不純から始まった生き方は、どこまでいっても不純のまま、キレイになんてなれなかった。 何度洗っても血の赤がこびりついているように感じる左手を掲げる。 不自然に波打った手のひらは油断すると溶けて崩れてしまいそうで、そんな不安定な状態なのにまだ人間でいようとしている、そんな自分に苦く笑う。 運がなかった。 ただそれだけの人生だった。 これはとても簡単な話だ。 戦争で両親が死んだ。孤児院に引き取られた。そこでは飢えることはなかったし、雨風に怯えて寒さに震える必要もなかった。 その代わり、毎日よくわからない注射をされ、薬みたいな味がする飯を食わされ続けた。 気付いたらこういう体になっていて、気付いたら周囲にいた子供たちの数は半分以下まで減っていて、気がついたら、自分の体は純粋な人間のソレではなくなっていた。 実験の『成功作』としてサバイバル術を叩き込まれる日々が訪れ、やがて軍人がするような厳しい訓練を課され、そのうち、人を殺すことを憶えた。 日に日に減っていく、同じように集められ作られ育てられた仲間たちと寄り添いながら、与えられる日々を生きるしかなかった。 そうして、アメリカが生んだ一つの闇である『キメラ部隊』最後の一人になったとき、悪足掻きのように、俺は逃げ出したのだ。あの場所から。すべてから。どうせそのうち全部なかったことになるってわかっていながら。 「ん」 顔の横に差し出されたカップを一つ瞬きしてから眺め、カップを持っている手から腕、肩、首、相手の顔へと視線を動かしていくと、紅白の髪をした轟焦凍という名前の男がいた。 とても物好きな日本のヒーローで、なんでか知らないけど、出会ってからこっち、俺のことを助け続けている奴だ。 真夏はすぐそこだと思う七月の晴れた日。降り注ぐ陽射しを眺めながら、焦凍と二人でフラペチーノとかいう甘い飲み物をすすって飲んだ。すっげぇあっまい。 日本の夏は予想していたよりずっと暑い。陽射しが、というより。こう。肌に纏わりつく空気が暑い。 エジプトへ逃げてたときなんか、もっとカラッとしてた。陽射しは痛かったけどこういう暑さじゃあなかったよな。夜は寒いくらいに冷えたし。日本、夜になってもじっとり暑いもんな……。 焦凍と二人でフラペチーノをすすって飲み、飲み物で多少温度が下がった気がする体で、人でごった返す東京の駅を眺める。 誰も彼もが着飾って、これからパーティーにでも行くのかってはりきった装いだ。そんな格好でアメリカの路地裏に入ってみろよ。服も財布も貞操も一瞬でなくなるぞ。 「今からどこ行くんだっけ」 「旅館。行きたいって言ってただろ」 「あー」 日本と言えば畳と浴衣と温泉のある旅館じゃないか、なんて俺の知識を語ったら、そういう場所に連れてってやるって言われたんだっけ。 律義だなぁ。何もそこまで、俺のお願い、叶えなくていいのに。 ブルッとおかしな感じに震えた右腕を左手で握り締める。 人の目が多い。今は耐えろ。 駅まで迎えにやってきた旅館のいい車の後部座席に乗り込んで、運転手の後ろの席を陣取ると、ブルブル震えていた右腕が溶け崩れた。 そのことに驚く焦凍はもういなくて、今はただ悲しそうに色の違う両目を伏せて俺の肉塊を黙って拾い上げている。 (別に、悲しむ必要なんてないのに) この男はどうして俺のためにそこまで感情を割いて、思考を割いて、金も時間もかけてくれるんだろう。 セックスしてみたいなんて言った俺と、体の関係まで許して。優しいこの男は一体何を考えているのか。そんなんじゃ、都合よく利用されちゃうよ。今みたいに。 案内された旅館の部屋で、なんとか耐えていた俺の下半身が溶け崩れると、焦凍はまた悲しそうな顔をした。それですることといえば、着いたばっかりだっていうのに畳の上に布団を敷いて服を脱いで落としていく。 俺がどうしようもなくグズグズの肉塊になりかけると、焦凍は裸で俺を誘う。「」与えられた名前で呼ばれる。シよう、と。 これで何回目のセックスになるのかはもう忘れた。 「お前は何も悪くない。頑張ってきただけだ。偉い。偉いよ、」 人として焦凍を抱いて、人としての快楽を感じて、焦凍の優しい言葉を聞いてると、少しだけ、救われた気持ちになる。 俺は焦凍の前でだけは、人として振舞えて、人として、求めてもらえる。 人として泣くことが許される。 兵器としてじゃなく。人殺しとしてじゃなく。ただの『』として、息ができる。 「もし、俺が、スライムから戻らなくなったら。焼いて」 裸のまま布団の上を転がり、左側、紅い方の髪に指を絡めながら囁くと、不機嫌そうな顔で睨みつけられた。「ぜってぇしねぇ」と。 「……俺はさ。成功作だから」 顔の左側。おでこから目の周囲にかけてある何かの痕をそっとなぞる。「蒸発して消えないし、肉体が溶けても、残る。どの程度かはわからないけど。犬猫くらいの思考力かもしれないけど。残る、と思う。でもそれは、辛いだけだから」だから焼いて。焼いてしまって。人として生きられず、お前とセックスもできなくなるなら、本格的に生きてる意味が失われる。だからいっそのこと焼いてほしい。お前の手で。そうしたら俺はきっと素直に地獄に落ちることができるから。 焦凍の左目。海と空の青を混ぜたようなきれいな瞳から透明な雫がこぼれて落ちた。 「お前は、自分のことばっかりだな」 「うん」 「俺のことは、どうでもいいのか」 「………わからない。ごめん」 正直な気持ちを吐き出すと、焦凍は泣いた。 うまい言葉も思いつかない俺は、裸の焦凍をゆるりと抱き締めて、もっと気が利く男だったらよかったのにな、と自分のことを他人事のように考えている。 ……自分のことだけで手いっぱいの人生を送ってきた。 他人を思いやる余裕なんてものは抱けない人生だった。 焦凍には感謝はしている。俺の衣食住がどうにかなっているのは焦凍がいたからだ。焦凍が俺を助けてくれた。焦凍がいたから俺は今もまだ俺で在れていると思う。 焦凍がいたから。 「優しくしてくれて、嬉しかった。ありがとう」 本音だった。照れくさくて素面じゃ言えないけど、泣いてるのを隠すように自分の腕で目元を覆った焦凍になら、目の合っていない今なら、言える。 俺の人生で、唯一、一緒に暮らした人。部隊以外の人間。人を助けることが好きな、物好きなヒーロー。 「俺のこと、助けてくれて、ありがとう」 そう口にした瞬間、俺は満足してしまって。焦凍の前で、俺の全部は溶けて崩れて、ばちゃん、と重い水音を立てた。 |