三百六十五日め
 焦凍と同棲するとなったとき、けじめとして、デリヘルの仕事には区切りをつけた。
 今後焦凍とどうなるにせよ、大事に育てていきたいと思う花ができたのなら、世話に専念しなくてはと思ったからだ。
 それに、あっちもこっちもって意識を割けるほどには俺は器用じゃない。目の前の一人のために尽くすのは得意でも、焦凍と誰か、はちょっと手に余る。
 どうせいつかはやめているはずの仕事。旬の短い、若いときにしかできない仕事。それが予定より数年早く切り上げることになったってだけだ。特別惜しい話でもない。
 しかし、悲しいかな。人間は生きていくのにお金がかかるから、デリヘルをやめるならやめるで代わりの仕事がいるってことで、ちょうどよくバイトを募集していた花屋で働き始めた。
 志望動機は『花が好きだから』ってことにしておいたけど、本当の理由はそうじゃない。花と焦凍って組み合わせが思いのほか似合っていたのが気に入ったからだ。
 後片付けが面倒だけど、ベッドに花を散らして焦凍を抱くのがとくにお気に入り。

「贈り物ですか?」

 あいにくの雨の昼下がり。店先に活けてある花を見て悩んだ様子のサラリーマンに声をかけると、若干気の抜けた顔で「ああ、はい」と生返事をされた。男の店員なんているんだなって顔だ。
 花屋というと女性店員が多いイメージがあるせいか(実際そうなんだけど)、俺が店に立つようになってから男性客が増えたらしい。
 まぁ確かに、男女の機微ってやっぱり違うものがあるし。たかが花、されど花。男には男、女には女の店員がいた方が臨機応変に顧客に応じられる。
 話を聞いてみると、あいにくの雨だけど、今日が結婚記念日だというそのサラリーマンは仕事帰りに花を買って帰りたいとのことだった。
 なるほど、結婚記念日。そりゃあ大事なイベントだ。勇気出して花屋まで来た理由もわかる。
 ウチは夕方までの営業だけど、代金前払い、確実に引き取りに来てくれるなら用意はできるという話をすると、ほっとした顔をされた。
 奥さんが好きだという花と、結婚記念日にふさわしい花を見繕って「こんな感じでどうでしょうか」と小さな花束を作り、花束のイメージ、サイズを決めてもらう。

(贈り物かぁ)

 そろそろ焦凍と出会って一年くらいになるな、とぼんやり考えながらサラリーマンの人と花束について打ち合わせ、昼休みが終わるんだろう、代金を支払うと「それじゃあ、引き取りに来る前に電話入れます」傘をさして足早に歩いていく背中を見送る。
 花束作成に見合うだけの花を店先のバケツから引き抜いて別のバケツに移しながら、考える。

(花は、ダメになりそうなものを格安で引き取って、毎日のように持って帰っているし。今更きちんと買って持ち帰ったところで……)

 かといって、これはどうなんだ。……どうなんだ?
 だいぶ前に買っておいたのに、渡すタイミングってのが見つからず、結局今日まで渡せずじまいの小さな箱をポケットの中で転がす。「……記念日なら変じゃないだろ」焦凍はたぶん喜ぶ、と思うし。今日渡せなきゃ、これからもずっと渡せない気がする。あのサラリーマンみたいに俺も勇気出さなきゃ。
 お昼休憩から戻ってきたオーナーが「くん、お昼休憩交代」「はい」さっき注文のあった花束のことを報告してから小さなスタッフルームに引っ込み、作業用のエプロンを外して手洗いする。
 小さな冷蔵庫から今日のお弁当を取り出してレンジでチンすれば、昨日の夜の酢豚と冷凍食品のおかずに、ご飯にピンクのそぼろでハートが描かれていた。「ベタか……」思わずぼやいてから箸を手にして、いただきます。
 専業主夫の焦凍は朝飯から弁当、夕飯、家事炊事まで、家のことを一通りしてくれている。
 ヒーローショートの退職金が結構あったから、今住んでるマンションの部屋の支払いについては心配がない。食っていけるだけ稼げれば、花屋の非正規雇用でも日常生活はなんとかなっている。
 でも、これじゃあ焦凍が孤立がちになる。たまに友達と会ってお茶くらいはするし、本人が俺がいればいいって言うとはいえ。

(左腕、これ以上はよくならないしな)

 何をするにしても、片腕が使えないというのはなかなか大変だ。
 別に、焦凍に働いてほしいわけじゃなくて。なんていうのかな。もっと人生を充実させてほしいというか。もっと色々、したいことしてほしい、っていうか。
 うだうだ考えながら弁当を片付け、少し早めに店に戻って「あの、フリージアの花、分けていいですか。帰りに買って帰りたいんで」「いいわよ〜」今日は雨で客足も遠い。そのせいかパソコンでユーチューブ眺めて頬杖をついて、オーナーは暇そうだった。フリージアを買って帰りたいという俺の声にも素っ気ない対応だ。媚び売られるよりそっちの方が楽でいいけど。
 手早くフリージアの花を新しいバケツに移す。黄色、白、紫、赤、ピンク。店にあるだけのカラフルなフリージアを眺め、作った花束を抱えて笑う焦凍を想像する。
 出会った当初から比べれば、今の焦凍の表情筋はかなりやわらかくなった。
 心の砂漠にはオアシスが出来て、枯れそうだった花はなんとか生き残って咲いている。そんなイメージ。
 その日、仕事帰りに花束を受け取りにきたサラリーマンの人が若干緊張した面持ちで花を抱えた。それで今日の俺の仕事はおしまいで、あとは個人的に購入したフリージアの花で花束を作るだけ。

「笑って」

 それで、フリージアの花束を作って持ち帰って来た俺に、焦凍は赤い顔で花を受け取った。「……もっと、他に、言うことないのか?」花に顔を埋める姿に首を捻る。花じゃ駄目だったか。「一番言いたいこと言ったけど」まぁ、渡したいものは、まだあるんだけど。
 花で顔を隠したままちらりとこっちを見上げる双眸がとろけている。
 そりゃあ、記念日で、明日の予定のないお前を抱かない理由はないけどさ。そういう期待で満ちた顔されると意地悪したくなってくるな。「蕎麦なら、今度デパートの生のいいやつ買おう」「………欲しい」「蕎麦のおいしいところに旅行にも行こう。そのときは気が済むまで食べればいいから」「ん」靴を脱いでリビングに行くと、食卓にはコンドームとローションがセットで置いてあった。俺の知らない新しいやつ。
 花を抱えて顔を隠したままの焦凍が寝室を指す。「夕飯は俺だ」「……そういうのどこで勉強してんの」「さぁな」花束を抱えたまま寝室に逃げ込んだ焦凍に、食卓の上のゴムとローションを掴む。
 自称夕飯の焦凍をゴム三回取り換えるまで抱いて、精液その他でベタベタになった焦凍とお風呂に入って、今日はデパ地下で買ってきたらしい惣菜と寿司を食べた。
 シてる間抱えてると言って離さなかった花束をようやく花瓶に活けたけど、わりと長い時間そのままだったし、ちょっと萎れたかも。抱き締められすぎて折れちゃってるのもあるし。まぁ、おかげで綺麗な花と喘いでる焦凍っていう最高の組み合わせを堪能できたけど。
 水差し型の花瓶を持っていって、ソファでクッションに埋もれている焦凍に掲げる。「はい」「……?」差し出されるままに受け取った焦凍が紅白の髪を揺らして首を傾げる。

「笑って」
「………笑えって言われて、笑えるもんか?」
「俺はできるけど」

 職業柄得意な笑顔を浮かべると焦凍は逆にむくれた。「俺は、できない」拗ねた顔で花瓶を抱えた焦凍を緩く抱き寄せる。
 ヒーローしてた頃と比べると、筋肉落ちてきたから、少し細くなったな。「笑えるようになるまで、そばで水をあげるよ。愛って名前の水」「……笑えるようになったら、くれねぇのか」「あげるよ。お前は花なんだから、水がないと死んじゃうだろ」花、とぼやいた焦凍が花瓶に活けたカラフルなフリージアに視線を落とす。「そんなきれいなもんじゃねぇ」右手で顔の左側をなぞって、花瓶を抱えた左手が緩く拳を握る。
 ……よし。
 深く息を吸って、吐いて、生まれて初めて誰かのために買った指輪の入った箱をポケットから引っぱり出す。
 ずっと渡せてなかったけど。今日こそは渡す。今渡せなきゃ、また機会を逃す。
 ぱか、と小さな箱の小さな蓋を開けると、一応ブランドもののペアリングが並んでいる。
 花瓶を抱えた焦凍がこぼれ落ちそうだなと思うくらい大きく目を見開いた。「なんだ、それ」「見ての通り。ペアリング」と言っても、焦凍は左手に物をつけるのは負担になるし、普段家事だ炊事だって気にしそうだから、指輪通せるチェーンのネックレスも買ってある。おかげでものすごい出費だったよ。
 ネックレスチェーンに指輪を通して焦凍の首につけてやる。「出会って一年記念に、あげる」黒いシャツの上で上品に主張する指輪を撫で、自分のもつけてみる。
 服にはこだわってたけど、アクセは適当だったから。ネックレスって首がムズムズするな。
 焦凍が何も言わずに俯くもんだから、あれ、気に入らなかったかな、と紅白の髪をかき上げれば、ぽろぽろ大粒の涙をこぼして泣いていた。涙でとろけた瞳と目が合う。

「うれじぃ」

 ずび、と鼻をすすりながらの声に思わず笑う。
 ちょっと緊張してたからさ。気に障ってないなら良かった。
 指輪を握り込んだ手を顔に当ててずびずび鼻をすすってる焦凍にティッシュを持ってくる。「そんなに泣かなくてもいいだろ」「うるぜぇ」「はい、ちーん」鼻にティッシュを当てると遠慮なくかまれた。勢いよすぎて鼻真っ赤。
 新しいティッシュで赤い鼻を拭きながら「今度これして出かけような」と言うと、焦凍は破顔した。まだ涙をこぼしながらも嬉しそうに笑んだ。右手には指輪を握り込んで、左手は膝の上のフリージアの花瓶を抱えて、笑った。

(そうやって笑っていてくれ。俺のエーデルワイス)

 お前が笑って生きてくれるなら、それで、文句ない。