小さく、幼くなった手で、大きく立派になった焦凍と手を繋ぎ、草履の足でぬかるんだ道を歩く。
 人の世界には天気というものがあり、昨日一昨日は雨で移動を封じられ、雨宿りにも難儀した。今日は降らなくてよかった。

「歩きにくいだろう」

 小さくなった私を必要以上に気にする焦凍に「子供ではないんだから」と返して、見た目は子供か、と思い直す。中身は変わっていないのだけどね。
 確かに、ぬかるんだ道は歩きづらく、私の小さな歩幅に合わせていては焦凍の歩みも遅々として進まないだろう。「じゃあ、甘えよう」肩を竦めた私をすくい上げた焦凍の手は憶えている頃よりも筋肉がついて、なんというか、立派だ。私が回復に専念している間も生きていた。そのことがよくわかる。
 高くなった目線で焦凍の胸に頭を預け、河原沿いの砂利の道を眺める。ところどころぬかるんで泥の水溜まりが目立つ。

「焦凍の足でどのくらいかかるだろう」
「道が悪いからな。例の山まで半日かからないと思いたいが」
「無理はしないでおくれよ」
「わかってる」

 雨上がり、河原沿いとはいえ不自然な霧が辺りを漂っているが、私を抱いて歩く焦凍の足に迷いや淀みはない。
 ………あのあと。私が形を成し、勝己のもとに逃げ、少し厄介になったあと。轟の家を捨てた焦凍は、私とあてどない旅に出た。
 あてどないとは言っても、目的そのものはある。それは私の『力の回復』だ。
 ようやく人の形が保てるようになったところである私には、あの頃のように、焦凍の顔の火傷を治してやるような力はない。
 今の私の力は微弱で、それは幼子という容姿にも表れている。
 これは早急な問題だ。
 何かを喰らって力を得なくては、私は弱いまま。もし他者を喰らう物の怪の類にでも会えば、陰陽師と遭遇すれば、自衛すらままならず、私は焦凍に守られる立場となるだろう。

(鬼の誇りがどうこう、などとは言わない。ただ、私のものであるお前を、私が守れないのが嫌なだけだ)

 休まず歩き続ける焦凍に「水が飲みたい」とねだって下ろしてもらい、竹の筒から水を飲み、放っておくと頑張りすぎる焦凍を休ませるために大きめの岩に腰かける。「おいで」ぽん、と隣を叩くと、歩き続けて疲れたんだろう、焦凍は大人しく背負っている荷物を下ろして隣に座った。
 鬼になったとはいえ、焦凍は半分は人間だ。焦凍の血をすすって水を飲んでいればいい私のようにはいかない。肉体を適度に休ませ、人のご飯はしっかりと食べてもらわなくてはならない。それが私のためでもある。
 休憩の時間だと割り切ったんだろう、焦凍は角と髪を隠すために被っている笠を外すと、荷物の中から握り飯を取り出して頬張り始めた。
 あてどない旅の今の目標は、人里で話題になっていた魔狼だ。なんでも、馬みたいに大きな狼が住む霧深い山があるのだとか。
 牛ほどの大きな家畜が次々と襲われ、男が数人がかりで討伐しようと山に入ったが、そのまま戻ってこなかったという。
 もしそんな狼がいるのなら、私が喰らって力に変えたい。
 足をぶらつかせながら空を見上げていると、伸びた腕に抱き寄せられて額にキスされた。
 街道沿い、どこに誰の目があるかわからないから額にしたのだろうが、修行僧の格好をした君が私という幼子を連れている時点で色々と人目を引いている。今更といえば今更の気遣いだ。
 それに、こんなに晴れているのに、霧が深くなってきた。人の視界は利きづらいだろう。
 私は幼子らしく、幼い笑みを浮かべて焦凍の唇を奪った。味噌握りの味がする。
 驚いた顔をする焦凍の首に腕を回してくっついて舌を入れると、迷ったような間のあとに抱き返された。
 誰の目もないさ。少なくとも人間の目はない。それくらいはわかる。

「霧、晴れないな」

 ぽつりとした声に「晴れないさ。魔狼の出している霧だからね」と返し、視線を感じる方へ鬼の目を向けてやると、程なくして茂みから一匹の狼が這い出てきた。ただの狼だから鬼の力に叶わず平服している。
 焦凍は狼という獣に警戒したが、私もお前も、人ではない力を持っている。ただの狼など警戒するに値しない。「案内させよう」「できるのか?」「鬼は強いのだよ」たとえこんな幼子だろうともね。
 生き血をすすられることを恐れているのか、狼は耳と尻尾を下げて私たち二人の先を歩き始めた。笠を被り荷物を背負い直した焦凍を待って狼を追う。
 足を進めるほどに霧は深く、濃くなっていく。
 魔力でもこもってるんだろう、鬼の目でも遠くまでは見通せない。
 先を歩いているはずの狼の尻尾が一段と深い霧の中に消えて、ギャン、と悲鳴が上がって途絶えた。……血の匂いがする。

「来るぞ」

 唸るようにこぼして荷物と笠を放った焦凍に、何もない空間にふうっと息を吹きかけて、大人の私が最後に作った扇子を取り出す。
 鬼の視界にも速いと思う獣の爪が私に向けて振りかぶられたとき、足元から氷の針山が生えて、噂のとおり馬ほどもある魔狼を飛びのかせた。
 光る目をした獣はすぐに霧の中へと身を潜めたが、道案内していた狼を殺している。その爪に付着した血で、見えずとも、居場所はバレているよ。

「怨みはとくにないけれど。お前の命、いただくよ」

 昔のように、自分の力を込めて扇子から攻撃を繰り出す真似はできないが。人間の世界にも危険物というのはたくさんある。
 振るった扇子から毒が塗り込まれた針が飛び出し、一本が魔狼の足に命中した。効くまで多少時間はかかるが、その時間は焦凍に稼いでもらおう。
 霧を突き破って現れた魔狼の大口が私を噛み砕かんとする。
 鬼らしく牙を剥いて唸り返した焦凍の体の左側から炎が出た。同じように、右側からは氷が。
 炎と氷の使い手として、本当なら陰陽道を極めているはずだった彼は、その力を私のために振るう。
 焦凍の炎と氷による牽制でこちらに手を出せない魔狼の動きは毒で徐々に鈍くなり、ついには立てなくなった狼が地面に転がる。

「おやすみ。お前は殺しすぎた」

 魔狼なんて呼び名をもらうほどには家畜や人を襲った。これ以上はいけない。
 私の手刀で抱えるほどある魔狼の頭が飛んでごろりと転がった。
 遅れて赤い色を溢れさせる体に顔を寄せて血をすする、そんな私を焦凍が複雑そうな顔で見下ろしている。
 こんなことを、場所を転々としながら続けてきて、数ヶ月。
 おかげで最初の頃よりは私の力もついてきたけれど、それでもまだまだだ。捕食対象を獣に絞っているから思っているより力が蓄えられない。

「人間は、喰わねぇのか」

 獣の肉を食いちぎる私へと投げられた焦凍の疑問に、肉を噛み砕きながら、私はこう返す。「鬼狩りはまだ続いている。下手なことはできないさ」「……そうか。そうだな」どこかほっとしたような表情に、今はまだ、と心の内で付け足す。
 あの日、鬼狩りはそこまで成果を上げなかったというのは勝己に聞いた話だ。
 多くの鬼が抵抗した。陰陽道に対抗すべく力を蓄えていた勝己のような鬼を筆頭に、相手を殺すとまではいかずとも、退けることに成功したり、痛み分けで引き分けたりと、良い勝負をしたんだそうだ。
 あの都はなくなったが、散り散りになっただけで、あの場にいた多くの鬼は今もまだ生きている。
 人の姿を捨ててまで轟炎司と相対したという俊典も、どこかで生きているのだろう。
 いつか、再会できたなら、今度は私が茶を淹れてやろう。そんなことを思いながら狼の肉を食い、残った皮を革にすべく、こんな私にもついてきた狐の一匹に生皮を預けると、ちょっと嫌そうな顔をされた。

『く、くさいですね…』
「我慢」
『は、はい。無事加工します……』

 以前ほどの力はないが、ちょっとした小屋くらいの広さの私の領域にはぎゅうぎゅうと色々なものが詰まっていて、そこに狐も入っている。
 修行僧である焦凍に革は無用な産物かもしれないが、立ち寄った人里で物々交換を持ちかけるさいの材料になる。今までコツコツ剥ぎ取ったりしてきたが、これは焦凍の着物や食べ物になるのだ。
 その焦凍が不思議そうな顔で狐が出入りする領域を眺めてから、ぽん、と手を打った。「俺にもできたりするか?」この領域のことを言っているのだろう。私は首を傾げて流れてきた黒い髪を払った。「どうかな。お前は覚醒して日が浅い。まだ難しいかもしれない」「そうか……」肩を落としてしょんぼりするのがかわいらしい焦凍の手を引き、「いずれできるさ」と慰めて、魔狼が消えたことで霧が晴れた森の中、下山を始める。