特別、生きるとか死ぬとか、そういった覚悟について考えたことはなかった。
 まだたかだか十五のガキが考えるには重い話だったし、日本は平和な方だ。ありふれた場所でありふれた人生を送っていれば、生きるか死ぬか、なんてことはそう身近に考えずにすむはずだった。
 ヴィランはいるけどヒーローもいる。問答無用で殺される確率はそれなりに低い。
 ただ、運が悪かっただけ。かなりの低確率だったろう『金儲けに使える個性』と『狂った人間に執着される』という二つの最悪を引き当てただけ。

(しぬ。しぬ)

 血を流しすぎて暗い視界で毛布をかき抱く。
 もう夏だっていうのに寒い。昼間の陽射しは強いはずなのに、いつまでたっても視界は暗い。
 どれだけ血を取られたのかわからない。それを補うように何度献血されたのかもわからない。
 俺の血。俺の体。今、どうなってるだろ。
 何回首を切られたのか、何回手足を切られたのか、わからない。
 痒い、と思って右手で左の手首を掻いて、左手がないことに気がついた。「……、」手首から先が見事にない。なくなっている。なんでだっけ。なんでだっけ?
 回転の鈍い頭をのろのろと動かしていくと、あの人のことが浮かんだ。
 きれいだけど狂っている人は、牛を捌くときに使うんだろう大きな包丁でゴトンと俺の手を切り落として、それがどうなるのかを見たがった。俺の意識のある肉体から離れた、体液を含むものは、どうなるのか? そんなことを研究者の一人みたいに知りたがった。
 結果どうなったのか、俺は知らない。手を落とされた痛みと失血死とのたたかいでそれどころじゃなかったから。
 痒い、と思ってぼりぼりと左の手首を掻く。あの人が個性を使って傷を塞いだから、肉の断面は薄いけど皮がある。腐ってない。壊死もしてない。ただ、痒い。

(かゆい。さむい)

 毛布を被ってガタガタ震えながら窓の外の景色へと視線を投げて、もう売るでもなくただ飾られている、自分の体液だった結晶体を見るともなく視界に入れる。
 俺と離れている間に、あの人は完全に狂ってしまった。
 金に物を言わせて他の人間を従わせてるけど、みんな逃げたがってる。
 このままだと、俺は、殺されるんだろうな。もう言葉も通じないあの人に。
 寒いな、と思いながら首を掻くと、幾重にも重なった蚯蚓腫れが不愉快な肌触りを伝えてくる。ざらざら、まるで自分の肌じゃないみたいだ。
 これならたぶん、死んだ方がマシだ。何度も死にかけて生きるよりも、さっぱり死んでしまって、これ以上の苦痛や不快感とさよならした方がマシだ。
 そう思って、何度か自分で死のうとした。
 結果的にはどれも失敗した。死にきれなくてあの人の監視が余計に酷くなっただけで、今も、監視カメラの向こうではあの人がじっとこちらを見ている。
 轟焦凍。
 左右で色の違う髪と瞳をしてて、顔の左側には傷痕があって、二種類の強い個性を持ってる、たったの一ヶ月一緒に暮らしただけの人。
 プロヒーローを何年も続けてるくせに、生活力が低くて、金もあってイケメンのくせに、とくに何にも興味がない。そういうもったいない生き方をしている男と一ヶ月だけ一緒に暮らした。
 その一ヶ月が、人生で一番、平和で幸福なひと時だった。
 あの人と過ごした時間は、かけがえのない春だった。
 限られた間だけ咲く桃色の花のような時間だった。
 何とも引き換えられない、美しい、春だった。
 はっとして目を覚ますと、天井が見えた。見覚えのある天井だ。俺の。部屋の。
 のろっとした動きで起き上がると、見慣れた自室だった。

「……ゆめ」

 ぼそっとこぼして目頭を指で揉む。両手もちゃんとある。なんともない。
 それでもまざまざと思い出せる蚯蚓腫れの肌触り。首に、手首に、足首に刻まれた、消えない痕。
 落とされた左手。腕。最後には両腕とも肩までなくなったし、人形みたいに切り刻まれた。誰も俺の救出には来ず、俺は狂った人に狂ったように殺されて人生を終えた。
 机の上に放置されているハサミを手に取って、刃に指を押し当てる。我ながら無感動に、何かと比べているみたいに『大したことない』と思う痛みのあとに指の表面にできた血の玉を見つめる。それは夢の中の自分みたいに結晶になることはなくて、ただ赤い汚れとしてポタリと机に落ちた。
 この春で十五になった俺は、この歳になるまで、誕生日を迎えるまで、頑なに『かつての記憶』を拒んでいた。知ることも、捜すことも、拒んでいた。一度知ってしまったらもう絶対に普通の生活はできないだろうってわかっていたからだ。
 けど、この歳まで生きて、結局したいこともなかったな。記憶を拒んでまでのめり込めるものに出会うこともなかった。
 唯一、ゲームしてる時間が好きだけど。それだってあいつが俺に買い与えたのが始まりなわけで。
 つまりさ。結局俺は轟焦凍って人間から始まって、あいつで終わる、そういう人生なんだと思う。

「おにいちゃーんごはーん」

 コンコンと部屋を叩く妹の声に「行く」と返して指先の赤をティッシュで拭い、絆創膏を貼りつけて何気ないいつもの顔で家族と飯を食い『友達と遊びに行く』ということにして適当な服に着替える。
 ずっとクローゼットに用意だけはしてあった旅行用の鞄には着替えその他一式が入っていて、あとは財布を持って家を出るだけ。
 目指すは学生島。そこへ行くフェリーに乗る。行き方はもう調べてある。

「いってきます」

 いつもと同じ言葉を残して家を出る。特別、未練は感じなかった。
 電車を乗り継いで最寄りの駅に行き、そこから港まではバスで移動。学生島まで行くフェリーのチケットを買い、それなりの人が乗り込んでいる船に乗船して、デッキに立つ。いつか、ここでこうしてた人を思い出しながら。
 そうしようと思ってなかっただけで、少しネットで検索すれば、目当ての人物の記事はすぐに出てきた。『ヒーローショートの電撃引退から15年』『引退は民間人を救えなかった後悔によるものなのか?』『イケメンヒーローのあの時と現在を見比べる』……みんな勝手を言ってるなぁ。
 隠し撮りされたんだろう、あれから十五年たっておっさんになったはずの轟を眺めてみるけど、あんまり、あの頃と変わってなかった。ヒーローやめて痩せ細った点を除けば。
 近くで見たら皺とかあるのかな、あのイケメンにも。あんまり想像つかないなぁ。
 ………想像、しないようにしてきたから。見覚えのある島の風景が見えてきても、再開発されてまた一段階都市になった街に降り立っても、四十歳になった轟焦凍というのは具体的な顔が思い浮かばなかった。
 俺が個性を垂れ流しながら死んだ場所。学生島でも端っこの方で、崖っぷちでもあるその場所にバスで向かい、慰霊碑、というか、俺のためにたてられた墓石を探せば、すぐに見つかった。海を臨める見晴らしのいい場所に黒い石がある。その前にはベンチがあって、そこに見覚えのある紅白頭が一人腰かけている。
 風は海からのものと混じってまだ冷たくて、ひらひらと舞う桃色の花弁も心なしか寒そうだ。
 さて、十五年ぶりの相手には、一番になんて言葉をかけるべきか?

(ヒーローやめたんだ……まぁそりゃやめるだろ。轟的にいえば、俺を救えず死なせたわけだし。じゃあ、十五年生きて偉いね、とか。いやガキ相手じゃないんだから)

 十五年来になる相手にはなんて言葉をかけるべきかと、悩みに悩んだ末に、「久しぶり」そんな平凡な言葉を投げると、墓と一緒に海を眺めていた紅白頭がのろりとした動きでこっちを振り返った。その手には憶えのあるエネルギーバーがあって、色の違う両目を見開いた相手が食べてたものを落とした。
 俺は相変わらず、死んで、また生まれても、春みたいな色の髪だったし、お前みたいなイケメンにはなれなかったよ。

「俺のことわかる?」

 ひらひら舞う桜吹雪の中を歩いて行って、呆然としている轟の頭についている桃色の花弁を指で払うと、その手を掴まえられた。小さく震えている手だった。

に。みえる」

 掠れた声をこぼす轟は、憶えているより年を食っていた。そりゃあそうだ。もう四十なんだから。
 ちゃんと皺のある顔を見てると、スキンケアしたいなって気分になってきた。食事すら適当な轟のことだ、顔の手入れなんて何もしてないに違いない。もう四十なら男だろうと気にかけなきゃ駄目だろ。

「それで合ってる」
「お前は、しんだろ」
「それも合ってる。俺もうまいこと言えないんだけど、まぁ、奇跡。かな?」

 人生最悪のまま終わった俺を哀れんだカミサマってものが、無個性でもいいならとチャンスをくれた。……狂ったあの人が、まともな人で、きちんと笑ったら、きっとああいうふうだった。
 俺のことを贔屓したカミサマが『特別に記憶持ちで』『ただし無個性で』俺のことを黄泉の国から光の中へと送り返した。なんてことは説明しても信じてもらえそうにないから、簡単に一言、奇跡、ですませてしまう。
 俺の手首を撫でていたかさついた指が首に伸びて、今はなんの傷もない場所を撫でる。「きせき」「うん」「幻じゃ、なくてか」今触れてるくせに、まだ実感できないらしい轟に一つ吐息する。
 じゃあ、前なら絶対しなかったこと。できなかったことをしてやろう。
 顔を寄せてキスをして、触れるだけじゃ終わらない、舌を捻じ込むキスをすると、轟は大げさにビクついた。「…っ」カサついて栄養が足りないなと思う唇を抉じ開けて、俺の唾液を押しやると、口の端からこぼしながらもこくりと飲み込んだ音がする。
 筋肉あってプロヒしてたあの頃とは見る影もなく瘦せたな、と思いながら顔を離して、こけてる頬や細い首や肩を指でなぞる。どうせさっきみたいに適当な食事しかしてないんだろうな。まったく、世話が焼ける。

「ただいま」

 笑った俺に、轟は泣いた。ぼろぼろ涙をこぼして俺のことを抱き締めた。
 長い長い冬が終わって、また、春が来たのだ。お互いにとっての春が。
 あの日、轟がそうやって俺のことを連れ出したように、今度は俺が轟を連れ出す。青い空の下、穏やかな空気の中へと。もう終わることがない、永遠の春の中へと。