自分の手からぽた、と音を立てて落ちた液体の音を聞きながら、汚れていない方の手の指をピアス型の通信機に当て、足元で転がる人形のような肢体を跨ぎ、暗闇の中に目を凝らす。
 激戦を示す戦闘痕も銃のマズルフラッシュも見当たらないけど、通信が入っている。『こちらキメラ1』作戦中は開始と終了、それ以外では滅多なことでは通信は行われないのが通例なのに、ノイズ混じりの不明瞭な音が先輩である人の声を届けてくる。

『活動限界がきたみたい』
「…………」
『作戦途中で悪いけど、腕が戻らないまま瓦解が広がっているから、数分で、私はスライムになるでしょう』

 暗闇の先へと進めていた歩が止まる。
 キメラ1と呼ばれるこの人は俺の先輩だ。この仕事のイロハすべてを惜しむことなく教えてくれた。俺が最後のキメラ部隊員であると知りながら、虚しいことだと自覚しながら、その仕事の術を叩き込んだ。
 君、私より素質あるわよ。そう笑っていた顔がぼやけて遠くなる。
 感傷は、あとにしよう。
 今はまだ作戦中だ。この倉庫群を根城にしているというヴィランの集団を先輩と二人で殲滅させるという、一見すれば無理難題の作戦を、俺とこの人だからこなしていた。
 残りはたったの三人だ。先輩が頑張ってくれたおかげだろう。
 先輩がもう無理だというのなら、俺が完遂させなくては。

「今まで、お疲れさまでした」

 何年この仕事に従事したのかわからない人にポツリと返すと、通信の向こうで微かに笑う気配。『私たちという失敗は活きるわ』『君は最後のキメラ。これ以上の犠牲者は生まれない』『それだけが、救い』ポツポツとした声が次第に小さくなり、ばしゃ、という水音が混じる。また体のどこかがスライム化したのだろう。この人はこれが理由で失敗作の烙印を押されている。
 さっき人の頸動脈を切った左手を掲げる。暗闇の中に目を凝らせば、どうしようもなく赤黒く汚れているのがわかる。

(ヴィラン集団の掃討。殲滅。一人も逃がすことなくこの場で殺し尽くす)

 ブーツの底で薄汚れた地面を蹴り、前へ進む。光のない暗闇の中に溶けるようにしながら獲物を探す。
 このつまらない仕事を終えるまで残り三人だ。すぐに終わる。そのあと先輩を回収して、本部に。そうすれば薬で瓦解を止められるかもしれない。

『キメラ2。後輩くん』
「はい」
『君は、どうか』

 どうか、自由に。
 そのあと先輩がなんと言おうとしていたのかはわからない。ばちゃん、という水音を最後になんの物音もしなくなったから。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる自分という存在が意外だった。
 キメラ部隊の構成員は最初五人で、一人は体が安定せず何度目かの作戦後に気化して消え、二人はもう少しもったけど、それぞれ作戦中に殉職。先輩と俺だけが残り、その先輩も、いなくなってしまった。
 自由に。そのあとに続く言葉は、なんだったろう。
 …………もう面倒くさいな、というのが正直な気持ちだった。
 仕事もそうだし。この生き方もそうだ。これしか知らないし、一緒にやる人がいたからなんとなく付き合ってきたけど。正直、ずっと、面倒だな、って思ってた。
 キメラ部隊はもう俺一人だ。
 視界の端をチラついた灯りに気付いて物陰に身を潜め、左手を掲げる。個性を発動させて腕の組織図を書き換えれば、構えた腕が死神の鎌のような刃物に変わる。
 先輩はいなくなった。それでも刷り込まれた命令が囁く。殺せ、と。終えろ、と。
 暗闇から光のもとへ飛び出すと、小さな教会があって、そこに人の形が三つあった。一人は子供、一人は女。どちらも首を切られて絶命していて、そばに男が立っていた。「すまない。すまない」ぶつぶつこぼしながら赤で汚れた刃物を掲げ、自分の喉を突き刺す。
 国家の命令のままに動く怪物、キメラから逃げられないと悟っての心中、自害。

「………はぁ」

 何度だって見てきた光景に息を吐き、腕の練成をもとに戻す。刃物だった腕は人間のそれに戻り、ぐっぱ、と動かしても違和感はない。
 作戦はこれで終了だ。先輩を失ったことを除けば予定通りに終わった。
 作戦終了を報告しようと、耳のピアスに伸ばした手が止まる。
 報告すれば、俺はまた都合よく使われる道具に戻る。活動限界がきて生き物以前の姿になるまでこき使われる。
 先輩のように、消える。
 今度は誰に看取られることもなく、誰にも想われることなく。

(自由に………)

 倉庫群の中を歩き回って先輩の痕跡を捜すと、落ちているピアスを見つけた。赤い色。先輩のものだ。ただ、スライム化したはずの先輩の体はもうどこにもなくて、床には何かがあったのだろうという染みと、先輩が纏っていたステルススーツが残っているだけだった。
 死体すら残らない。それが俺たちの末路。
 自分の耳たぶを引きちぎるようにして、死ぬまで外すことは許されない通信機を置く。先輩の赤の隣に自分の青を置いて、先輩だったものが染み込んだ床を撫でて、立ち上がる。
 ………この仕事を続けていてもそのうちに死ぬ。
 なら、ここから逃げ出して、追われて殺される、そういう人生でも別にいいかと思う。

(自由に)

 そう意識して踏み出した足で倉庫の外に出ると、丸い月が浮かんでいた。
 作戦の度に何度だって夜の中に躍り出ていたのに、空を見上げる、なんてこともしてこなかった。
 随分と今更だけど。夜の暗闇に光り輝く、こんな俺でも平等に照らす黄金色を美しいと感じた。
 アメリカを敵に回すなんて、そう長くは生き残れない気もするけど。やるだけやってみよう。やれるところまでやってみよう。行けるところまで、走れるところまで、自由に、やってみよう。