三日め
 自分は淡白な方だと思っていた。感情も、性欲も、ない方なんだと思っていた。
 実際、誰とヤったって夢中になるってことはなかったし、泣いて縋る女を見てもなんとも思えなかったし、相手が誰であろうと、ヤることヤるだけの関係が楽だった。
 雄英にいた頃は、友達もいたし、いいこともあった。と思うけど。プロになってからはみんなとも疎遠になり、それと一緒に、昔の俺はどこかへ消えてしまった。
 こんな薄い感情しか持ってないのに、クソ親父に対して苛立ちばかり覚えるのは腹が立つ。もっと母さんを大事にしろっていつも思う。
 幼い頃から続く系統樹のような感情にいつまでも振り回されてる自分。
 いつか、俺に消えない痕を残すことになったクソ野郎でも、家族の人生振り回してきた野郎でも、赦せるんじゃないかと。思っていたけど。赦そうと思えば思うほどアイツの言動にイラつく自分がいて、母さんが見せる笑顔が悲しいと思う自分がいて、そんな感情を持て余した。
 苛立ちを覚える度に自分にも親父にも嫌気がさしたが、対処法はある。
 方法があるだけまだマシなんだ。俺はこうやって生きていくしかないんだと、男に抱かれながら、半ば諦めていた。それが。

(……いや、さすがに続けすぎだ。あっちも困るだろ)

 立ち上げたアプリでの名前をタップ。今夜の時間も『空き』になっていることを確認。そわそわしながら今日の日付を押そうとしていた指でぐっと拳を握って画面を閉じる。今日はそんなことを何度もしてる。我ながらどうかしてる。
 昼休み、事務所から近いからという理由で行きつけの定食屋で一人飯を食っていると、後輩がやってきた。ちょっと緑谷に似ている奴だ。どこがっていうと、雰囲気とか? が。「お疲れ様です!」「おう」「ここいいですか?」顎を引いて浅く頷き、ずるずるとうどんをすする。
 本日の焼肉定食を注文した後輩がこっちに顔を寄せて「あの、先日はすみませんでした。今夜とか、どうですか」潜めた声をかけてくる相手を眺めてから視線を外す。
 三日前なら。若さに任せたお前の無茶苦茶なセックスでもよかった。
 けど。もう、無理だ。俺はそれをわかってる。

「わりぃ。今日は無理だ」
「そ、ですか。や、こっちこそすみません」

 ぶんぶん両手を振って笑う相手から逃げたくて、無言でうどんをすすって早々に中身を片付けて返却口に持っていき、「先戻る」と言い置いて店を出た。
 事務所の洗面所で歯磨きをし、鏡に映っている自分の襟元から少し見えてる鎖骨を指でなぞる。
 体にあったキスマークは全部消えた。
 は俺にキスマークをつけない。俺の職業を考えての配慮だろう。
 今俺の体には、長年絶えなかったキスマークはない。それがなんか変な感じだ。
 気もそぞろのまま仕事をし、ヘマをしないよういつも以上に気をつけながらなんとか定時を迎えた夜。今度は先輩に声をかけられた。「お疲れ轟」「お疲れさまです」「このあとどー? 飯とかさ」見た目の軽さとフットワークが結びついている先輩の手が腰に置かれて、反射的に、その手を払っていた。そのことに先輩以上に自分が驚いた。自制して誤魔化すことくらいできると思っていたのに。「すいません」何かにつけて近い先輩と距離を取って、前なら平気だったのに、今はもう駄目なその軽さから目を逸らす。
 この人とは、お互い性欲を発散させるだけの関係を長く続けていた。インスタントなセックスをするだけの相手。

「今日は、約束、あるんで。それじゃ」

 足早に事務所を出て、逃げた。
 最初は大股で。だけど「おぅい轟〜」と背中にかかる声を振り切るように、最後には走っていた。

(駄目だ)

 『恋人』なんて、そんなオプション、頼むんじゃなかった。
 大人になって、インスタントな体の関係以外を築いたことがなかったから、『そういうふうにシたらもっと気持ちがいいんだろうか』なんて、好奇心に負けて、サービスのチケットもあるしって。軽い気持ちで、新しい扉を開いてしまった。

(いや、違うか。俺の順番がおかしいだけで、普通は恋したりしてからセックスするんだから)

 体さえ満たされれば、クソ親父への苛立ちを忘れられれば、それでいい。それが俺にとってのセックスだったのに。
 きゅう、と疼いた気がする腹に手を当てる。ここをなぞった指を思い出す。この中を犯した熱を思い出す。
 フラッと寄った公園のベンチに座り込んで頭を抱える。
 自分から要求しといて、その甘さの中毒性に目の前が揺れている。

……」

 仕事で俺を抱いただけ。仕事で俺を恋人として扱っただけ。わかっているのに、甘く、優しく、丁寧にとろかされて、それが恋人なんだと思い知って、俺が欲しいのはこれだったのだと、気付いてしまった………。
 アプリを立ち上げれば、今日の予約受付は終了していた。
 そりゃ、そうか。もういい時間だ。24時間やってるコンビニじゃないんだから。
 ぼんやりとの顔写真を眺めて、気が付いたら明日の夜の予約を入れてる自分がいて、ハッと我に返った頃には『予約完了』の文字が出ていた。「……馬鹿なのか?」あまりに飢えている自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。そうすると昨日この髪を撫でた指を思い出す。キスされたことも思い出す。自分を大事にしろ、と言った声を思い出す。すべてが連鎖する。何をしても思い出す。仕事してるときくらいしか、思い出さないときがない。

四日め
 今日は『恋人』としてデートがしたい。
 そう吐露した俺に、駅前で待ち合わせた相手はこの間みたいに甘く笑った。
 じっとその顔を眺めて、視線を外す。
 どうせインスタントな関係なのだからとあんまり見ないようにしてたけど、だってまぁまぁイケメンなんじゃないか。いや、イケメンの定義は知らねぇけど。「どこ行く?」「食事。予約してある」ぼそっとこぼして被っている帽子を深く被り直し、マスクでしっかり顔が隠れているのを確認してからタクシーに乗り込んで、間違っても誰かとバッティングしない場所へ向かう。
 本当ならここだってあまり使いたくはないんだが、親父が贔屓にしてる店で、轟の名前だけで予約を融通してくれる料亭だ。そういう意味でも信用が置ける。間違っても俺が男と二人で入店したなんて漏れたりしない。
 はこういうところにあまり来ないのか、どこを見ても和で溢れている店を感心したように見回している。
 着物を着た店員に案内された畳の個室には窓もない。外から撮られるような心配もない、とマスクと帽子を取る。窮屈だった。

「体、大丈夫?」

 毎度会う度に訊かれている気がすることに口をへの字に曲げる。「腰はいてぇ」「もう少し加減をしないと。何回イったらおしまいって決めるとか」「…………」無理だろ。あんな甘いセックスを知っちまったら。回数数えてヤるとか。
 この店に来たら毎度メニューは任せているんだが、今日は盆で一度に運んでもらえる料理にした。そうじゃねぇといちいち会話内容を意識しちまうし、人が出入りするとなると気が散るし。
 いつ食べにきてもきれいに盛り付けられてる料理を前に箸を手に取った俺に、は穴があくんじゃないかと思うくらいに目の前の飯を見つめている。「嫌いなものあるか」「ああ。いや。そうじゃなく。すごいなぁと思って」困ったように笑う顔に首を捻る。すごい。そういうもんか。俺はそんなこと思う心も忘れちまった。
 向かい合うように置かれた盆を俺の横に押しやったが隣にやってきて、ようやく箸を手にする。
 俺はとくに意識しねぇで食っちまったけど、は一品一品味わいながら食べてるようで、俺が食べ終えた頃にはまだ半分食べただけだった。
 店に急かされない限り、今日はここで甘えようと思ってたんだが。さすがに食ってる相手には。待っとくか。
 自分ではそわそわしてるつもりはなかったんだが、相手にとってはそうじゃなかったらしい。苦笑いとともに腕が回って引き寄せられ、ぼふ、と肩に頭をぶつける破目になる。
 ……心臓が。どくどくと。うるさい。これ、俺の心臓の音か。

「昼間ニュースで見たよ。大活躍だったじゃん、ヒーローショート」
「まぁ。頑張った」
「でも怪我してたね。どこ?」
「ん」

 右腕のシャツをまくって包帯しているのを見せると、きれいな手が腕をなぞる。少し痛む。「ヒーローのおかげで、俺たち庶民は平和に暮らしていけるけど。そういうヒーローの平和は、誰が守るんだろうな」「……さぁ」今も泥を被ってばかりのヒーローは、昔みたいに舞台の上の演者だと笑われることはなくなったが。それでも痛いものは痛い。
 労わるように腕をなぞる手のひらの感覚を味わう。忘れないように、しっかりと視覚と触覚に刻み付ける。
 ……俺たちは、セックスから始まった、金を払う関係だ。動機からして不純。きれいじゃない。わかっている。わかっているけど。勘違いの一つだってしたくなる。
 想像してたよりしっかりしてる肩にぐりぐりと頭を押しつける。
 たとえば、雄英の学生時代に出会えていたら。たとえば、俺が初めて抱かれた男がお前だったなら。そんなもしもの話をしても何にもならないけど、そうだったらよかったのにな、なんて思う。そうしたら、こんな虚しい俺は、いなかったかもしれないのに。

「……泣かなくてもいいんだよ」

 降ってきた声と目元を撫でる指に目を閉じる。「泣いてない。欠伸だ」「そ。眠い?」「眠い。ヒーローは大変なんだ。忙しいし、夜勤もあるし」俺の軽口にも軽口を返してくれる。俺の自己満足に付き合ってくれる。
 金を払ってるから。
 すべてはそれだけのこと。それだけの大人のアソビ。
 触れ合うのも、キスをするのも、すべては遊び。金がなきゃ成り立たないコト。
 轟様、そろそろと襖の向こうから控えめな声がかかるまで『恋人』として甘やかしてもらったその時間は、幸福、だった。
 話し上手なにうまいこと誘われて、気が付いたらキスしていたし、気がついたらちんこを触られてた。「シー」耳たぶを噛む声に口を手のひらで押さえながらシてもらって、もう前だけじゃイけないと思ってたのに、にされたら呆気なくイった。

「お会計これでいい?」
「ん……」

 俺の財布を持って襖の外に出て行ったをぼんやり見送って、俺の精液で丸められたティッシュを眺める。……さすがにここには捨てていけないから、鞄に入れるか。ビニール袋あったかな。
 足腰に力を入れてズボンとパンツを上げ、マスクと帽子をして、外に出てもいいよう身支度を整えていると、が戻ってきた。受け取った財布から現金を抜き取って、今日付き合ってくれた分の代金をその手に押し付けたら、なぜかやんわりと押し返される。「今日はいいよ」「…?」「おいしい飯奢ってもらったし。飯代だけでお釣りがくる」だからいらない、と言う相手にどうしようもなく腹の奥が疼く。さっきので我慢しようって思ってたのに、なんでそういう、期待させるようなことを。言うんだよ。
 それは。たとえば相手が俺じゃなくて、そのへんのデブのおっさんだったとしても同じことを言うのか。同じ条件で、同じように飯食って、奢ってもらったら、今日の金はいらないって笑うのか。

「焦凍」

 帰ろう、と差し出される手がもう少しで恋人のそれではなくなると知っていながら、感情の昂りで霜のついてる右手を伸ばして、きれいな手をぎゅっと握り締める。
 自分の手が縋るようだと思った。
 実際、縋っていた。金でしか買えない関係と時間に。
 のことを駅まで送り、自分はそのままタクシーで帰宅する。
 寝起きするだけだからセキュリティさえしっかりしてれば狭くていい、と買ったマンションの部屋に立ち尽くす。
 改めて見ても、何もない部屋だった。少しの本と、テレビと、必要最低限の家具。そんなものしかない部屋はとても無機質で、自分という人間を象徴していた。
 ……ぽたぽたと落ちる涙が鬱陶しい。
 これが現実だ。
 インスタントな人間関係と性関係で生きてきた、罰が当たったんだ。
 この出会い方じゃなきゃ無理だった。こうして生きてなきゃ出会ってすらいなかった。そんな相手にきれいじゃない自分を恥じ、抱いた心を握り締めて蹲る。
 苦しい。こんなにも。胸に怪我でもしたのかってくらいに痛む。今日ヴィランにヤられたのは右腕で、そこだけなのに。



 カラカラに渇いた喉で、水がほしい、と思った。
 渇いている。乾いている。どうしようもなく。それなのにこれ以上水分失ってどうするんだ。

(水が、ほしい。水……みず…)