夏兄のお古の服で着れそうなものを紙袋に詰め込み、持てるだけ持って行くと、いつも薄着の相手は驚いた顔をした。「え、何それ」「適当に着ろ。見てる俺が寒い」駅構内のトイレを指せば困った顔で紙袋を抱え、人目を気にしてか、大人しく中に入っていく。
 死んだ恋人に、個性で、命を懸けて呪われた。
 その結果人間らしさってものをあちこちに落っことすことになった男は、自分の名前も思い出せないらしい。
 持ってきた財布で有り金を確認していると、セーターとコートにマフラー、デニム、スニーカーというだいぶマシな格好になった相手がトイレから出てきた。夏兄はデカいから、ちょっと袖とか裾とか余ってるけど、不自然ってほどじゃない。

「轟、こんなにはいらないよ」
「…いつも同じ格好してるつもりか? 着替えがいるだろ」

 人間的に考えればそうだろう、と睨むと、そういうことに疎い相手は気付いた顔で「ああ」とぼやいた。それで、今までずっと着っぱなしだった春色の服をゴミ箱に捨てて、余った服は俺のお下がりのリュックの方に畳んで詰めていく。
 実際、毎日同じ春服でうろつくお前は不審者かもって目をつけられてた。着替えと洗濯くらいはコインランドリーを活用しろ。
 で、ランドリーとか使うなら金がいるだろうと俺のお古の財布を突き出すと困った顔をされた。

「いや、着替えだけでもありがたいから」
「文無しでどうやって生活してんだ」
「普段は扉とか捜してるよ。疲れは感じないけど、適度に適当な場所で寝転がってる。眠る必要も食べる必要も、まだないし」

 笑う相手に、口内に苦い味が広がる。
 呪われる。それがどういうことなのか、俺には少しだけわかる。呪いのような想いの重さがその身を縛るのがどういうことか、少しだけ、わかる。
 だから、そのままにしておきたくなかった。俺が手を貸せばコイツが救われるというのならそうしてやりたかった。
 自分がそうして救ってほしかったように。誰かを救うことで自分を救ってみたかった。
 これは、半分くらいは俺の自己満足だ。エゴだ。
 エゴらしく財布を押しつけ、困った顔の相手には知らんぷりをする。

「洗濯はコインランドリー。寝る場所はもうちょっと考えろ。この間、危うく死体騒ぎになるところだったの忘れたのか」

 コイツがこのクソ寒い中公園のベンチに横たわったままピクリともしないもんだから、もしかしてあれって死体じゃないの、なんてヒソヒソ囁かれてるところに割って入って声をかけて、起きて返事をしたから、この寒いのに外で寝てる変な人、で誤魔化せたが。俺が声かけてなかったら警察呼ばれてたんだぞ。
 男はリュックを背負うと「はい、以後気を付けます」とちょっとしゅんとする。……そういうところ、大人のくせに、ズルいと思う。
 切符を二枚買ってきて一枚を押しつけ、改札を通ると、男は大人しくついてきた。
 ここいらで憶えのある場所はみんな回ってしまったから、今日は電車を使う。いつか学校行事で訪れたときに馬鹿デカい扉だな、と思っただけの場所目指して少し遠出だ。今もまだあるのかは不明だが、あの扉のようなものは移動していても近場なことが多い。きっとあるだろう。
 俺が使い古したリュックを抱え、夏兄のお古とはいえ冬の服装になった男は、そうしているとどこにでもいる優男だった。「ん?」首を傾げた相手の紅茶みたいな色の髪が揺れる。
 ぷいっと顔を背けて、自分の醜い左側の顔を撫でる。
 少し引きつることがあるし、痒くなることもあるが。この人に比べればなんでもマシに思えてくる。
 外が寒いことも、電車の中があたたかいことも、この人は何も感じないのだから。
 自分の名前すら思い出せないこの人にとっては、鬱陶しいだけの父親も、どこかよそよそしい家族も、敷かれているレールを睨みつけ蹴飛ばす俺の人生も、拾い上げる価値のあるもの。なんだろう。

(………救われるのかな)

 女の呪いから、俺はこの人を救えるかな。人間に戻してやれるかな。
 そんなことを考えながら十五分電車に揺られ、目当ての駅で降りる。
 どういう行事でここに来たんだったかは忘れたが、あの大きな扉のことは憶えている。
 携帯でマップを表示して、ナビを頼りに知らない道を歩くと、神社の前を通りがかった。「あ」足を止める音に振り返れば男が神社の中ほどを見ていて、そこには俺が目指していた大きな木目の扉が鎮座している。やっぱり移動してたか。
 赤い鳥居をくぐると、リーン、と鈴の音がした。

「これは、結構キツそう」
「そうか」
「轟は、」
「行く」
「そ」

 首からさげている鍵を手にした男が鈍い錆色を掲げれば、遥か頭上だった鍵穴が下がってきて自分から鍵を呑み込んだ。カチ、と解錠の音がして、ギギギ、と不穏な音を立てて大きな扉が開いていく。
 今度は一体何が待っているんだと思いながら唾を飲み込み、扉の向こうへ一歩踏み込む。
 そこはさっきと地続きみたいな、神社の敷地内に見える場所で、ミーン、と蝉が鳴き叫んでいた。「……?」リアルにありそうな場所だ。こっちがコートやマフラーで固めてなきゃ、夏の神社に来たのかと錯覚するくらい。
 そこで、男の姿が見えないことに気付いた。ほぼ同じタイミングで入ったつもりだったけど引き離されたか?

「おい、」

 相手のことを呼ぼうとして、名前を知らないんだったと思い出す。かける言葉がない。
 くそ、と歯噛みしてとりあえず境内を練り歩くが、姿がない。
 まさかな。そんなことを思いながら神社の、ご神体とか、そういうのが祀られてるはずの社を覗いて……そこに立ち尽くす男と、罰当たりにもまぐわってる男女を発見する。
 スパン、と障子戸を開けて、空笑いというか、そういう笑い方をしている男の手を掴む。「嫌なもの見せるよな。こんな娘だったかな」「……知らねぇ」これはたぶん、かつての二人だ。幸せだった情景を見せつけて今への執着をなくす。亡者なんてそんなものだ。
 右手を向けて二人をそのまま氷漬けにし、覇気のない男の手を引っぱって社を出る。
 呪いだかなんだか知らないが、いい趣味してるじゃねぇか。人の古傷抉って楽しいのかよ。
 それに、なんでだろう。すげぇイライラする。
 さっきのがかつてあった過去の情景だったとして、そういうモンだって頭では理解してんのに、なんか、すげぇ、イラつく。
 今コイツの隣にいるのは俺なのに。

「轟」
「……ん」
「ありがとう」

 それが何に対してのありがとうなのかは、振り返った先で光を握った男の手を見てなんとなく理解した。半ば八つ当たりみたいに氷漬けにしたんだが、あれでよかったらしい。
 気がつくと蝉の声なんてしない寒風吹きすさぶ神社の鳥居の下にいた。「さっむ」ぼやいた男がはっとした顔で自分の手をぐっぱする。「寒いかも」「…じゃあこれは」左手の体温を上げて手を掴むと、ぱっと表情が明るくなった。「あったかい。え、いや熱くない? なんで?」「……個性だよ。二つ持ちなんだ」「へー」冷たくした右手を出すとそっちも握られ、「ほんとだつめて」なんか嬉しそうにはしゃいでいる顔を眺めて視線を外す。
 俺がイラつくままに握り締めていたから手に跡がついてる。それで今頃気がついたのか「ん、なんか手が痛い。もしかしてさっき思い切り握った?」今更顔を顰めて手をさすっている相手を置いて歩き出す。
 熱いのも痛いのも寒いのも、わかるようになったんだな。それだけで随分人間らしさが戻ったように感じる。「さみー。いてー」手をぷらぷら振りながら俺のあとをついてくる姿をチラ見して前を向く。

(この旅を続けていって。その先で、この人が人間に戻ったとして。そうしたら俺はどうなるんだろう。……どうしたいんだろう)