あの日。鬼の都が陰陽師の手に寄って破壊されてしまった日以降、僕、出久は孤独な日々を過ごすことになった。
 孤独というのは正しい表現ではないのだろうけど、そばにいる人と埋められない心の距離を感じるのなら、それは孤独になる……んじゃないだろうか。

(焦凍くん、元気かな…)

 あの襲撃の日。陰陽師に連れて行かれてしまった焦凍くんと再会して、彼の鬼であるさんとも会って。二人が滞在してくれた短い期間だけが、唯一、僕が孤独を感じずにいられた時間だった。
 焦凍くんが半分鬼になってしまったという話を聞かされたときには驚いたけど、こうも思った。いいなぁ、って。
 ………鬼の勝己は僕を『食糧源』として見ている。
 そんなことは幼い頃にわかっていたつもりだった。
 自分はそのためのお稚児で、そのためにここにいて、鬼の食糧になる代わりに、飢えることなく生きていける生活の保障がしてもらえる。
 わかっているつもりだった。
 僕はきっと彼にとってそれ以上の存在にはならないし、なれないのだろう。
 最近そんなことばかり考えてしまって気分が滅入る。僕がこの領域内に住まっているのは彼の食糧となるためで、つまり、飼い殺しなのだから。
 その日もとくにすることもなくて、水色の空の下で猫っぽい生き物になった俊典さんの背中を撫でてあやす。
 今日もかっちゃんは出かけている。最近ずっとそうだ。何か用事があるのか知らないけど、行き先も告げず、僕に何も言わないで出て行ってしまう。

「はぁー」

 背中からどさっと倒れ込んだ僕に、驚いた俊典さんがびょんと跳んで庭に駆けて行った。
 ……あの日、多くの鬼を逃がすため、自ら轟炎司という襲撃者の陰陽師に挑んだ平和主義者の鬼は、力を使い果たした。
 俊典さんが人の形を捨て、理性を捨て、力の化身になり果ててようやく退かせることに成功した陰陽師の人たち。
 残ったものはといえば、もう理性の戻らない動物じみた俊典さんに、破壊された都の残骸と、死体と、怪我人。
 僕はかっちゃんに連れられてあの都を抜け出して、猫みたいになってしまった俊典さんを連れて山寺に逃げ込んだけど。そこで静かな生活をできたのも三年だけだったなぁ…。
 湿っぽい息を吐いて視線を持ち上げると、山寺を模したような屋敷があって、水色の空があって、鳥が鳴く平和な音がしている。
 ここはかっちゃんの領域内だ。余分な力を使いたくないって理由で人里離れた廃寺を利用してたのに、最近はここにずっといる。
 ごろり、と床板を転がって、悪食の使いです、と言ってにんまりと笑った女の子を思い出す。人間に復讐しましょう、と笑ってみせた女の子。ね、出久くん、と取られた手を払いのけたかっちゃんのキレた顔を思い出して少し笑う。自分の所有物にちょっと触られたくらいでキレすぎでしょ、あの人。いや、鬼か。

『勝己様がお帰りです』
「、」

 かっちゃんが従えている狼の声にぱっと起き上がると、領域内に現実と行き来するための出入り口、ゲートが開いていた。おかえり、と声をかけるつもりで駆けて行くと、にゅっと紅白色の頭が出てきてびっくりする。

「え、焦凍、くん…?」
「出久。久しぶりだな」

 片手を挙げた修行僧の格好の焦凍くんに片手を挙げ返して、彼の後ろから出てきた、憶えているより少し成長した気がするさんにぺこっと頭を下げる。
 最後に入ってきたかっちゃんはすぐにゲートを閉じるとさんを顎でしゃくって示す。「俺らは話がある。茶ァ淹れてもってこいデク」「うん」言われるまでもなくそのつもりだったよ。
 修行僧の袈裟を脱いだ焦凍くんが脱力して縁側に腰かけ、お茶を淹れるために動き回る僕を見ている。

「半年ぶりくらいか」
「なんだかんだ、そのくらいだね。どう? さんの力を取り戻すのは、順調?」
「まぁまぁだ。でも思ってるより時間がかかってる」
「そっか。鬼の回復って、難しいんだね」
「ん」
「僕の方は、」

 そこで言葉が喉につっかえた。「僕の方は、とくに変わりないよ」そう笑って言うのに苦労した。
 まずは焦凍くんにお茶を淹れて、自分のおやつ用で作ってある野菜のチップスを出して、鬼二人用のお茶を盆に載せて「じゃあちょっと行ってくるね」と声をかけて、山寺でいえばご本尊があった場所……今はただだだっ広いだけの空間に向かう。
 力を取り戻すための旅に出ていたさんと焦凍くんをわざわざここに招いたんだ。よっぽど大事な話があるに違いない。
 この間、急に山寺を訊ねてきたあの女の子…被身子、だっけ。あの子に関することかもしれない。
 声をかけてから障子戸を開けると、広い空間に鬼が二人、向かい合うでもなくバラバラの位置に座っている。「はい」まずはかっちゃんにぬるめのお茶を出して、さんには普通の温度のお茶を差し出す。
 きっと大事な話をしているんだろうから、食糧たる僕が口を突っ込むべきじゃないだろう。そんなことしたら怒られるし。
 まるで逃げるみたいだな、と思いながら、余分なことは言わず、焦凍くんが待っているだろう囲炉裏のある部屋に取って返す。
 焦凍くんはお茶を飲み終えてチップスも食べてしまったみたいで、ごまがたくさんついたおにぎりを頬張っているところだった。早めのお昼ご飯のつもりなのかもしれない。

「お腹空いてるの? ご飯、あまり物だったらあるけど」

 僕の朝の残りにはなっちゃうけど、お昼はお昼で作ればいいし。久しぶりのお客さんだから僕もおもてなしがしたい。
 おにぎりを頬張っている焦凍くんがパッと顔を輝かせる。「いいのふぁ」「うん。えっと、まずはお茶のおかわりかな」「ん」焦凍くんは、陰陽師の家族に連れて行かれてからそこで鍛えられた…ってことをさらっと聞いたけど(顔の火傷もそのときにできたものだって聞いた。焦凍くんの顔ってすごく綺麗だったから、初めて見たときはそれなりにショックだったなぁ)焦凍くん、昔より体格いいのに、中身は変わってないんだよなぁ。結構甘えん坊。
 差し出された湯飲みを受け取って、囲炉裏で湧いてる鍋の湯を急須に淹れる。
 僕の朝のご飯の残り、菜食と小魚の甘露煮、おにぎりを食べてたけど一応ご飯もよそい、お味噌汁も持っていくと、焦凍くんは面白いくらいガツガツ食べた。「……お腹空いてた?」あまりの食欲に僕がびっくりするくらいだ。
 でも僕より、焦凍くん自身が驚いてるようで、もう半分ほど空にした茶碗を見つめている。

「俺、半分鬼だろ」
「うん」
「そのせいか、わからねぇんだが。最近すげぇ腹が減るんだ」
「そ、っか。体の変化なのかな……。他にも何かあるの?」

 新しく出してきた野菜チップスをかじりながら訊ねた僕に、焦凍くんは考えるような間のあとにぼそっと「あと、性欲が、すごい」「んぐっ」思わず野菜チップスを飲んでしまってむせる。なんとか吐き出して詰まることは回避したけど、ああ、びっくりした。
 ぎこちなく笑った僕に焦凍くんがまたご飯を食べる。それであっという間に空にしてしまう。
 半分鬼になってしまった影響なのかはわからないけど、焦凍くんの食欲は一応落ち着いたみたいで、満足そうにお腹を押さえている。「なんの話だっけ。ああ、性欲」「んっ」お茶を飲んでたのに危うく吹き出すところだった。危ない。
 焦凍くんはいたって普通の顔で「半分鬼、ってせいだけでもない。が搾り取ってくるから、その分俺も作らないとだろ。作り出すには精子だろうがエネルギーがいる。きっとそのせいもある」「そ、そっかぁ」さんは人間で言う病み上がりのような状態で、万全になるためには、力ある物を取り込んだり、お稚児で食糧源である焦凍くんを食べるしかない。理屈はわかる。だから焦凍くんの体も頑張ってるんだろう、って。
 いや。それにしても。あけすけだなぁ。お互いそういう話をする人が他にいないっていうのもあるけどさ。
 焦凍くんがふと気がついた顔で「そういえば、勝己とはうまくいってるのか」的確に、今の僕の地雷を踏み抜いた。
 それまで笑っていられたのに、途端に僕の笑顔は引きつってしまう。
 落ち着け、出久。ここで泣きでもしたら焦凍くんがびっくりするだろう。
 落ち着いて。冷静に。客観的に。
 すー、はー、と深く大きく息を吐き出して、なんとか作った笑顔。「じゃあ、次は僕の話、聞いてくれる?」「ん」お茶をすすって頷く焦凍くんに、何から話すべきかを考えて、僕はあの襲撃の日以降のことを、順を追って話すことにした。