アメリカからの逃亡者、最重要指名手配犯であった『キメラ』は死亡した。
 キメラ化した細胞が長年の負荷に耐え切れなくなり、人としての姿を保てなくなり崩壊。そのまま二度と人には戻らなかった。
 人には戻らなかった。が。

「飯ならやるから机には乗るな」

 黒い猫の姿でにゃあと鳴いた相手がテーブルを飛び降りる。次の瞬間にはしなやかな黒い豹になって俺の足にすり寄って来る、その頭を撫でてやり、猫の飯でもなければ生肉なんかでもない、人間としての飯を自分のと二人分用意する。
 今日は豹の気分らしい相手のことを考えて、そのために買った低めのテーブルにカツサンドとサラダとぬるめのスープを並べると、豹のくせに器用な相手はぱくぱくと飯を食っていく。
 食うのがうまくいかないときは、豹の髭が伸びてスライム化して飯をつまんでは口に運ぶ。スープは口を突っ込むようにして飲む。その様子を眺めながら自分もカツサンドを頬張る。
 ………という人間が溶け崩れてこれで一ヶ月になるが、あれから一度も人の姿に戻ったことはない。
 人間としてのは死んだ。そう言っていいと思う。
 そう、人としては、もう生きてはいない。
 ただし、動物としてなら。そのくらいの思考力のある生物としてなら、まだ、生きてる。
 猫になったり豹になったりライオンになったり、気紛れに動物の姿を取りながら俺についてくる。他の場所へは行こうとしない。そういう相手をと呼ぶことにも慣れてしまった。
 これでも最初は、色々考えたんだ。溶けて崩れた肉をかき抱いて考えたんだ。
 が望んだように燃やしてしまった方が、罪と罰に溺れるアイツを助けてやれるんじゃないかって、それが俺にできる最後で最善なんじゃないかって、考えた。
 だけどお前が。肉のスライムのお前が、黒い猫になったから。俺を見上げてにゃあと鳴いたから。かざしかけていた左手から炎は消えてしまった。

「俺は今から仕事だ…っ」

 夜勤で出て行こうとする俺のシャツを噛んで引っぱる豹に、その服を引っぱって返すが、びりぃ、と嫌な音を立てて破けた。
 また一着駄目にした。これで何着目だ。「お前な……」仕方なく部屋に戻って新しいシャツを着るが、相手に引く気配はない。行かせるものかとばかりに目がギラついている。

「約束だろ。仕事についてくるなら目立たないものになれ」

 ライオンも豹も動物園かサバンナにいるべきで、日本のその辺をうろついてていい存在じゃない。
 黒豹は目を眇めると、しゅしゅしゅっと体を小さくしていって、見慣れた黒い猫になった。これで文句がないだろうとばかりににゃあと鳴く。
 仕方なく、本当に仕方なく、黒い猫になったを抱き上げる。仕方がないからもう一枚上着を着て「いいか、大人しくしてるんだぞ」羽織ったパーカーの中に猫を入れて、夜でもうだるような暑さの残る夜道を行く。
 パーカーの襟元から器用に顔だけ覗かせている猫を見ながら考える。
 俺は一体何をしてるんだろうか。
 一体何がしたいんだろうか。
 思えば最初からそうだ。って存在と出会ってからの俺は、色々、変だと思う。
 最初は、無実で不実な罪と罰に断罪されそうになっている相手を自分勝手に助けたのだと思っていた。不幸な生い立ちと不幸な生き様。その最後くらい自由にしてやりたいと思って手を貸した。それは俺の勝手だった。
 俺が勝手に手を伸ばして、暗闇に沈みそうだった相手を光の下へと引き上げた。

「なぁ。迷惑だったか」

 相手は今猫だ。猫なんて飼ったことないし、どの程度賢いか、なんてこともわからないが、黒猫はにゃあと鳴いた。肯定なのか否定なのか、わかるはずもない、ただの鳴き声。それを相槌と受け取る。

「俺はさ、結構、楽しかったよ。お前と暮らすの」

 お前は飯を食いすぎるし、毎月の食費には本当に頭が痛くなったけど。なんだかんだ、楽しかったよ。
 お前はどうだったかな。楽しいって、少しでも思ってくれたかな。そうだといいけどな。
 全部、俺の独りよがりの偽善じゃなかったなら、この喪失にも、空白にも、少しは意味が生まれるから。

「俺さ」

 視線を落として猫を見ると、堪えていた涙がぱたりと落ちた。見上げてくる黒い猫の金の瞳がの髪の色だ。「寂しいよ」……お前が最後に言ったありがとうが、いつまでも耳にこびりついている。声だけがいつまでも頭の中をぐるぐると回っている。離れない。

 優しくしてくれて嬉しかった。ありがとう。俺のこと助けてくれて、ありがとう。
 ありがとう。
 ありがとう。
 ありがとう。

 それはまるで、優しい呪いだ。甘くて優しい呪いの言葉。
 にゃあ、と鳴く猫がパーカーから飛び出して俺の肩に乗り移る。頭にすり寄って来たと思ったら顔を舐めてくる相手に、これ以上泣かないようにと唇を噛みしめる。

「し、ょ、と」

 言葉。耳のすぐ横から聞こえた言葉は、黒猫から発せられていた。ゴロゴロ喉を鳴らしながら「し、よ、と」たぶんだけど。焦凍って、言おうとしている……。
 呆けた俺の目からまた涙が落ちた。
 お前のこと諦めようって、この一ヶ月で何度だって考えたのに。俺は変わった動物を飼っているんだ、それ以上でも以下でもないって自分に言い聞かせていたのに。今ので全部、台無しだ。

「しょうと、だ」
「し、しぉ、と」
「しょうと」
「しょ、う、と」
「うん」

 、とこぼして黒い猫を腕に抱く。
 人の姿を失くした、人間だった生き物が、どうなるのか。どうなっていくのか。まったく予想ができないし、わからないけど。コイツを左手で燃やそうなんて、もう思えない。

(少し疲れたんだよな。いいよ、休んで。人より頑張って生きてきたんだから、ゆっくり、休めばいい)

 だから。気が済むまで休んで、休むことに飽きたそのときは。また一緒に行こう。
 どこへでも付き合うよ。映画だろうが食べ放題だろうが、セックスだろうが、なんでもする。
 だからいつか、また人として、俺と一緒に生きよう。
 ……これは俺の勝手な願いごとだ。
 いつかの未来で。お前が俺を選んで、俺がお前を選んで、人生って道を歩いていたら。暗い闇を蹴散らしながら、月の光の下を歩けていたら。俺は、嬉しい。