暗記するまで読み込んだ台本片手に隣に視線を投げると、が鬱陶しそうに少し伸びた黒髪を払ったところだった。 首筋に汗の玉が浮いてる。舐めたい。 「あづい」 「切ればいいじゃねぇか」 「……駄目だって言われてる」 誰に、という部分は聞かなくてもわかる。 そうか、とぼやいて冷やした右手を首筋に当てれば、びくっと驚いたあとに「うわー冷たい、きもちいー」クラスに見せる姫としての顔じゃなく、俺にだけ見せる素の顔で笑うから、冷やしてんのに、なんか俺の方が熱くなってきた。 そこへ姉さんが麦茶と和菓子を持ってやってきたから、ぱっと手を離す。「今日も頑張ってるね、二人とも」簡単な茶菓子だがが畏まって「ありがとうございます」と頭を下げている。「すみませんいつも…」「いいのいいの! 劇の練習は順調?」「はい。とど…焦凍くんは呑み込みが早いので助かります。あとは」ぐい、と頬をつねられた。「もうちょっと表情豊かになってくれるといいんですけど」「………」くすくす笑う姉に、無言での手を掴んで離す。余計なお世話だ。 庭の方で鳴き叫ぶ蝉の声がまだ鬱陶しいと感じる九月。 美女と野獣は、俺と以外は端役と言ってもいい台詞と内容だ。俺ら二人が顔を突き合わせて台詞を読み合う時間は自然と増えた。 が、は自分ちでは絶対やりたくないと言う。 だからって学校では他の目があって気が散る。そうなると自然と練習場所はウチ、俺の部屋、というのが最近の放課後のスタイルだ。 姉さんが持ってきた麦茶をすすり、さっそく餅の菓子を食べているを眺める。 あの祭りの日とは違う。浴衣は着てないし、ウィッグもないし、化粧だってしてない。 それでも俺にとってというのはきれいな人間なんだということを、最近ようやく認められた。 「練習」 「んー、まっへ」 麦茶をごくごく飲み干したが台本を手にする。「まだやってないとこどこだっけ」「最後の方」「あー」が避けがちな台本の終盤。野獣が死ぬ間際に愛を告白してキスをするシーン。それで呪いが解けて、二人は結ばれ、ハッピーエンド。 台本に視線を落としてるフリをしながら、の表情を観察する。伏せられた鮮やかな瞳の色を眺める。それが好きだってことに最近気が付いた。 「『死ぬ前に、君もう一度会えてよかった』」 「『そんなこと言わないで。きっと助かるわ』」 「……『まだ君に伝えてなかったことがある。最後に、ベル。愛してるよ』」 ちら、と視線を上げたと目が合う。あの鮮やかな朝焼けの瞳が俺を見ている。「……。台詞」「あ。『私もよ』」キスはフリでいい。何度もそう言われてるけど、顔を寄せた俺に身を硬くしているにキスをする。唇に。これで野獣の呪いは解けた。 俺の心も、何度かのキスでとっくに解けた。 少しだけ顔を離すと、薄目を開けたが瞳を細くした。「しなくていいって、何度も言ってる……」吐息のかかる距離。さっきの餅菓子の小豆の甘いにおいがする。「したいから」これも何度も伝えてることを今日もぼやくが、相手は俺の肩を押して体を離しただけ。 嫌だ、とも、いい、とも言われてない。 これで五回目。それでもは『劇として』キスが必要ではないことを説くが、それだけだ。 俯けた顔と伸びた黒髪のせいで表情は窺えない。照れてるのか、怒ってるのか、わからない。 ミーン、と庭の方で鳴き叫ぶ蝉の声が俺たちの沈黙を壊していく。 (俺は、たぶん、のことが、好きなんだと思う) まだ自信のない気持ちを口にするのは憚られて。このまま、曖昧なままでも別に困らないと、俺は今日も言葉を呑み込み、麦茶を飲み下して、小さな餅菓子を口に放り込んだ。 俺たちの曖昧な関係は文化祭まで続き、劇を無事成功させたあとは、との関係は途絶えた。 なぜかって、劇っていう表立って関わる理由がなくなってしまったからだ。 今の俺は、姫と呼ばれて愛想笑いしているあいつを目で追うことしかできない。 と関わり合う前の俺に戻ったのだと言われればそのとおりだ。こうやって孤独に一人学校生活を送っていた。それでいいと思っていた。お前に、関わるまでは。 (話がしたい。声を聞きたい。轟って、俺のこと呼んでほしい。俺のことを見てほしい) ある日、我慢ができなくなって、どうしても関係を途切れさせたくなくて、毎日教室に居残るあいつと関わるために、同じように教室に居残って、と二人になるのを待った。 あいつはなるべく家に帰りたくないとかで、最近は下校時刻を知らせるアナウンスが流れるまで教室にいることが多い。 人のこと言えるほど、俺んちの家庭環境だっていいわけじゃないが。最近のは瞳の色が陰っている気がして、その輝きが遠のいている気がして心配だった。 「」 「……轟。まだ帰んないの」 「お前と一緒に帰る」 俺なりに勇気を出して吐き出した言葉を、がどう受け取ったのかは知らない。「いーよ」と笑った顔が姫としての愛想笑いか自身のものかも見てない。言葉を吐き出すのに必死で、余裕がなくて、床を睨みつけてたから。 まだ陽射しが熱いと感じる十月。それでも夕方になればまだマシなぬるい風が吹いてきて髪をなぶっていく。 と並んで歩く登下校の道。いつも感慨なく歩くだけの場所。 お前がいるかいないか。それだけで俺の世界は違って見える。いつもの道が、少しだけ明るくて、賑やかで、色鮮やかな気がする。 ふとポケットから携帯を取り出したは、画面を見て、その携帯を地面に叩きつけた。「お…」あまりの唐突さに驚いている俺の前で肩で息をしながら携帯を踏みつけ、「くそ、もー、無理。もーむり」とぼやいてその場に蹲ってしまう。 部活帰りなんだろう、ちらちらこっちに寄せられる他の生徒の視線と交わされる密やかな声。 画面の割れた携帯を拾っての肩を抱き、とりあえず道端に移動させ、近くの自販機でジュースを何本か買って持って行く。 どれでも好きなものを飲めばいいと並べると、は迷わずコーラのボトルを掴んだ。開封して喉を鳴らして飲んでいく姿は男らしい。 ぷは、と息を吐いて壊した携帯を睨みつけるは男だった。そういう顔つきをしていた。 「もう無理だ。もともと姫なんてガラじゃないし、美咲なんて人間でもないんだ。『女の子になろう?』じゃないんだよ……もう無理だよ…」 どうしよう轟、とぼやいて俺の肩に頭をぶつけたに、ポカリのキャップを捻って開けた手が止まる。「なんか、言われたのか」「いっつも言われてる」「じゃあ。なんか。されたとか」ふ、と息をこぼしたはどんな顔をしてるのか。 そのまま、が座り込んだのに合わせたまま、道端で胡坐をかいて座り続けて……「俺んち、来るか」このまま道端に座り続けるよりはいいだろうと思って提案すると、は考えるような間のあとにこっくりと頷いた。 とぼとぼと歩くの手首を引っぱって家に連れて行き、部屋に上げて、冬姉には夕飯を一人分余分に作ってもらうよう頼む。 「ごめん」 畳に転がって疲れ切ったような顔で目を閉じているに「いや」とぼやいて返し、そばに行ってしゃがみ込んでキスをする。もう劇の練習でもなんでもない、ただのキスを。 は何も言わなかった。目も開けなかった。……きっとそれが正解なんだろうと思う。 俺たちの関係に名前をつけるべきじゃない。お互い困ることになるだけだから。 (それでも俺は、お前のことが好きだ) 特別な関係になれなくてもいい。たまにこうして、お前の拠り所になれるだけでもいい。 お前のきれいな瞳が曇らないためならなんでもする。 そう思ったときだった。がぱっと起き上がったのは。それで涙目で俺のことを睨みつけてくるから戸惑う。なんで泣きそうなんだ。 「僕の個性、言ってなかったけど。僕のことを強く想ってる人間の気持ちがわかるんだ」 「は?」 「わかるんだよ。轟。お前が僕のこときれいだって思ってて、好きだってのも、知ってる」 「……は、」 の瞳がまたキラキラして見える。 鮮やかな朝焼けの、夜明け前の空の色。俺がきれいだと思う瞳の色。 はくしゃっと表情を歪めて笑う。あるいは、嗤う。「だから、わかるんだ。母親が。本気で僕のこと女にしようとしてるのも」「……なんだそれ」意味がわからねぇ、と顔を顰めたとき、ピンポーン、と家のチャイムが鳴った。 なんとなく、嫌な予感がして、は部屋に残したまま、姉さんが出る前に俺が玄関先に飛び出すと、そこには一人、女が立っていた。手にはペンチのような器具。「美咲、いますよね?」それでにっこり笑んで家に上がろうとしてくる女の前に反射的に氷の壁を形成する。 美咲。のことをそう呼ぶのはあいつの母親だけだ。 俺が進路を塞いだとたん、女の表情が変わった。髪を振り乱し、氷に取り付いて爪で引っかきながら、ペンチみたいな器具を振り回す。 「美咲! いるんでしょう! GPSをつけてるからわかってるのよ!」 「おい、」 「あなたには不要なものを取り除くだけよ! 女の子になるの! 去勢するの! 大丈夫、お母さんが上手にやってあげるから!」 去勢、という言葉と、女の手にある器具を見て血の気が引いた。 女にしようとしてる。って。アレでちんこちょん切られるって意味か。 姉さんが青い顔で俺の後ろまでそろりと歩いてきて「え、どなた? どうしよう焦凍」「姉さん、警察。早く」「え」「警察呼んでくれ」「あ、うん、そう、だね」ペンチだと思ってたのは去勢に使う道具で、それを氷にガンガンぶつけながら「美咲を返して! 私の子よ!!」と叫ぶ女の形相は凄まじく、狂っている、と表現しても間違ってはいないと思った。 姉さんが警察に連絡し、やって来た警察が去勢器具を振り回す女を連行。 俺の部屋で小さく蹲っていたの手を取り、青い顔のを支えながら、警察に事情を説明した。 ………そのときに感じたのは、俺は無力だ、ということだった。 まだ中学一年、十三にもなってない子供は、同じ子供を助けてやれなかった。 母親は連行されと引き離されて生活することにはなったが、じゃあ誰が子供のの面倒をみるのかとなったとき、俺は何もできなかった。 今は他県にいるの父親が彼を引き取るから、引っ越さなくちゃならない。そういう話になったときも、俺は自分の無力を痛感するばかりで、笑って話をするを引き止めることも、慰めることも、何もできなかった。 だって子供だ。子供が言う「行かないでほしい」はただのわがままで、子供が伸ばした手で「きっと大丈夫」なんて言うのはただの無責任だ。そんなものは俺の自己満足にしかならない。のためにならない。 「……轟は、優しいね」 「、」 顔を上げた俺に、改札前で足を止めたが笑う。困ったように。その手には小ぶりなトランクが一つ、背中にはリュックが一つ。それがの荷物だった。たったそれだけを持ってこの街を去ろうとしている。俺を、置いて。 「大丈夫だよ。転校先でもうまくやるし、父親はあの人よりマシだから、うまくやる」 「……」 声を発したものの、続きの言葉が出てこない。 もうすぐ新幹線の時間だ。は行かなきゃならない。わかってる。これでお別れだ。わかってる。わかってるけど。 ああ、くそ。油断したら泣きそうだ。 初恋だったんだ。本当に好きだったんだ。 俺が口にするまでもなく、お前は俺の気持ちをわかってたけど。最後まで応えてはくれなかったな。 「迎えに行く。絶対」 「………ウソでいいよ、それ」 俺の心がわかったんだろう。鮮やかな朝焼けの、夜明け前の空の色。俺の好きな色を緩く細めて、最後に俺にキスを残して、走って改札を抜けて、は行ってしまった。 キスされた唇に拳を押し当て、顔を俯ける。 ぽた、と一滴、我慢できなかった雫が落ちた。 ………行ってしまった。俺の手の届かないところに。 だけど、絶対、諦めるものか、と思う。 (迎えに行く。大人になって、絶対に、迎えに行くから) そのときは。俺がお前を守るから。お前は、俺の好きなその瞳をキラキラさせて、隣で笑っててほしい。 贅沢は言わない。それだけでいい。 たったそれだけのことが、今は、叶わない。 俺はぎゅっと両の拳を握り締めて電光掲示板を睨みつけ……が乗った新幹線が行ってしまったのを確かめてから、無力感と、絶対の決意を胸に、駅を後にした。 |