俺が生まれた轟という家は、陰陽道だかなんだかの力が有名な家だった。
 父はその世界でも業界一と呼ばれる実力があり、そのためか、幼子の子供にも厳しい修行を課した。
 俺の運命が変わることになるその日もいつもと同じ。まだ子供なのに、大人と同じ取っ組み合いをさせられ、橙に塗られた柱にだんっと叩きつけられた。
 げほ、と咳き込む。背中でミシッと嫌な音がした気がする。
 母は父が子供に課す厳しい訓練に、悲しそうな顔をして、でも止めることはできない人だった。
 兄や姉が頑張っている中、俺にとくに強く当たるのは、俺に力があって、それを伸ばすため。
 父は炎を使う人で、俺が立てないでいると顔にぼっと火を灯し「立て焦凍! お前の力はそんなものじゃないはずだ!」と怒鳴りつけ、俺の着物の衿首を掴み上げると庭へと放り出した。
 いつも整えられている日本庭園の砂利にしたたか体を打ち付けて転がり、なんとか起き上がったが、げほ、と咳き込んで胃の中のものを吐き出す。さっき背中を打ったせいで胃の中がひっくり返っている。

「やる気を出せ!」

 怒号のような怒鳴り声が降り、炎、の気配にはっとして顔を上げる。
 炎。親父が使う炎が左の視界いっぱいにあり、反射で目を閉じたが、右手の氷結で氷を作ることは間に合わなかった。
 じゅわ、と嫌な音と、肉が焼ける臭いがして、叫んだ。
 顔の左側が熱かった。今まで感じた痛みの中でも一番の苦痛だった。「あなた、やりすぎです! 焦凍っ」慌てて駆け寄ってきた母が俺の顔を冷やしてくれたが、痛みは引かないし、引きつったように表情が歪んで止まらない。
 左目が見えない。
 こうなる前に、どうして止めてくれなかったの。母さん。

(もう、いやだ)

 厳しい父親。厳しい訓練。今日は顔に火傷まで負った。左目はまだ見えない。
 もう嫌だ。陰陽なんてクソ食らえだ。
 なんで俺はこんな家に生まれてしまったんだろう。
 この京で広い家を持っていて、権力があって、飯にも寝床にも困らない。贅沢な暮らしができているということはわかっている。
 でももう嫌だ。この家にいる限り俺はずっと辛い訓練を続けないといけない。父のように陰陽師にならないといけない。そんなの嫌だ。

(だれかたすけて)

 母と父が言い合っている。左目は、まだ見えない。
 言い募る母を父が平手で叩いた。俺に口出しするな、と言っている。……母が泣いている。
 父は誰の言うことも聞かない、この家の暴君だ。助けてくれる誰かなんて。
 ずりずりと這っていって庭の池を覗き込むと、顔の左側の髪が燃えていて、大きく火傷を負っている自分がいた。左目の瞼はくっついたまま動かない。「う…っ」その様は醜かった。父親という人間の醜さが凝縮されて俺の顔にべったりと貼りついていた。
 剥がしたい、と引っかいても血が出て痛いだけ。左目は開かない。火傷の痕は消えない。剥がせない。消したい。これを消したい。消したい………!
 池の水に映る自分の顔をがりがりと引っかいていると、生ぬるい風が吹いて、ひやりとした感触が顔の左側、火傷の痕に触れた。

「かわいそうに」

 落ちてきた声に視線を上げると、夜の闇のように黒い長髪と、血のように紅い目をした誰かがいた。
 真っ黒な生地の中で金の鯉が泳いでいる、不思議な着物を着た人だった。
 角のある鬼の面を被っているその人は、細い指をかけて面を少し上げると、ひんやりとした指で俺の火傷の痕を撫でた。「治してあげよう。ほら」ひんやりとした手に傷痕を撫でられ、見てごらん、と池を指されておそるおそる覗き込むと、水面に映る自分の顔に火傷の痕はなかった。髪も、元通りに伸びてる。
 ぺたぺたと触れる。治ってる。左目が開けられる。火傷はないし、目も見える。治ってる。よかった。よかった……。
 醜い火傷が治ったことが嬉しくて、お礼を言おうとその人を見上げると、父親の怒号とともにいくつもの火の玉が飛んできた。
 ついさっきその炎に顔を焼かれた。その痛みがフラッシュバックして息を呑んで固まる俺とは別に、仮面をつけたその人は手にしている扇子を払って父の炎すべてをシャボン玉のようにパチンと弾いて消した。「貴様、鬼か!」鬼。父にそう呼ばれた人の唇が薄く笑みの形を作る。
 夜に溶ける長い髪がぬるい風に吹かれて揺れて、宝石みたいに輝く紅い瞳がきれいな人だった。陶磁器のようなすべらかな輝きを放つ鬼の面まで美しかった。今まで見てきた誰より、きれいな人。

「お初だ、轟炎司。君の教育には感心しないよ。まだ幼子なのに、かわいそうじゃないか」

 ひんやりとした手に火傷の痕があった顔の左側を撫でられ、その温度が心地よくて、目を閉じる。
 お母さんは厳しく教育される俺を慰めてはくれたけど、救ってはくれなかった。
 でもこの人は俺を救ってくれた。傷を治してくれた。そんなこと誰もしてくれなかった。
 この人が人間じゃないんだとしても、父の言うように鬼、だとしても。優しくしてくれて嬉しかった。傷を治してくれて嬉しかった。
 父親の「こちらへ来なさい焦凍」と言う声に俺の足は動かなかった。視線は鬼の面から覗く紅い瞳に釘付けだった。血よりも真っ赤、血よりもきれい。
 焦凍、と呼ぶ声がうるさい。「焦凍、こっちへいらっしゃい」厳しすぎる父の声も、結局助けてくれなかった母の声も、全部、全部、全部、うるさい。
 焦凍、とうるさい声に耳を塞ぎたくなったとき、頭を撫でる感触がした。
 視線を上げると、きれいな人が微笑んでいた。父の炎を反射して輝く赤い瞳に俺が映っている。
 形のいい唇を緩めて笑うその人はきれいだった。鬼の面があるのに美しかった。そう表現するのが正しいと感じる人だった。

「私と、来るかい?」
「…っ、うん」

 ここは嫌だった。どこか遠くへ行きたかった。逃げたかった。どこでもいいから。
 その一心で掴んだ手はひんやりと冷たく、吹く風は生ぬるく、どこか遠くで笛の音が鳴っている………。
 はっとして目を覚ますと、見慣れた木目の天井が見えた。
 畑仕事のあとにちょっと休憩するつもりで布団に転がったのに、寝てた。
 ……見ていたのは昔の夢だ。俺がまだ轟家にいて、厳しく躾けられていた頃の夢。
 夢の中にまで届いた笛の音に惹かれるまま、畳の部屋を横切って障子戸を開けて外に出ると、黄金色の空と蛍のような光が舞う庭の縁側があり、あの日と寸分変わらない美しさを保ったままのが笛を吹いていた。
 ぬるい風にさらわれて揺れる宵闇色の髪。宝石のように紅い目。陶器のように滑らかで白い肌に、すらりと長い手足。
 今日は黒地に赤い華が散らされた着物でどこか気怠そうに笛を吹いている、その姿すら一枚の絵になる、そんな雰囲気を纏っている。
 俺に気付くと笛を置いて「焦凍」おいで、と差し伸べられる手に寄って行って床板に膝をつくと、ひんやりと冷たい手が俺の手に触れた。その温度と感触は夢の中と同じで心地がいい。
 俺が轟家から逃げ出し、この人のもとに来て、五年がたった。
 親父には鬼と呼ばれていたこの人は、俺に酷いことの一つもしないまま、五年、無事に育ててくれた。
 一見すれば人間にしか見えないこの人が、それでも『人じゃない』とわかるのは、まったく物を食べないからだ。俺が畑で育てた菜食をこの人は一度も食べたことがない。それに加えて、陰陽師でもなければできないんじゃないかと思う人外の業をこの人は容易くしてみせる。

「お腹が減ったかい」
「少し……」
「今日は魚を獲ろうか」

 ゆるりと立ち上がったその人が下駄を履いて向かう先は、広大な敷地内に流れている川だ。どういう理屈なのか、この川には定期的に魚がやってきては泳いでいる。
 その魚を爪の一刺しで射止めて、ほら、と渡される。鮎だ。「ありがとうございます」魚を捌くのも肉を捌くのも必要だから憶えた。今日は白いご飯が進む夕飯になりそうだ。
 さっそく台所に駆け込んで下処理をしていると、カラ、コロ、と下駄の音。来る必要はないのに、黄金色の空を背に、が台所の戸口に立っていた。気怠そうな表情で紅い瞳を細くして魚に包丁を入れる俺を見ている、その横顔にぱらりと黒い髪がかかる。「どうか、しましたか」包丁を置いて駆け寄った俺を真っ赤な瞳が見下ろしている。
 ……本当にときどきだけど、この人のことが怖い、と感じることがある。
 その気になれば俺を殺すことも簡単だろうこの人が俺を生かす理由がわからないせいだ。
 あの日、どうして助けてくれたのか。顔の傷を消してくれたのか。訊けば教えてくれるかもしれないが、なんとなく怖くて、今までずっと訊けずにいる。

「焦凍」
「はい」
「夕飯のあとでいい。血をおくれ」

 この人が、人でない、と思う理由の一つ。普通のものは食べないのに、月に数回、俺の血を欲しがる。
 はい、と返事をすると、カラン、と下駄を鳴らして背を向けたはどこかへ行ってしまった。
 飯を炊いて、一人で食べる準備をして、畑で育てた野菜をバランスよく調理してよそって、魚を焼いて、一人手を合わせていただきますをする。そのことには慣れたけど、白い着物を着ての前に進み出ることには未だに慣れない。
 が食事をするときは着るようにと言われている白くて薄い肌触りのいい絹の着物を用意し、濡らした手拭いで体を吹いてきれいにする。
 白い着物に袖を通し、白い帯を締め、どうせすぐ脱げる、と思いながら姿見の前で着物を着た自分を眺め、左右で色の違う髪に櫛を入れた。
 鏡の中の自分の左の顔に火傷の痕はない。
 髪をかき上げて確かめたが、あの人が治してくれたから、普通なら治らない火傷はきれいさっぱりなくなっていて、失明していたろう左目も普通に見えている。
 生きていけている。
 そのことへの礼が血の提供だけでいいんだろうか、と、鏡を前に考えてみる。考えてみたが、他に俺ができそうなことなんて思いつかない。あの人が血でいいと言うのならそれでいいんだろう。
 が食事をするときの部屋になっている、この屋敷で一番大きい部屋へ向かうために自室の障子戸を引き開けると、りーん、と虫の声がした。
 黄金色の空は少し暗くなり始めているが、この場所では完全に日が落ちることはない。そういう世界なのだ。
 蛍のように見える何かが宙を舞い、ぬるい風が吹き、四季はなくて過ごしやすく、川はどこからか流れてきて魚と飲み水を提供し、畑の野菜はすぐに育って俺の食事になる。
 定期的に迷い込む動物はが仕留め、血を抜き、肉を俺がもらって食べる。そして、月に数回、俺も血を提供する。そんな生活をもう五年も続けてきた。
 縁側を通ってがいるだろう部屋の前に行き、襖戸を叩く。

「お入り」

 いつもの声に失礼しますと断ってから戸を開けると、は囲炉裏の前で煙管を吸っていた。ふう、と紫煙を吐き出したかと思うと瞬きの間にその手から煙管が消えて、おいで、と手を差し伸べられる。
 その手を取って、引き寄せられるままに長い腕の中に収まると、ほんの少しだけ煙の香りがした。
 はいつも白檀の良い香りがする。今はそれに少しだけ煙が混じっている。
 する、と肌を滑った冷たい手が着物を落とし、俺よりも長いと思う舌が首筋を舐め上げる。「…っ」背筋がぞわぞわする。「大きくなったね」太ももを撫でる手のひらがこそばゆい。「の、おかげです」と返すと不思議そうに首を傾げられたが、本当のことだ。あなたが俺に肉や魚を与えてくれて、暮らすのに困らない家をくれたから、生きていけてる。この人にとってはなんでもないことかもしれないけど俺には重要なことだ。
 俺の体を視線と手のひらで愛でていたの口から白い牙が覗いて、首筋に埋まる。チリッとした痛み。でも嫌じゃない。こそばゆいだけで。
 血を吸われたあとは軽く貧血にはなるけど、肉とか魚とか食べれればすぐに戻る。問題ない。
 ただ、それとは別に、最近血を吸われる度に疼く場所があって。今も、自分のそこばかり気になって、白い褌を見てしまう。
 布越しではよくわからないが、何か、変な感じがする。放尿したいのとはまた違う疼きというか…。
 それがなんなのか、わからないまま、俺の首に埋まっていた顔が離れた。
 どんなときでも美しいその人はぺろりと舌で唇を拭うと真っ赤な目で俺を見下ろす。ゆるりと細くなるその瞳が、ときどき怖くて、でも、好きだ。

「おいしいね、お前は」
「…そう、ですか?」

 血の味がおいしいって感覚は俺にはよくわからない。どれくらい吸われたのか、ちょっと、ぼうっとする……。
 焦凍、と呼ばれて上の空で返事をして、足の付け根をひやりとした手のひらが撫でた感触で意識が醒めた。
 なぜか褌が解かれていて、決してキレイとはいえないモノを陶磁器のように美しい手のひらが撫でている。「あ…え?」俺の、普段と形が違う。意味がわからない。どういう。どういう?
 困惑しきっている俺に冷たい唇が降ってきた。「精通できそうだ」「せ…?」せいつう。ってなんだ。
 わけもわからないまま冷たい唇に口を塞がれた。初めての口付けだった。ぬる、とした長い舌は生暖かく、かなりの質量で俺の口内に押し入ってきて、歯、上顎、舌、全部を絡めていく。「ふ…ッ」口の中がいっぱいで、唾液を飲む余裕がない。おまけに俺のモノはの手で弄ばれていて、口も気持ちいし、指と手のひらで刺激されて、下の方も、なんだか気持ちよくなってきた。気がする。
 変だ。こんなこと今までなかった。俺の陰茎、変だ。

、これ、なんですか。おれ、へんになる…っ」
「変じゃない。誰もが経験する通過点だ」

 の長い舌が、絶対にキレイじゃない俺のに巻き付いた、瞬間、体が跳ねた。手のひらは冷たいけど、舌は生暖かい。そんなものに包まれてしごかれてしまったら、俺は。我慢が。できない。
 気持ちがよくて、口を塞ごうとした手のひらを冷たい手に握り込まれた。「、きもち…ッ」「それでいいよ」「き、もちィ、そこ、そこが」ざらりと舌で舐め上げられて腰が跳ねる。気持ちいい。なんで。「ぁ、なんか、でる、でそう」「出していい」「で、も…あッ」舌で舐められるだけでも気持ちがいいのに、の口に咥えられて、吸われて、気持ちよさが弾けた。何か出してしまった。きれいな人の口の中に。絶対、汚い、ものを。
 血を吸ったときと同じ、長い舌で唇をぺろりと舐めたはなんだか満足そうだった。

「おいしいね、お前は」

 ……ついさっきも同じ言葉を聞いた。
 血と、俺が出してしまった何か。両方飲んだ美しい人は、紅い瞳を緩くして俺のことを見下ろしている………。