ウチの庭にある木から、ミー、と叫ぶ蝉の声がしている。
 陽は沈んだっていうのに、まるでサウナにでも入っているみたいに空気から暑さが抜けない。そんな蒸し暑い夏の一日が今日も終わろうとしている。
 いつまでたっても暑いせいか、夜になるっていうのに蝉の甲高く鳴き叫ぶ声も止みやしない。
 そんな夕方はいくら個性で体温を下げようが気怠く、俺は自室の畳に転がって無為に時間を過ごしていた。
 暑い。自主練しようにもこの暑さは気が散ってしょうがねぇ。
 だから、兄と姉がチラシを持ち出してきて「祭りに行こうぜ焦凍」「そこでご飯食べよ」と部屋に押し掛けてきたときも、正直面倒くさいとしか感じなかった。「せっかくの夏休みだろ」「ちょっとは遊ぼう? ね?」たぶん俺を気遣っているんだろう兄と姉の声に、はぁ、と息を吐き出す。
 そんなわけで、急遽夏祭りに行くことになった。

「めんどくせ…」

 ぼやいて、姉が用意した甚平をつまみ、仕方なく着替える。
 これで断ったら夕飯が微妙な空気になるし、二人が祭りに行ってくれたとして、そうなると俺の夕飯はカップ麺かその辺りになる。それはごめんだ。
 うだるような暑さの中、先を行く二人についていく形で仕方なく行った夏祭りの会場は、提灯と人で屋台で賑わう、俺としては遠慮したい空間だった。

「すっごい人! 焦凍、夏と色々買ってくるから、そこのベンチ取っておいて!」
「ん」

 姉に言われるまま仕方なくベンチに腰掛けて場所取りをする。あの人混みの中に入っていくよりは気が楽だ。
 ………それにしたって暑い。個性で体温を多少コントロールできる俺でさえ汗ばむような気温だ。もう夜なのに。
 こんなに暑いのに、わざわざ人という熱気が集まるところに来る。祭りに来る連中はみんな物好きだ。
 チカチカと目にうるさい屋台の光に、この暑いのにわいわいがやがやとうるさい雑踏の音。耳に響く屋台からの呼び声。
 俺には全部、ガラス一枚隔てた向こうの遠い世界みたいに他人事だ。
 暑さだけは直接的に感覚に訴えてくるけど、それだって本気で右で冷やせば俺には関係のないことになる。
 眇めた目で夏祭りというものを見ていると、カラコロと下駄を慣らして母親と娘と思しき人間が歩いて来た。俺が断る間もなく隣に腰を下ろす。
 鞄も何も持ってないから、俺だけここに座ってるように見えたんだろう。…場所取りなら、姉さんにハンカチでも借りるべきだったな。
 場所探し直すか、と立ち上がろうとして、「ちょっとお母さん、やめてよ」その声に視線を母子に戻すと、娘の方の顔に見覚えがあった。母親が「いいじゃない、ほらあーんして」とすくったかき氷を差し出している。それを仕方なさそうに口を開けて食べている、横顔に。憶えが。
 そんなに長いこと見てたつもりはなかったが、ぱち、と相手と目が合った。
 その瞳が今まさに夜が明ける、そんな空の色のように鮮やかで、ああ、やっぱりだ、と思う。
 その色の目をした人間を俺は一人しか知らない。

「「あ」」

 それで、二人してそんな声が重なった。
 俺はたぶん、間の抜けた顔をしていて。相手はといえば、気まずそうに視線を逸らして母親からかき氷を奪うと、「ごめんお母さん、ちょっと彼と食べてくる」にっこり、女子が浮かべそうな笑顔で母親の頬にキスすると、問答無用で俺の手を掴んでカラコロ下駄を鳴らして歩き出す。
 何を勘違いしたのか、「頑張って〜美咲!」なんて声が聞こえてきて、俺はオウム返しに「ミサキ」と母親が呼んだ名前を口にした。お前、そんな名前じゃないだろ。

「姫」
「マジやめて。ほんとやめて」
「って、学校で呼ばれてなかったか」
「あだ名ね。それも不本意な」

 個性なのか、キラキラしてる瞳と、男なのに中性的な容姿と声をしてるから『姫』……そう呼ばれてる相手はどんどん祭りの会場から離れ、人気のない神社の階段までやってきて、ようやく立ち止まった。
 かき氷手にこっちを振り返るその顔は薄く化粧をしていて、髪も長くて、浴衣も女子が着てるようなかわいいやつだ。
 押しつけられたかき氷はもう溶け始めていたから、仕方なく右手で冷やす。そんな俺の前で相手が自分の長い髪を掴んで引っぱれば、ウィッグってやつなんだろう、髪は簡単に外れた。
 それをぐしゃぐしゃ丸めて浴衣の袖の中に無理矢理突っ込み、はぁー、と長い息を吐いた相手が階段に座り込む。「最悪だ……だから嫌だったんだ、祭りなんて………」抱えた膝に顔を埋めている、その隣になんとなく腰かけて、冷やして固まったかき氷を眺める。
 人の声が遠い。祭りの音も。
 ここには俺とこいつの二人だけだ。

「俺の記憶が間違ってないなら、お前は同じクラスの。だろ」
「………合ってるよ。轟焦凍」

 ぼやいた声は弱い。ようやく上げた顔も、参ったな、って感じで弱い。「食べていいよ。溶ける」指されたかき氷に特別惹かれはしなかったが、手持ち無沙汰だったから、食べることにした。
 程よく凍らせた氷菓子にスプーンを入れればシャクッと耳に心地いい音がする。
 は溜息のような息を吐くと「言い訳するけど、僕の趣味じゃない。母親に付き合ってただけなんだ」「へぇ」「女の子が欲しかったとかでさ。もう十二になるのに今日はこんな格好までさせられて、祭りに付き合わされた。最悪。それでクラスメイトに見つかっちゃうし」はぁ、と湿っぽい息を吐いて俯くは本当に憂鬱そうだ。
 シャク、と氷にスプーンを入れて口に運ぶ。
 家ではわざわざ作らないし、外でもわざわざ食べないが。うだるような暑さの中で甘い氷菓子を味わうってのは結構好きかもしれない。

「言いふらす趣味はねぇぞ」
「……ほんと?」

 縋るようにこっちを見てくるに顎を引いて頷く。
 は姫ってあだ名がついてクラス委員長としてもてはやされるくらいには人気者だ。
 今日のことはそんなの弱みになるんだろうが、俺はそういったことには興味がない。
 じっと俺の表情を観察していた夜明け前の瞳がほっと安堵したように緩くなる。「ありがと、轟」その向こうで、花火が咲いた。遅れてドーンという火の花が咲く音がして、がそっちを振り返る。「ああ、花火。もうそんな時間か」ぼやいたが慣れた手つきでウィッグをつけ直し、浴衣を払って立ち上がる。その横顔をさっきと違う色の花火が照らす。

「戻るよ。あんまり遅いとうるさいから」

 じゃあね、轟。バイバイ、と手を振って、はカラコロ下駄を鳴らして行ってしまった。
 残された俺はドーンという花火の音を聞きながら、手元に残ったかき氷を見つめた。「……、」シャク、と氷にスプーンを入れて口に運ぶ。シロップの甘い味に、氷の冷たさが頭に沁みる。
 そこにどうしてか花火に照らされたの顔とあの瞳が浮かんで、緩く頭を振る。
 男なのに中性的な顔をしてるから『姫』って呼ばれてて、本人は笑って流してるけど、本当は嫌がってる。
 クラスメイトで、委員長として黒板の前に立つことも多い相手だ。特別興味があったわけじゃないが、何度となく見ていたから顔と声を憶えてた。それだけの相手。

「つめて」

 キーン、と頭に響く冷たさのせいか。に会う前までは無味乾燥としていた暑いだけの夏の夜が少しだけ自分のものとして実感できて、かき氷を食いながら、夜の空に咲き続ける夏の華を眺めた。

(あいつもどっかでこれを見てるんだろうな)

 どうせ同じものを見るなら。あのきれいな横顔を彩る華がよかったな。そんなことを考えた自分にシャクッと氷にスプーンを入れる手が止まった。
 ドーン、と空に華が咲く音がする。
 花火の光がじっと見下ろしているかき氷を照らす。赤。黄。青。元の色を忘れるくらいに色んな色にする。

(どういう、意味だ)

 自問しても答えのようなものは出なかった。
 手元にはあいつにもらったかき氷が、花火に彩られて、その存在を主張し続けている。