焦凍を取り上げられてから丸一日が経過した。
 最初にここに来たときに通された、だだっ広い部屋。そこでただ正座して時間を無為に過ごすという反省をさせられていたところ、とた、と足音がした。こちらに歩いてくる。「焦凍くん、大丈夫?」「大丈夫だ」ぴく、と耳が反応したが、正座のままでいる。反省、反省だ。
 カラリ、と障子戸の開く音と「」と呼ぶ声に、そろりと顔を向ければ、寝間着の着物を着た焦凍がお腹を押さえ、出久に支えられながらなんとか立っている。
 顔が見られてほっとしたのは事実だったが、それはそれとして、一番に言わなければならないことがある。

「すまない、焦凍。私が悪かった」
「…ん」

 ふらつきながら座り込んだ焦凍に、空気を読んだのだろう、出久が「じゃあ、僕はこれで」とこの場を去っていく。
 焦凍はまだあまり動けないようだったから、私が膝で歩いて寄っていくと、若干構えられた。「……すまない」頭の中は術で、体の中も文字通りぐちゃぐちゃにしてしまった。避けられても仕方がない。
 私が寄ることを諦めると、少しして焦凍の膝が姿勢を正すように動いた。「」「うん」「こっち、来てくれ。まだあんま動けねぇから」私がそうさせたのだという罪悪感で重くなる胸でそばに行くと、今度は逃げなかった焦凍がそろりとした手つきで私の手を掴んだ。それで私の手のひらを自分のお腹に当てる。
 あの晩、焦凍を膨れさせることになった私のものは出久がお風呂でかき出してくれたという話だったけど。まだお腹が大きい気がする。
 首を傾げた私に、左右で色の違う目を伏せた焦凍がぼそぼそとした声で「あのな」「うん」「孕んだ」「………?」さらに首を傾げた私を怨めしそうな目で睨み上げてくる。

「だから、孕んだ。お前のせいで」

 そんなわけがない。とは、言えない。
 何せ私は鬼で、焦凍も半分が鬼だ。鬼は基本的に力の奪い合いとなる『共食い』状態を避けるために鬼同士で子は作らない。その必要性もない生物だから、鬼の子供というのは聞いたことがない。
 けれど、だからって子供ができないということにはならない。作らないだけで、作れない、わけではないと思う。
 確かめるように何度もさすっていると、しつこいとばかりに手を離された。俯いた焦凍の髪の間から覗く肌に朱色がさしている。
 ついさっきまで焦凍の膨れた腹をさすっていた自分の手のひらを見つめる。

(孕ませた。私が?)

 あの晩の私は、焦凍に奪った力を返すために体液を注いでいるつもりだったのだけど。無意識に種付けをしていたと、そう言うのか。私が。鬼が。
 その必要性もない生物が、他者を孕ませたと、そう言うのか。焦凍の膨らんだ腹はその証だと?
 言葉の出てこない私と黙っている焦凍に苛立ったのか、どこかで様子見していたんだろう勝己がスパーンと障子戸を蹴り開けて「だああ鬱陶しい!」と叫ぶなりずかずかと無遠慮にやって来て私の着物の胸倉を掴み上げた。

「おい」
「はい」
「半分野郎はしばらく使えねェ。テメェ、代わりに働きアリ並みにこき使われる覚悟はあンだろな」
「…なんでもするよ。私でできることならば」

 この領域は七割ほどが勝己の力だ。
 彼がこの状態の焦凍でも置いてくれるというのなら、なんでもしよう。
 それで、最初に命じられたのは何かといえば、家畜の鶏を攫ってこいというものだった。なぜ。
 疑問を感じながらも数日かけて色々な町から鶏を四羽盗って返ると、出久が喜んだ。「これで卵が取れます」「卵」「はい。栄養ありますから、焦凍くんの体にも良いと思います」ああ、なるほど。卵。まったく考えが及ばなかった。
 私などよりよほど人体について知っているらしい勝己は、最近思案顔で人の文字の書物を読みふけっているが、それも焦凍のことに関係があるのかもしれない。こう言うと怒られるだろうが、奴は意外となんでもできるのだ。
 それにしても、数日出っぱなしで、水しか口にしていない。さすがにお腹が空いたな…。
 ぐう、と鳴ったお腹を押さえたところで、私が外に出ている間に動けるようになったらしい焦凍がやって来た。普通に歩いているように見える。よかった。「出久、飯できた」「ありがとう! お茶の用意しておくね」ここでも空気が読める出久は、私と焦凍を残して囲炉裏のある部屋に駆けて行く。
 なんともいえない空気が流れる私たちの間をだみ声で鳴いた俊典がとたとたと通り過ぎて行く。

「ただいま」
「おかえり」
「焦凍。お腹が、空いた」
「ん」

 あたたかくしておけとうるさい勝己に巻かれたんだろう、首を覆っていた布を取り払った焦凍にごくりと喉を鳴らす。「唾液じゃ足らないだろ」髪をかき上げて現れた白い首筋に吸い寄せられるように寄って行って、そっと牙を立てる。
 飲み過ぎてはいけない。足りないくらいでやめなくては。今の焦凍は身重なのだから。
 甘くておいしい血をすすりながら焦凍の腹を手のひらでさする。「ん、」僅かに身動ぎした焦凍からこぼれた声すら甘いと思う。
 物足りないな、と思うくらいで白い首から顔を離す。今日もおいしかった。「もういいのか」「うん」お腹を撫でる私にほんのり顔を赤くしている焦凍が微妙に身を引く。「別に、そんなに気にしないでいい」「そういうわけにはいかない」ただでさえお前に負担をかけている。これ以上お前に辛い思いをさせたくない。

「ご飯、食べておいで」
「ん」

 首に布を巻き直して立ち上がった焦凍にと呼ばれて見上げると「このあと、来てくれ」と庭にある小屋の方を指された。焦凍の寝所となっている場所だ。
 私はあの日以降立ち入りを制限されていて、焦凍の許可がなければ中には入れない。そういう術式を刻まれて、私も了承している。
 あの小屋は勝己がきれいにした。小汚いものがあるのは気に入らないと言って。
 もうあの日とは小屋の外見からして違うわけだから、同じことは繰り返さない。はずだけれど。自信がないなと思うのだから、私もたいがい、鬼らしくない。

「でも」
「ココが寂しい。満たしてくれるだろ」

 腿から腰にかけてをなぞった手つきに熱が。集まってくる。それを拡散させるのに苦労する。「わか。った」なんとか言葉を絞り出した私に満足したのか、焦凍はご飯を食べに行った。
 はぁ、と吐息して脱力した私のそばに俊典がやってきてにあんと鳴く。

「……愛、とは」

 しゃがみ込んで痩せた背中を撫でてやりながら、一人ぼやく。
 愛とは、なんてままならないものなんだろう。自分一人でも持て余し、相手を前にしたら余計に手綱を握れなくなるとは。
 それじゃあ思考から相手を、焦凍を消せばいいと思っても、物理的に離れている間も彼は私の思考の真ん中にあり続けた。大きくなったお腹を抱えてどことなく辛そうな彼が、顔を上げ、、と私を呼ぶときは笑っている………。
 こんなもの、私は知らない。知らなかった。
 長く生きてきたけど、本当に、知らなかったんだよ。

(お前だけが私をこうさせる。お前だけが)