから私は逃げるけど、とこぼして伸びた手が俺の頬を撫でる。
 絶対に迎えに来るわ。それまで頑張るのよ。
 にこりと笑んで建物の屋上へと向かったその人は、迎えに来させたヘリでどこかへと行ってしまった。
 普段から言動のおかしい人だから、てっきりいつもの戯言だろうと思ってたら、次の日本当にヒーローが来て、驚いたな。
 ……十年、生きながら地獄にいるような痛みの日々を味わわされてきたのに、俺はあの人を憎めなかった。頭がおかしくて言動もおかしいけど、美人だったあの人を憎むことができなかった。
 ときどき本気で心配したように寝込んでいる俺の世話をする、あの顔を、まだ忘れてない。
 手にも足にも首にも、消えない傷ができた。所有物みたいな扱いをされてきた。
 俺の個性が発現して以降、一度も会うことがなかった両親は、もう用済みとして処分されているって頭ではわかってる。指示したのがあの人だろうってことも。
 それでも俺はあの人を憎むことができなかった。憎む理由はたくさんあったのに。
 今も。轟を目の前にしているのに、狂気の色のないあの人のことを思い浮かべている。
 たぶんこれは、世に言うあれだ。ストックホルム症候群。生き残るための当然の戦略として、犯人に自分を適合させる。小さな、たまにみせる親切心に感謝を抱く。そうやって犯人に協力的になることで生き残る確率を上げようとする。

(自覚してるだけ、俺はまだ冷静なんだろうけど。それもまた考えもんだ)

 まぁまぁ、70点。鶏がもうちょっとジューシーだと80点。そんな自己採点の朝食を食べ、片付けは轟に任せ、テレビをつける。学生島らしくテレビでは学生向けのCMが目立つ。

「ヒマなんですが」
「ん」
「轟さんは、仕事があるんでしょうけど。俺にはすることがないです」

 この島であの人たちを誘き出すための餌になれ、って話は了承してるしわかってる。それを抜きにして、俺にはやるべきことっていうのがない。
 轟は考えるように天井付近に視線を投げると、「ゲームとか、買うか」と言う。これには飛びついた。何せ携帯は持たされなかったし、あの部屋にはテレビはあってもゲームはなかった。「ゲームしたい」「俺は詳しくねぇから……それ使って調べてくれ」それ、で指されたのは轟のタブレットだ。使っていいらしい。
 タッチすれば動くという画期的な機械を手に四苦八苦して、現代の文明からかけ離れている自分の現状がちょっとだけ悲しくなる。「じゃあ、これ」持ち運びでもできるし、テレビに繋いで大画面ですることもできるゲーム機を表示させると、あっさり頷かれた。値段なんて見てない。さすがイケメン人気ヒーロー、お金がある。
 早くゲームが欲しくて、学生島の中でも一番大きいというモールにタクシーで連れて行ってもらい、お目当てのゲーム機本体とゲームを何本か購入。人生初のゲームにわくわくしながら、部屋に戻ったら速攻でゲーム機を開封。まずは本体を充電、その間に取説をざっくり斜め読みする。
 最初はこれだ。日本でもテーマパークとかできてる有名なキャラのゲーム。国民的なゲームだってことは知ってるけど、それしか知らない。
 ゲーム機とテレビをコードで繋いで、充電したままでもできるってのを信じてやってみると、本当についた。「おお……」差し込んだソフトの初期設定が整えばもう遊べる。簡単。へー。
 人生初のコントローラーを握り、いざ、スタート。
 そのゲームは赤い帽子を被ったおじさんが主人公で、子供でもわかりやすい大げさなリアクションのストーリーに、難しい日本語もない。世界観もなんとなく入り込めてなんとなくついていける感じで、初めて触るゲームとしては最適。
 夢中になってコントローラーのボタンを連打して、画面から目を離すのを忘れてのめり込んでいると、カラン、と音がした。「ん」差し出されたタンブラーに視線をテレビから引き剥がすと、眼鏡をかけた轟がいた。眼鏡をかけててもイケメンだ。

「休憩しろ」
「はい」

 確かに、目がシパシパしてる。涙も滲んでる。
 下を向いて涙を払い落し、床に落ちてカツンと音を立てた結晶を轟の指が拾い上げる。
 タクシー乗り場の近くにあった出店で買ったシュークリームが並んでいるテーブルに、そういえばそんなものも買ったな、と思う。ゲームに夢中で忘れてた。
 あれ。っていうか。「お昼……」すっかり忘れてた。午前中に出かけて帰って来たのに、ずっとゲームしてた。もう三時……。
 轟は仕事が一段落したらしく、よく似合ってる眼鏡を外してチェアに腰かけた。普段から水とサプリとエネルギーバーで食事が事足りる系の男だからか、お昼がなかったことに関してはとくにコメントはないし、気にしてるふうでもない。
 しまったな。こんなことなら大人しくモールのお弁当を買ってもらうんだった。

「ゲーム、面白いか」
「すごく」
「そりゃよかった」
「…轟さんもします?」

 シュークリームをかじりながら訊いてみると、緩く頭を振られた。興味はないらしい。
 ……これで何度めかの甘い物になるんだけど、食べてみてわかった。俺、甘味苦手だ。胃があんまり受け付けてない感じがする。次に買うってときは遠慮しよう……。
 今おやつ食ってコーヒーすすってるわけだから、すぐにはいらないと思うんだけど。「夕飯はカレーでもいいですか」調理初心者ならまずマスターしたい代表料理、カレーを挙げると、相手はあっさり頷いた。
 よし、じゃあそういうことで、おやつ食べたら目の休憩がてら炊飯器の準備だけはしておこうか。

(平和だな)

 冷凍保存分も含めて三合の米をとぎながら、絶対に迎えに来るわ、と耳元で囁く声を聞く。
 でも。だから。きっと。当たり前みたいなこの平和な時間は、長くは続かない。