轟の協力のおかげで味覚と嗅覚を取り戻した頃、世間は春休みに入っていた。
 すっかりお腹がすくようになって、最近は毎日の食費に頭を悩ませるような、とても人間的な生活をしている。
 栄養面はさておき、コンビニのおにぎりはおいしいなと思いながら頬張っていると、待ち合わせの駅に轟が現れた。紅白頭だからすぐにわかる。「んー」口をもごもごさせながら手を振ると、気付いた相手がこっちに歩いてくる。春休みだからさすがに制服じゃない。真っ黒い姿ばかり見てたけど、普通の格好もするんだなぁ。
 おにぎりを平らげてペットボトルのお茶を呷り、待合室の椅子から腰を浮かせて立ち上がる。
 今日は一時間に一本しか電車がない田舎の駅に来るため、いつもの駅で路線と電車の時間を確認し現地集合した。
 なんで一緒に行かないかって、轟が別行動の方がいいって言ったから。
 俺は見られても困らないけど、轟はそうはいかない事情があるんだろう。それでも俺に付き合ってくれているわけだから、轟も物好きだ。

「ソレ、痛くない?」

 新しく頬と、Tシャツの間から覗く肩にも湿布を貼ってることをソレで示すと、轟はいつものスンとした無表情で「別に慣れてる」とか言う。
 俺としましては、思春期の大事な時期に家庭内暴力とか、そういうことは多少心配なんだけど。今までそれとなく指摘して促してみても頑なに話そうとしないんだから、触れない方がいいこと。なんだろう。
 話を戻そう。
 で、なんで今日こんな田舎の駅に集合したかというとだ。
 轟曰く、夢でこの田舎の駅の海辺に扉があるのを見たらしい。
 彼女は俺のことを連れて行きたがっているから、俺にはヒントを何もくれないけど。今までも轟の、予知夢? というか、そういう感じる力を辿って扉を見つけたりしている。この海辺に轟が何か感じるところがあるっていうなら足を運ぶだけだ。
 背が伸びたな、と思う紅白頭と並んで、海へと向かう坂道をゆっくりと下っていく。

「なぁ」
「ん?」
「人間に戻ったら、どうするんだ」
「どう……。うーん。とりあえず、就職活動かな…」
「真面目か」
「いやいや、世の中お金がないと生きていけないじゃん。今は轟に恵んでもらってる身だから偉そうなこと言えないけど、働いたら今までのお金はちゃんと返すよ」
「…………」

 あれ。真っ当なことを言ったつもりだけど、今にも舌打ちしそうな不機嫌な顔をされてしまった。なぜだろう。
 機嫌治るかな、と思ってコンビニで買った菓子パンをあげてみると、無言でひったくられた。機嫌は治らなかったけど食べはするらしい。
 海から吹いてくる風はまだ冷たくて、少し磯の香りがする。
 そうやって温度やにおいを感じることに最初は違和感があったけど、今はだいぶ慣れたつもりでいる。
 首からさげている鍵を目の前に持ってくれば、はめ込まれている水晶の中身はだいぶ満ちていた。
 あと取り戻していない人間らしさといえば、眠ることと、自分の名前と。大事なのはそんなところかな。

(轟とは、色んな場所へ行ったな)

 電車一本ですむ住宅街のこともあれば、乗り継いで一日かけて行かなきゃいけない廃墟だったり、そもそもものすごく遠い場所で、お金だけもらって俺が行ってきたり。
 長いこと轟を付き合わせてきたけど、それもそろそろおしまいだ。
 俺が人間に戻ることでこの旅は終わる。

(そうしたら。轟とは)

 そんなことを思いながら歩いていると、目の前がふっと暗くなった。「、」反射で轟の手を掴む。
 俺が取り戻していないモノが少なくなってきたからか、最近の彼女は実力行使に出ることがある。つまり、自分から俺たちを襲いに来る。
 真っ暗闇の中に取り込まれて、今日は黒い海の中から無数の彼女が這いずりながら出てくるという、わりとホラーな展開に唇が引きつる。腐ったような甘い匂いが濃く満ちていて、色々、酷い。吐き気がする。『イ、しょ、に』『ぃコぅ』『いコう』『イこゥ』『い』『シょ』『に』あっちこっちから聞こえる彼女だったものの声に耳を塞ぎたくなる。
 その、彼女だったものを。黒い海を。轟は容赦なく氷漬けにした。「はは…」俺は自分に個性があったのかすら憶えてないけど、轟の個性は強力だ。あるいは、彼女よりも。
 無言で彼女を片付ける轟も轟なら、暗闇から諦め悪くずるぅと這い出して来る彼女も彼女だ。『い、っしょ、にィ』「しつけぇ。うぜぇ」轟の右足の一踏みで彼女は氷漬けにされ、パキパキと崩れていく。

『アイ、して、あげられる、のは、ワタシ、だけ』

 頭上の闇から逆さで出てきた彼女の青白い顔が目前で、思わず後退った。
 もう死人の顔にしか見えなかった。好きだった娘の顔には見えなかった。そもそも、どんなふうに笑う娘だったのかも、もう思い出せない。
 俺を抱き締めようと伸ばされる手を轟の氷が叩き落とし、その顔面に容赦なく氷が突き立つ。

「俺が愛するからお前は消えろ」

 嘘か、ホントか。轟がそう言い放ったことで亡者の彼女は悲しそうにしながら崩れていった。
 瞬きすれば海へと続く坂道があるだけ。陽射しで海面がキラキラと視界に眩しい。「……えっと、行こうか」「ん」暗闇ではぐれないようにと握っていた手をぱっと離すと、なんとなく熱い。左側だったからかな。
 お互いとくに言葉もないまま、目的の海まで到着。肌に冷たい風を浴びながら少し砂浜沿いを歩いてみると、波打ち際に扉を発見した。うわぁハート型だぁ。「これは……」色んな意味で嫌な予感がする俺に構わず、轟はいつもの涼しい顔で「早く開けろよ」なんて言う。
 当たりの扉なんだろうけど。一体何が入ってるんだ。ハート型って。
 やっぱりあれかな。愛、とか。
 ごくり、と唾を飲み込んでから首からさげている鍵を差し出し、解錠する。
 波に靴を濡らしながら恐る恐る入ってみた扉の先は、ベッドルームだった。いわゆるラブホだ。女の子が好きそうなバニラ系の甘い香りのする部屋。「ええ……」こんなところ利用したかな。憶えてないな。
 とりあえず手分けして部屋を探索してみたけど、俺の手元に帰ってくるようなものが置いてあるわけじゃなし。わかりやすいモノがあるわけでもない。「ええ…?」これには俺も困惑してしまった。こんなパターンは初めてだ。
 休憩、と広いベッドに寝っ転がって、そこで初めて天井が目に入った。「なんか貼ってある」目を凝らす俺に、隣に転がった轟が同じように目を凝らす。

「わたし いがい を あいして みせ て ………」

 これは。間違いなく彼女だ。どうしても残ってる俺の人間らしさを返したくないらしく、困った条件を突き付けてきた。
 愛してみせて、って。
 場所が場所だけに、ここに連れ込めるのは轟くらいだし、その轟はこの春で中学二年になろうという男子だ。なんかさっき俺が愛するからお前は消えろとかそんなことを言ってた気もするけど、あれはほら、言葉の綾的なものであると思うし。となると、俺は何をどうすればいいのか……。
 考え込んでいると、隣で起き上がった轟が黙って服を脱ぎ始めた。ばさ、と無造作にカーディガンを落とす。「轟? 何してんの」ぽい、と上のTシャツを放りながら「何って、愛するんだろ」「え。いや。ちょっと、落ち着いてほしいな?」「俺は落ち着いてる」落ち着いててその行動に出てるならそれはそれで困る。
 基本は無表情、あまり感情を見せることもない、そう思ってた轟がラブホの再現らしく備え付けられているゴムとローション手にちらりとこっちを窺ってくる。
 中学二年生とはいえ腹筋が割れてて、鍛えてるんだな、ということがわかる体がほんのりとしたピンクのライトに照らされている。

(いや、そりゃあ、もう女の子はこりごりだなとか思ってたけど。だからって男にしようって思ったわけではなく)

 行動に躊躇いがない轟が俺の上に跨ってくる。けっこー重い。「こら、こらこら待って。ねぇ待って」ジーパンの上から股間を撫でてくる手にぞわっとする。嫌な意味じゃなくて、興奮するという意味で。
 轟は基本的には顔が整っていて、怪我なのか、左側半分くらいに何かの痕がある。
 それでもやっぱり基本的には顔が良い。眉間に皺を寄せて怖い顔をしていなければ将来的にイケメン間違いなし。そんな轟が湿布をべりっと剥がして放り、恥じらうように視線を伏せて俺の上に乗っかっているっていうのは、こう、くるものがある。

「お前を、人間に、戻すから。そうしたら。俺のことも救ってくれ」
「え?」
「俺も、助けられたい」

 これまで対価を求めてこなかった轟が、無表情が常だった轟が、今はぽろぽろと涙をこぼしていた。「俺も、救われたい。たすけてほしい」いつになくか細い声に胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
 轟はまだ中学生だ。俺の前では家族や友達のことは話さない。個性は二つ持ちで強力だけど、よく傷を作ってくる。今日もそうだったけど、理由は一度も教えてもらったことがない。
 一人で色んなものを抱え込んでる轟が、赤の他人だった俺との旅に居場所を見つけるくらいには、今の環境に不満や不安があるんだと思う。
 ………俺も、人間もどきみたいな生き物に成り下がって、不安だったし、怖くもあった。
 俺と轟の違いは、俺が大人で、轟はまだ子供だってこと。
 俺のように経験則から感情をコントロールするには轟はまだ幼い。一人で無理して立ち上がってまた転んでしまうより、体重を預けられる、よりかかるものが必要だ。
 感情が溢れてこぼれた轟をそっと抱き寄せる。右が冷たくて左が熱い。

「助けるって、どうやって」
「愛してくれ」
「え」
「愛して。俺だけだって。俺のこと、肯定して。ほしい」

 紅白の髪がさらりと揺れて、顔を寄せてキスされた。「あいして」ぬるい温度の舌が唇を食む感触に数舜だけ迷って、結局口を開け、轟のことを受け入れる。
 愛があるからこそ呪われた。そのことを思うと、愛することは、俺にとってまだ怖いこととも言えるけど。

(轟のことなら、愛せる気がする)

 棘々しいくせになんだかんだと俺の世話を焼いた優しさとか。基本不機嫌か無表情だけど、ほんの少し唇の端を緩める笑い方とか。今感情を溢れさせて子供らしく泣いている顔とか。好きか嫌いかで言われれば好きだ。笑ってほしいと願うくらいには。
 不器用な手を握って轟のことをベッドに押しつけ、ピンク色の乳首を舐める。「ん、」漏れた声は、嫌いじゃない。
 いつもより大きく潤んでいるように見える色の違う両目と見つめ合って、口をくっつけるキスをする。
 愛し合えるかはわからないけど。轟のためにも、俺のためにも、できるところまでやってみよう。
 大丈夫。俺は大人だから、抱く責任はちゃんと取るよ。