「最重要指名手配犯…? アメリカから、日本にか」
「船の貨物に紛れ込んで入国したという話だ」

 朝から穏やかじゃない内容が記されている書面を読み込み、険しい顔をしている親父から書類の中の顔写真に目をやる。
 最重要指名手配っていうのは、FBI、アメリカ合衆国の連邦捜査局によって選定される指名手配リストのことだ。
 アメリカにとって『非常に危険』だと判断された人間が追加されるリストで『キメラ』とだけ記載のある若い男は、報奨金の額に見合わない無気力そうな顔をしている。
 今回日本に潜伏しているのではと言われているのは、つい最近リストに追加されたこの男のことだ。
 ………親父が渋い顔をしている理由はわかる。
 警察ではなくヒーローにまでこんな話が飛んでくる。それでアメリカにとっての事の大きさは伝わるが、それは、俺たちにイコールになる話じゃない。
 キメラとされているこの男、氏名が明かされていないこともそうだし、概要が何も載っていないこともそうだ。この男は危険人物だ、見つけ次第確保せよ。ただしこの男が何者で何の罪を犯したのかは探ってくれるな。アメリカはそう言ってるわけだ。これじゃ顎で使われてるのと同じじゃないか。
 エンデヴァー事務所の朝はそんな微妙な空気の中で始まった。
 と言っても、いつもとやることは変わらない。男の顔を憶え、それらしい情報があったら警察と協力して最重要指名手配犯の捜査をする、それくらいだ。
 何せ、ヒーローの仕事は待っちゃくれない。こっちにはこっちの日常ってものがあるのだ。

「ありがとうショート!」
「おお」

 風船が飛ばされて困っていた子供の手に赤い風船を返してやって、足元の氷の土台を溶かしていると、突然ドザッと雨が降り始めた。マジか。傘なんて持ってねぇ。
 一瞬で降った雨でびしょ濡れになりながら適当な軒の下に駆け込むと、ずぶ濡れの黒猫が一匹、自販機の横で震えているのを見つけた。「………」別に、猫が好きとかじゃないが。そのままにしておくのはかわいそうな気がして、左側で自分を乾かすついでに猫を撫でて水気を飛ばしてやると、ぼやっとした顔で見上げられた。眠いのか、弱ってるのか、どっちだ。
 首の辺りを撫でてみるが、首輪の跡のようなものはない。野良か。
 そのやせ細った姿に後ろ髪を引かれながら仕事に戻り、一日の業務を終え、面倒だから事務所で飯もすませてしまう。
 徒歩での帰り道、なんとなく猫がいた場所に寄ると、まだいた。自販機の横で丸くなっている。

「おい」

 しゃがみ込んで声をかけても顔を上げない。まさか死んでないだろうな。「おい」丸い頭をつつくと、ちら、とこっちを見やる金色の瞳がある。よかった、生きてた。
 逡巡した挙句、このまま置いていってもどうせ気にするんだからと、黒猫を片腕で抱き上げる。
 動物の面倒とか、みたことないけど、牛乳とか水あげてりゃとりあえず今日は生きるだろ。その後のことはまた明日考える。
 マンションの自室に連れ帰り、されるがまま大人しい猫をお湯で絞ったタオルで拭い、きれいにしてやってから、ぬるい温度にあたためた牛乳をやってみた。「……おお」飲んだ。よし。
 他に何かないかと冷蔵庫を見てみるが、普段から料理しないせいでなんにもなかった。
 猫って、猫の餌以外は何食べていいんだ。思い立って調べてみるが、案外とあげない方がいいものが多く、棚の奥から発掘したツナ缶を置く。人間が食べるものの多くは猫にとっては健康的に害があるものが多い……。
 今からコンビニに行って猫缶を買ってくるか。最近のコンビニの品ぞろえは馬鹿にできないから、猫缶の一つくらいはあるだろ。牛乳だけはさすがに腹が減るだろうし。

「ちょうだい」

 そこで、ひょい、と俺の手から缶が消えた。カシュ、と缶が開封される音に振り返れば、金髪碧眼で全裸の男が一人、手でツナを食っていた。「は?」素でこぼして困惑する。誰だコイツ。それに、猫がいない。さっきまでソファにいたのに。
 素手でツナを食っている男に困惑はしたが、とりあえず。服を着てほしい。
 仕方ねぇから俺の風呂上り用のバスローブを突き出すと、相手はぺろぺろ猫みたいにツナの油のついた指を舐めながら首を捻った。「着てくれ」落ち着かないから。
 首を捻りながらようやくバスローブを羽織った相手の顔に見覚えがある。どこだっけ。どこかで。

「お腹減った」
「………」

 ぐごおおお、とものすごい腹の音を響かせて猫みたいにしゅんとする相手に、思い出しかけていたことを頭の隅に放り出す。ぐごおおおがごおおおって、それ本当に腹の音か。「カップ麺でいいなら作る」「食べる。なんでも食べる」腹を押さえて情けない顔をしている相手に、本当に仕方なく、非常食のカップ麺を棚から掘り出し、やかんで湯を沸かす。もう一度冷蔵庫を確認して、レンジでチンすればいいだけのおかずを何品か取り出す。
 それで、用意したチン食とカップ麺を夢中で口に運ぶ姿を眺めていて思い出した。
 今朝配られたあの書類。最重要指名手配犯。あの顔写真の男に似てるんだ。

「お前、名前は」
「ない」
「…ない?」
「ないよ」

 カップ麺の汁まですすっている相手に眉根を寄せる。……そういえばリストにも名前はなかったっけ。「じゃあ、キメラってのに聞き覚えは」「ある。俺のことだ」隠すわけでもなければ逃げるわけでもなく、相手はカップ麺の汁をすすり続けている。
 辛いラーメンだっていうのに汁を全部飲み干すと、次はテーブルに放置したままのせんべいの袋を掴んだ。バリ、と開けるや否や口に押し込むようにしてばりぼりと食べ始める。
 別に、侮るわけじゃないし、疑うわけでもないが。今目の前にしている相手はとても最重要指名手配犯には見えなかった。

「何やらかしたんだ。日本のヒーローにまでお前を捕まえるよう指示が出てる」
「はぁ。へぇ。必死だなぁ」

 俺がヒーローだってことを知ってか知らずか、せんべいかじりながら眠そうな相手の顔が、ドロリと溶けた。
 驚くというよりむしろ呆然としてしまった俺に、「あ、やべ」とぼやいた相手が崩れた顔を治すように手でぞんざいにドロッとした肉を掴み、適当にもみほぐして、その肉は男の顔に戻った。……意味がわからなかった。「なんだ今の」「あー。眠気で気が抜けて」「そうじゃねぇ。今の、」うまいこと言えないが、顔が、溶けたぞ。
 そばに寄って、今は普通に見える顔に触れてみる。…別に普通だ。普通に弾力もあるし、温度もあるし、皮膚の向こうには骨もある。なのに今一瞬スライムか何かみたいに。そういう個性、か?
 男は口を曲げると、「こういうことだよ」とぼやいて猫の姿になった。俺が拾ってきた黒猫が椅子の上にちょこんと座っている。「お……」つまり。俺が拾ってきたのは人間だったのか。個性で猫に化けてたところを拾って帰って来た、と。
 ただ。キメラって呼び名を考えるなら、その個性にいい想像はできなかった。
 キメラってのは、生物学的には、同一個体の中に遺伝子型の異なる組織が互いに接触して存在する現象のことを言う。ギリシア神話で言うなら合成怪物のキマイラがそうだ。
 平たく言うなら異質同体。そういう呼び名をつけられた奴がアメリカに追われている。いい想像なんてできない。
 人の姿に戻った男がバスローブを着直し、ばりぼりとマイペースにせんべいをかじる。

「明日には出ていくよ。メーワクだろ」
「………俺は、」
「お前が誰なのか、なんなのか、俺は知らない。知らなかったことにする。出会ってないことにする。だからお前も、俺のことは知らないし、出会ってないことにして。それがお互いのためだ」

 じゃあ寝る、とこぼしてソファに転がった相手に閉口した俺は、とりあえずシャワーを浴びた。相手が極悪な指名手配犯でヴィランならこの間に尻尾を出すだろうとわざと隙を見せたんだが、なんてことはない、何も起きなかった。
 そろりとリビングに行ってソファを覗き込めば、バスローブを着た相手は寝ていた。
 仕方なく自室に戻り、予備の毛布を取ってきてかけてやる。
 ヒーローとして、俺のやるべきことは決まっていた。
 だが、人として、命令のままにしか動かないのはどうなんだろう、なんて、余分なことを考えた。
 アメリカという国から追われることになったのにも理由はあるはずだ。そうなってしまった経緯があるはずだ。それを知ってからでも遅くはないんじゃないか?

(訳アリには違いないが、ヴィランってわけじゃあなさそうだし)

 ヴィランだったなら迷わず捕まえたんだけどな。訳アリで追われてるって情報だけじゃ、この手は惑ってしまう。腹を空かした猫みたいな相手に、その訳を紐解いたら、捕まえる理由はないんじゃないか、なんて考えたりしてる。
 考えながら、自室のベッドでうつらうつら眠りについて、朝起きたら、もうあいつはいなかった。猫もいなかった。もぬけの殻になったバスローブと毛布だけがソファにあって、窓が開いていた。……また猫になって出て行ったのかもしれない。
 窓から顔を突き出すと、遥か下の方に黒っぽい小さな動くものがあって、それはこちらを振り返ることなく排水溝へと消えて見えなくなった。