一週間に一度、俺の交代要員として学生島に派遣されたヒーローから、親父宛にメールが入る。仕事の『進捗』についてのものだ。
 そこには今週も取り立てた異常はなく平和だったと書いてあり、最後に一枚の写真が添付されていて、今週のはベランダでカフェオレをすすっていた。
 その写真をコピーして自分の携帯に入れ「ショートさん、困りますよ…」参った顔をしているサイドキックに「もう行く。邪魔した」と残して部屋を出る。
 今日で学生島から引き上げてきて三週間になる。
 まだあそこに戻る具体的な日付までは詰められてないが、各方面に金と権力に物言わせて許可を迫ってる最中だ。
 もう何日かすれば俺の所属事務所が変わり、学生島に常駐になることも叶うだろう。
 こういうとき、親がエンデヴァーだと便利だな。今回くらいは感謝してやってもいい。

「あれ、轟くん!」

 憶えのある声に振り返ると、緑谷がいた。隣には飯田もいる。「久しぶりだね。学生島以来!」「うむ。お互い大きな怪我もなく、変わらずのようだ」「おう」二人に片手を挙げて応え、要請もとくに入ってねぇからってことで、三人で昼を食べることにした。
 俺は蕎麦以外ならこだわりはないし、店については二人に丸投げして、さっきコピーしたの写真を携帯の待ち受けに設定してぼおっと眺める。
 今も、今日も、俺と暮らしたあの部屋で生活してるんだろう。俺の知らない野郎と一緒に。
 いや。それは正しくないか。相手のヒーローは知ってる。調べようと思えば事細かに調べることもできる。親父が抜擢した人間なんだからおかしな奴じゃないってこともわかる。わかる。が。これはそういうんじゃない。
 知らず握り締めていた拳を意識して解き、「轟くん、ちょうどここ空いてるって。洋風レストランだけどいいかな」「おお」二人に丸投げしていたから、異議なしでレストランに入店。窓際の席に案内され、緑谷と飯田に向かい合う位置に座る。
 二人はとくに変わってない。二ヶ月で早々人は変わらないってことだろう。
 だけど俺は。変わってしまった。
 それがいいことなのか悪いことなのか、未だにわからない。
 たった一人の人間に執着して、たった一人の人間のために周りを振り回して、進みたい方向へ身勝手に歩いていこうとしている。それはたぶん、悪いこと。なんだと思う。

「なぁ」
「うん?」

 今日は飯田が好きなビーフシチューを三人で食べながら、ちぎったパンにシチューをつけると、自然とと食べたものを思い出している。「俺、恋したかもしれないんだ」今は緑谷と飯田と飯を食ってるのに、轟さん、ついてますよ、と呆れた顔と声で手を伸ばして俺の頬を撫でた指を思い出している。
 二人はぽかんとした顔を見合わせ、揃って席を立って大げさに驚いた。「え、えっ、恋って、轟くんが!?」「ああ」「浮いた噂の一つもない君がかい!?」「ああ」カフェオレをすすると、甘くないのが好きだと言っていた春の色を思い出している。
 見た目はあんなにふわふわ甘いのに、甘いものは好きじゃないって言うし、かわいいって言われるのも嫌いだって言うし。コーヒーはブラックもいけて、飯は結構食う。白い服でカレーも食う。そういう意外なところがかわいいと思う。……本人に知られたらまた怒られるな。
 緑谷は結構鋭いから、席に座って落ち着いたところでピンときたように気がついた顔をする。「もしかして……僕らも知ってる子?」「ん」飯田はそんなに勘がいい方じゃないからまだ真剣に悩んでる。

「でも、轟くん。言わせてもらうけど……まだ未成年だよね」
「ん」
「あと、男の子、だよね」
「ん」
「えっと。ごめんね、これも言わせてもらうけど………僕個人の意見は、別にいいと思う。でも、炎司さんがすごく口うるさいんじゃないかな」

 わかりきってることだった。だからこれまでこっそり親父の執務室に入ってはについての報告書を盗み見て写真をコピーしてたんだから。
 ……兄さんも、姉さんも、なんだかんだで結婚した。外から見てる分にはそれなりに幸せにやっていってると思う。
 あいつはその方程式に俺も当てはめて、個性婚で作った生い立ち不幸な子供がそれなりに幸せになるのを見たいんだ。間違いを犯した自分の人生からの重荷を取り払いたいんだ。
 個性的には一番の成功作でありながら、人としてはあんまり成功してるとはいえない俺を『幸せ』に祀り上げて、楽になりたいんだ。
 別に、それが悪いことだとは思わない。
 親父はそれなりに苦しんできたと思う。家族に償うために生きてきたとも思う。けど。それに俺の人生をまた狂わされちゃたまらない。

「もう決めたんだ。俺はあいつと一緒に生きる」

 春の色の髪が揺れて、轟さん、と呼ぶ声に揺り起こされる。ぼやっと眺めたまま返事をしないでいると、ご飯ですよと呆れた声と顔が俺の手を引っぱって起こす。
 …………蕎麦以外の食べ物を、美味い、と思いながら食べる日が来るとは思ってなかった。
 早く学生島に戻っての作る飯が食べたい。一緒に蕎麦打ちしたい。前はさんざんな結果で終わったけど、こっちにいる間に俺も練習した。次作るときはもっと上手にできる。
 あと、いい加減、お前のこと触りたい。写真をオカズにして抜くだけじゃ気が狂いそうだ。



 ようやくピンときたらしい飯田が驚いて席から飛び上がって眼鏡がずり落ちた。「と、轟くん、本気かい? まだ未成年の男子だぞ」「わかってる」「いくら君が誠実なヒーローとはいえ、法的には厳しい面もある。俺は心配だ」…それはな。もうアウトだとは、真面目な飯田には言えねぇな。
 賑やかな昼食を終え、それからさらに一週間が経った頃、ようやく各所の必要な許可を得て親父に突き出しに行くと、ゲロでも食ったのかって苦い顔をされた。「焦凍……俺の執務室に勝手に出入りしていたらしいな」彫像みたいに突っ立ってるサイドキックに視線を投げるとあからさまに逸らされた。チクりやがったな。娘のためにサインしてほしいっていうから叶えてやったのに。
 まぁ、別にもういい。必要な許可は集まったし、親父にはその報告をしに来ただけだ。お前より上の立場の人間の許可があれば、お前の許可なんていらない。
 うるさい親父を置いてさっさと部屋を出て、タクシーで自分のマンションに戻り、売り払う予定の部屋や家具を無感動に眺める。
 ここにが来られるなら、それもいいかもしれないが。あいつの個性を考えれば、街でヴィラン率も高くなるこの場所にいるより、あの学生島でひっそりと暮らしていく方が、面倒なことに巻き込まれずにすむと思う。
 もう一ヶ月暮らした。暮らしてくのに困るほど田舎じゃないってこともわかってる。
 こじんまりとしたあの島で、二人で生きてくんだ。
 それはきっとささやかな幸せに満ちた、幸福な日々になるはずだ。

(言葉じゃなんとでも言うけど、お前も俺のこと嫌いじゃないだろ)

 カフェオレをすすっているの写真を暗闇の中で眺めて、同じようにカフェオレを用意して、ベランダで都会の空を見ながらカップを傾けて……唐突に気がついて、全身の血の気がさぁっと引くのを感じた。
 手からカップが落ちてベランダに転がって中身の液体をぶちまける。
 痕。
 傷痕が。新しいものが。ある。
 写真を拡大して、少し伸びたなと感じる春色の髪に隠れている首筋を睨む。
 何度も触った。何度も見た。舐めもした。憶えてる。「違う。これはなかった」ひときわ大きな傷跡は写真の中でもまだ真新しいように感じる。
 さっきまで幸福な日々を想像していたのに、今はとにかく、背中が冷たい。もう夏も近いってのに。
 今と一緒に暮らしているはずのヒーローの携帯を鳴らすが、出やしない。コール音が鳴り響くだけ。
 ち、と舌打ちして、これまで週に一度送られてきていた写真を見直せば、一枚目は手首に、二枚目は足首に、憶えのない傷痕があった。
 最初から、痕はあった。
 がいつも通りの顔をしてて、日常を送ってる顔をしてて、何も変わってないよとでも言いたげにカメラを見てるから。気がつかなかった。俺の目は節穴だ。
 親父に土下座して頼み込んで個人的に船を出してもらい、暗い海を行く小型船の中で、気持ちばかりが急いた。
 今日の昼間に親父宛に届いたメールの報告書にも写真が添付してあり、そこに写っているの手首にはまた新しい傷が増えていた。

(最初から、はヴィランの手の内だった)

 深夜の学生島に上陸、個性で飛んでアパートに飛び込んで、言葉をなくした。
 ここでの護衛をしているはずのヒーローは、の結晶の中にいて、そういう芸術品みたいに部屋に鎮座していた。
 ……の結晶は一度こうなってしまったら解除はできない。中にいるヒーローは、もう死んでる。
 気温が高い今、死体があれば腐って臭って嫌でも気付くが。この結晶の中にあることで腐るということもなく、臭いも漏れず、誰も、部屋の異常に気がつかなかったんだろう。「これは……」部屋の奥まで踏み込んだ親父が携帯を取り出してどこかに連絡を始めるのを遠い意識で聞く。
 人を一人、結晶で包むのに、がどれだけの血を流したのか。考えるだけで寒気がした。

(離れるべきじゃなかったんだ。何もかも跳ねのけてそばにいるべきだった)

 小さなテーブル。と何度も飯を食ったテーブルにメモ用紙が置いてある。
 よろけながら歩いて行ってメモを覗き込むと、『冬支度をしましょう』と意味不明な言葉が歪な文字で書いてあった。もう夏だっていうのに、冬支度? 意味がわからねぇ。
 ふざけんなよ、と思うのと同時に、これまでヒーローをしてきて磨かれた第六感が逃げるべきだと囁いた。

「親父!」

 部屋の奥にいた親父は窓から、俺は玄関から飛び出して、一秒後、部屋が爆発した。
 ガス臭さとかはなかったはずだが、空気がこもっていて変だなとは感じてた。
 部屋に死体の入った結晶が鎮座してること、のことがショックでくる精神的なもんかと思ってたが、そうじゃなかった。おそらく個性だろう。勘を信じて飛び出して正解だった。
 ジリリリ、と今頃になって響く音に、誰かが笑う声が混じった気がして周囲を睨みつける。
 騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬。アパートから避難する人間。様々な人間でごった返している通りの中で誰が笑ったのか、なんてわかるはずがなかった。
 春の色をした髪があの中にありゃしないかと目を凝らしても、見つけられるはずがない。
 爆発して跡形もなくなったアパートの部屋を眺め、「大丈夫ですか!」狭い島だからすぐに駆けつけた救急隊員にかけられた声にヒーローカードを見せながら「俺は大丈夫ですから、民間人を優先してください」義務的に返しながら、ぽた、と落ちた涙を指で払う。
 別に、どこも痛くない。怪我はしてない。
 けど。と過ごした部屋がなくなってしまった。
 たったそれだけのことなのに、あいつと一緒に過ごした時間まで、すべてが吹き飛んだような気がして、ズキズキと胸が痛い。「ショート、手伝え」今はヒーロースーツを着てない親父が瓦礫の中から学生を救助している。「ああ。わり」ぱち、と瞬きして落とした涙はあいつのみたいに結晶にはならず、暗い地面に吸い込まれてただ消えた。