「焦凍。いい加減起きなさい」
「……、」
「今日もいい天気だよ」

 いつもと同じ。どこか呆れたような声に呼ばれて目が覚めた。
 今朝は、夢は憶えてない。見なかったんだろう。ゆっくり眠れた気がする。
 ぼやっとした視界を彷徨わせると、憶えのある春色の髪をした人物がこっちを覗き込んでいる。
 何度か瞬きして視界の焦点を現実に結ぶと、がいて、その手にはサンドイッチとスープの載ったトレイがある。「ご飯」「ん…」のろっとした動きで起き上がると腰が痛んだが、努めて無視し、サイドテーブルに載せられた朝飯を眺めていると、呆れたように息を吐いたの手がスープに匙を突っ込んだ。「あーん」大人しく口を開けると枝豆のスープが口内に落とされて、匙が引っこ抜かれる。冷たいスープだ。暑い時期にはうまい。
 未だに休日はこうだ。気が抜けたみたいに何もできなくなる。に飯を食わせてもらって、ぼんやりしたまま午前中を過ごしてしまう。
 サンドイッチを口元に運ぶ細い指を見ながら飯を食べ、全部食べると、が褒めてくれる。

「よく食べました」
「ん……」

 頭を撫でる手のひらを心地よく感じながら、またベッドに横たわると、食器を下げにが部屋を出ていく。
 開け放たれている窓から熱気のある風が吹き込んでくるのが、夏だ、と感じさせる。
 風で揺れるカーテンをぼんやり眺めてから目を閉じる。
 ……今さっきその手ずから飯を食わせてもらったのに、未だにこの現実を信じられないことがある。
 救うことができず、無残に殺されて死んでしまったの遺体。
 結晶まみれになった体を見つけたときのあの衝撃は、この十五年間、ずっと胸に巣食っていた。
 最近は頻度が減って来たが、に再会するまで、毎夜の如く夢に見て、そのせいで不眠にもなっていた。
 俺が初めて抱いた殺意。狂ったように笑うヴィランの女をこの手で殺したこと。残酷なくらいきれいなの結晶。繰り返し繰り返し何度も見る悪夢。
 それが当たり前だったから。が、あの頃と変わらない姿で俺のもとに帰ってきて、こうして世話を焼いてくれている。そのことが今も信じられない。
 これは俺の都合のいい夢じゃないのか。俺はついに狂ったんじゃないのか。全部は俺の都合のいい妄想で、現実にははいなくて……そんなことを考えながら寝返りを打つと、ズキ、と腰が痛んだ。
 尻も、腹も、どっちも鈍い痛みや違和感がある。
 それがなんでかを考えると体の芯が熱くなってきて、だから、これは現実で、昨日意識が飛ぶまでセックスしたことも夢じゃないんだとわかる。

(夢じゃ、ない……)

 痛む腰に手をやって、湿布が貼ってある場所を手のひらでさする。
 と再会してから猛勉強して取った資格を使って、学生島の学校で元ヒーローとして講演をして生計を立てている現在。休みは不定期だが、仕事はそれなりにもらうから、収入に困るような暮らしはしていない。
 俺を正式に教員に起用したいという話もいくつかもらってるが……まだそこまで体力気力その他が回復してないこともあって、断り続けている。
 いつか。普通に暮らすのに苦がなくなったら、本気で考えようとは思うが。今はまだ無理だ。手を引かれて歩き出したばかりの俺じゃ、走ることもままならない。
 ベッドでうとうとしていると、部屋の扉が開いた。「焦凍」薄目を開けて部屋の入り口に視線を投げると、春の髪を首の後ろで緩く一つにくくったが暑そうにうちわで自分を仰いでいる。「起きてる?」「ん」「エンデヴァー、じゃない、炎司さん。冷さんとそのうち来るって、今電話あった」思わず舌打ちするとは笑った。お母さんまで連れてくるのかあの野郎。どうあっても俺に断らせない気だな……。
 親父としては俺に訊きたいことってのがたくさんあるんだろうが、俺は別に話したくない。そう突っぱねるわけにもいかないか。新しく建てる家のローン組むのに親父の名前使ったのは事実だし。
 ベッドに上がってきたが隣で転がってゲーム機を取り出した。「楽しみにしてた新作なんだ」「ふぅん…」俺はゲームの良さはよくわからないが、は今も好きみたいだ。
 の上に乗っかって肩に顎を乗せて目を閉じると、カチカチと静かにボタンを連打したりスティックを動かす音、吹き込んだ風がカーテンを揺らす音がするだけの時間になる。
 平和だ。
 心は静かで、嫌なさざ波もたたない。
 夏でもぬくいと感じる温度に触れているだけなのに、これ以上ないくらい心が解けているのがわかる。
 ずっとこうしたかった。十五年、ずっと、夢に見てた。

「昼は」
「ん」
「俺が、蕎麦作る」
「動ける?」
「ちょっといてぇけど、大丈夫だ」

 そ、とこぼした唇にキスされた。今はもう結晶化の個性がないとのキスは、舌を入れても、唾液を送り合っても、なんでも許される。
 ちゅくちゅくと水っぽい音を立ててキスをしていると、腰がムズムズしてきた。昨日あんなにシたのにまたシたくなってくる。



 細い肩に額を押しつけて、勃起したもんを擦りつけると、呆れたような諦めたような息のあとに頭をよしよしされた。大して未練もなさそうにゲーム機が放られる。「好きだよなぁ、セックス」「ん」好きだよ。一人でするんじゃいけない場所までいけるから。お前のこと夢でも幻でもないって実感できるから、好きだ。
 俺を横に転がしたの表情を観察する。相変わらず、桃色してて色白でかわいいのに、コンドームの封をビリッと破る姿はどっちかといえば男、雄、だ。
 じゃあ俺は雌なのかな。別に、と気持ちよくなれるなら、どうだっていいけど。
 ぼやっと見上げていると、シャツ以外何も着てない俺の腿を白い手が撫でた。それだけでぞわぞわする。「もう少し、食べれるようになるといいな」「…頑張ってる」「わかってるよ」苦く笑った顔に口付けられて、流し込まれる唾液をこくりと音を立てて飲む。さっきまでコーヒーでも飲んでたのか、苦い味がする……。
 学生島で焦凍と再会してから半年がたった、夏も終わりかけたその日。炎司さんが急ピッチで進めさせていた俺と焦凍の家というのが完成した。

「おお…」

 まだぼやっとしてる割合が多い焦凍が感心したように注文住宅を見上げている。
 海のそばってことで機能的にも錆とかに強い素材でできてる、そのせいでちょっと無機質な感じのする家は、二人しか住まないしと一階建ての2LDKにした。特徴としては、ホームパーティーができそうなくらいLDKが広い。
 その他、俺たちの希望を詰め込んだ家は、どうしてもとお願いした主寝室にシャワーもお風呂もトイレもあるし、焦凍が昼寝とかに欲しいと言ってた小さな和室もある。
 この家は俺と焦凍の『婚約記念』ということになっていて、今頃俺の実家の方にも連絡がいってるはずだ。
 何せ、俺はまだ未成年。対して焦凍は四十になるいいおっさん。歳の差はなんと二回りも違う。そりゃあ炎司さんだって一般家庭でしかない俺の家に対して低姿勢になるってもんだろう。それにしたって『婚約記念で家をやる』っていうのは頭おかしい発想な気もするけど……。そんな簡単に家ってもらっていいものだったろうか。
 ちら、と焦凍を確認する。LDK横の和室の畳に転がって「新品のにおいだ」とぼやいてごろごろ転がっている。子供か。

(この十五年で、日本でも同性婚ができるようになったことは、助かったな)

 俺のこと、十五年も一途に想い続けていた焦凍とちゃんと結婚ができる。歳の差とか、色々と周りには突っ込まれるだろうけど、隠し通さないとならない関係ではない。そのことは少し、安心かな。
 一通り新築ホカホカ出来立ての家を案内してもらい、今気になる不備なんかはなかったから、すぐに引っ越しの手続きをした。ここは学生島だから引っ越し屋がたくさんある。すぐ話がつくし安くて助かる。
 焦凍はもともと適当に生きてて荷物は多くなかったし、俺も最低限しか持ってこなかったし、買ってこなかった。引っ越し準備に手間取るほどの荷物はない。頑張れば一日でできる。

「休憩しな。眠そう」
「ん……」

 十五年、プロヒだった時代に稼いだ金を消費する形で廃人みたいな生活をしてきた焦凍は、普通の生活ってのがまだうまくできない。気の向くときに寝て起きて食べてってことを十五年も繰り返していたから、朝起きて夜眠るという普通の生活を繰り返すことも難しい。
 今にも寝そうに頭で船漕ぎながらガムテープで段ボールの梱包をしてるから、見かねてベッドを指せば、大人しく寄って行って転がった。「…」甘えるように伸ばされた手を仕方なく握って、眠そうにまどろむ顔にキスをする。
 今日は頑張って外に出たし、昼寝くらいは許すよ。
 スキンケアさせるようになったから、顔の皺とか乾燥はだいぶマシになったかな。素体がいいんだろうな。そんなことを考えながら、焦凍が眠るまで、胡坐をかいてソシャゲをしてると、五分くらいで寝息が聞こえてきた。
 握られている手をそろっと抜いて、そろそろと部屋を出る。
 タイミングがいいのか悪いのか、炎司さんから電話だ。
 十五年前のデミ・ダイヤの件、結晶の個性持ちの俺のことは公表されていなかった。イコール、十五年前に存在した俺のことを知ってる人というのも少なくて、炎司さんは数少ない人間の一人だ。俺の帰還に大いに戸惑った一人、とも言える。

『あー、俺だ。引っ越しの準備は順調か』
「今日中に終わりますよ」

 肩と頬で携帯を挟んで、焦凍が寝ていることを考えてキッチンのものをしまっていくことにする。
 用意した段ボールに梱包した食器やカップ類を並べ、キッチンペーパーなんかも突っ込む。今日の夕飯はモールでおいしいお弁当でも買おう。
 荷造りの手は休めずに返すと、ごほんごほんと咳払いする音。『焦凍は、どうしている』「寝てます」『またか……』苦い声に苦く笑って返す。「十五年も廃人してましたから。それにしては、仕事とか、頑張ってる方だと思います」不定期でしている講師の仕事を挙げると、炎司さんは苦く呻いた。『まぁ、そうだな』この人のことだから、焦凍の様子はどこかから経由して知ってるに違いない。親バカっていうか、過保護っていうか、なんだよな。
 そりゃ、息子が十五年も廃人してて、急に仕事やり出したら驚くし、十五年前に死んだガキとそっくり同じ見た目のガキを部屋に連れ込んでたら、誰だってビビると思うけど。

「完全な回復には、相応の時間がかかると思います。炎司さんには長い目で見守ってもらえれば……」
よ』
「はい」
『いや、轟になるのだから、、が正しいか』

 そんなぼやき声のあとに『お前、焦凍のことをどう思っているんだ』と訊かれて携帯を持ち直す。「どういう意味でしょうか」一応一通り、信じられなくてもいいからと、俺って人間の経緯は説明したはずだけど。

『個性婚をした俺が言えるものでもないかもしれん。しかし、義務感などから焦凍と一緒になろうと考えているのなら、それはお前のためにならん』

 義務感。焦凍の世話を焼いてる俺の現状を、この人はそう捉えてるのか。
 まぁ。そういう気持ちが一ミリもないっていえば、嘘、になるかもしれないけど。「俺は」寝室の扉、その向こうで眠ってるだろう焦凍の顔を思い浮かべながら「十五年も、俺のこと想い続けてたあいつを、幸せにしてやりたいと思っています」………俺が十五になるまでに、焦凍が別の人間を好きになってくれれば。俺のことを忘れてくれれば。俺もそうしようって決めてた。だけどあいつはそうはならなくて、俺のことをずっと想って、ヒーローやめて、廃人みたいな生活しながら、俺の墓石と一緒にただ息をしてきた。
 まいっちゃうよな。十五年の愛ってなんだよ。付き合ってもいなかったし、好き合ってもいなかったのに、たった一ヶ月一緒に暮らしただけの相手に、なんでそんな重たい愛を抱えちゃうかな。

「焦凍の十五年分の愛に報いたいんです。
 そこに義務感が一ミリもないって言えば嘘になりますが……要するに、根負けですよ。俺の負け。一途だった焦凍の勝ち。そういう始まり方をする愛だって、あるでしょう」

 焦凍のことは肉欲を抱く程度には好きだし、起きてから寝るまで世話を焼けるくらいには想っている。
 恋をしなければ、運命的な出会い方をしなければ、相手を愛してはいけないなんて法は存在しない。
 だから、世界に一つくらいは、こういう始まり方をする愛ってものがあってもいいように思う。
 ……炎司さん、今ムッとした顔してんだろうなぁ。面白くないこと言うガキだって。
 黙ってる炎司さんに苦く笑ったとき、キイ、と音を立てて寝室の扉が開いた。タオルケットを引きずった焦凍がものすごく眠そうな顔でこっちを睨んでいる。「うるせ…」「ごめん。炎司さん、また」通話を切って、欠伸をこぼした焦凍をベッドに連れ戻す。
 さっきの、聞かれてないかな。さすがに本人に聞かれてると恥ずかしいから、聞こえてないといいな。

「まだ寝るだろ」
「ん……」
「一時間たったら起こすよ」
「ん」

 首に回った腕に引き寄せられてベッドに肘をつく。「何」「俺の勝ち、なんだろ」げ。しっかり電話の内容聞いてるじゃん。恥ずかしいなーもー。
 眠そうなくせにどこか嬉しそうな顔は、満足だ、とでも言ってるようだった。
 ……これは残暑のせいだから。そのせいで顔が熱いだけだ。
 四十のおっさんだっていうのに、焦凍の精神は二十五だったときに止まったから、あの頃と何も変わっちゃいない。世話が焼けるし甘えたがりだ。「ねみぃ」「寝ろって。そしてこの腕を解け。俺は荷物を…」「一緒に寝よう」ぐいぐい引っぱられて首が。そんなことしたら痛いだろ。
 俺のこと解放する気はないらしく、腕だけじゃなく足でもホールドしてくるから、もう色々諦めた。また俺が折れてしまった……。
 仕方なく焦凍の横に転がって、結んでた髪を解く。
 個性使ってるのか、焦凍の右側はひんやりと心地いい。


「……寝るんだろ」

「…なんだよ」
「春も、夏も、秋も、冬も。一緒にいような」

 天井から隣へと視線を投げると、じっとこっちを見ている色の違う両目がある。
 ……そんなこと、今更言われるまでもない。実際、もう春と夏は一緒に過ごした。
 これから過ごしやすくて食べ物がおいしい秋がやってきて、寒さに閉ざされた冬が来るだろう。この島の冬は風が吹き荒んで寒そうだけど、新しい家なら暑くても寒くても快適だ。そうでなかったとしても、暑いときは右側で、寒いときは左側で俺を気遣うだろうお前がいるから、何も怖くはない。
 お互い、もう何も怖くはない。
 こういう愛が、世界に一つくらいあってもいいと思う。

「長生きしろよ。あんまり俺を一人にしないように」
「頑張る」

 甘えてすり寄って来る頭をぽんぽんと叩いて、まだ暑いな、と思う空気の中で目を閉じる。
 流した血が、落とした涙が立てる硬い音は、もう遠くて、思い出せない。