部屋のエアコンが壊れるという悲劇に見舞われた、とある夏の夜。
 明日業者が来てくれるというから、冷房なしの扇風機のみで我慢して暑い部屋で寝転がっていたら、なんとか眠れたらしく、随分と昔の夢を見た。「……懐かしい」思わずこぼして長く伸ばした黒髪をかき上げて払う。
 中学一年の暑い季節。花火のように、咲いて散った、そんな思い出がある。
 轟焦凍という人間との数ヶ月ばかりの淡い思い出が、時折こうやって夢になってはあいつのことを思い出させる。
 今日は寝苦しい暑さのせいで、懐かしいあの頃を思い出したんだろう。轟と過ごした夏はとくに暑かった憶えがあるし。

『お前のことが好きだ』

 個性のせいでわかってしまった轟の心の内側。
 知ったときの衝撃といえば、もうかなりのもんだった。
 まさかあの轟が、顔も頭もいいし個性も強い轟が、俺のこと好きとか。思わないじゃん普通。
 寝汗でベタベタするシャツを脱ぎ捨てて新しいものに着替え、冷蔵庫からポカリを出してコップに注いで飲む。「いや、兆候はあったけど」一人ぼやきながらポカリを飲み干す。
 あのときは劇で美女と野獣をやって。最後のキスシーンはフリでいいって言ったのに練習でもキスしてきたし、何回だってしてきたし、本番でもしやがった。あれはさすがに恥ずかしかったなぁ。
 まぁ、なんの因果か。今俺は人前で演技をする俳優として食っていってるから、あのときの経験も無駄ではなかったと思えてるんだけど。
 時計を確認すれば、まだ午前四時を過ぎたところだ。もう一眠りできる。
 寝苦しい部屋に戻って布団を蹴落とし、なんとなく買った轟焦凍…ヒーローショートが表紙をやってる雑誌が飾ってあるラックをぼんやり眺めてから目を閉じる。

『初恋だったんだ。本当に好きだったんだ』

 最後。駅の改札前で泣きそうだった轟のことを思い出すと、今もまだ胸がぎゅってなるときがある。
 経済力のない子供。自立する術をもたない子供。だから俺たちはあのとき別れるしかなかった。
 どうしようもなかった。どうすることもできなかった。
 あのときの俺と轟はまだ子供だった。
 思い出すあの日にはいつまでも悲しみと正しさが染みついていて、それを隠して笑った俺と、泣きそうだった轟がいる。

(迎えに行く、なんて言ってたけど、轟、来ないな)

 …………子供の頃の話だ。
 俺も轟も大人になった。苦い思い出のことなんてもう忘れて、前を向いて生きていくべき。そういうことなんだろう。
 あいつはヒーローとして日夜忙しなく働いてる。過去を、俺を振り返ってる暇なんてないさ。
 寝苦しい夏の夜に、懐かしい夢を見て感傷に耽る。それもまた大人って感じだ。
 だがしかし。翌日は寝苦しさで当然のように寝不足になったから、現場ではメイクさんがとても大変そうにバタバタしていた。「すみません…クマ作っちゃって……」「ダイジョーブです! なんとかします!!」ぐっと拳を握ってくれるメイクさんにすべて任せるしかないのが忍びない。
 今の俺、は、俳優として大河ドラマのそこそこな役をもらっている。今日はその撮影がある。そのために黒髪を伸ばして結ってもらっているのだ。
 他にドラマが二本。最近はテレビのバラエティとかからも声がかかるようになって、俳優として波に乗れてきてるかなと感じてる。
 その分悩みも増えたから、最近はもっといいセキュリティと施設のマンションに引っ越そうか検討中だ。

「あ、そういえば聞かれました? ボディガードの件」
「いえ、まだ」
「なんでも大物ヒーローが引き受けてくれたって話ですよ! よかったですね、これでストーカーもなんとかなるはず!」

 また握り拳を作って主張するメイクさんにへぇと返し、目を閉じる。
 数人からの度が過ぎたストーカー行為のせいでちょっと身の危険を感じてるから、ボディガードが欲しいとお願いしてたのだ。大物ヒーローが誰かはさておき、ヒーローが護衛してくれるなら少しは安心できそうだ。
 でも誰だろうな、大物のヒーローって。
 そんなことを考えながら今日の役をこなし、撮影を終えてメイクを落としてもらって時代劇な衣装から私服に着替える。
 メイクさんが引き上げ、衣装を回収したスタッフさんが引き上げ、束の間の一人の時間。別にしたいこともなくて今日のヒーローニュースをチェックしていると、コンコンと扉がノックされた。「はい」返事をしたらガチャッと開いたドアと『くんだぁ』という粘着質な声が頭に響いて、気分が悪くなる。
 俺の個性は、俺のことを強く想っていなければ発現しない。
 加えて、俺にはそれをコントロールする術がない。相手の気持ちの大きさで勝手に声が聞こえてくるわけだ。
 つまり今部屋に入ってきたこの小太りの男はそれだけ俺のことを想っている、ということになるわけだけど。『やっと刺せるなぁ』考えてることが平穏じゃない…。
 ガタ、と椅子を蹴倒して、どうやってかここまで侵入したらしいストーカーの一人と距離を取る。確かいたぞ、手紙とか寄越して『一緒に死んでほしい』とか言ってた奴が。お前だろ。

くぅん」

 ストーカーの手にはその声の粘質さからはかけ離れた鋭さのあるモノ、ナイフが握られていた。
 思い出すのは、轟の家に逃げた俺を追ってきた母親。あの喚いた声。その手にあったという去勢器具。
 母がストーカーに変わって手にしたモノがナイフになった。どっちもどっちで質が悪い。
 俺の個性は自分に対して抱かれた強い気持ちを汲むだけだ。ほかにこれといったことはできない。ナイフを手に突進されでもしたらおしまいだ。

(なんだよ。助けに来いよ。轟)

 あのときは俺のこと助けてくれたじゃないか。母親の前に氷の壁を作ってくれたじゃないか。
 そんなことを考えたのは夢のせいだろう。何年も会ってない人間のことを頼りにするなんてどうかしてる。
 自分でどうにかしなきゃ、と椅子に手をかけたとき、ひやりとした空気が流れ込んだあとにバキンと音を立てて床が凍った。「っ、」俺の足も、ストーカーの足も、靴ごと床と一緒に凍らされてる。
 氷。
 氷で思い出す人物なんて。たった一人だけ。

「悪ぃ。遅くなった」
「、」

 ぱっと顔を上げた先で、ストーカーの両腕を捻り上げて簡単にナイフを取り上げた相手は紅白色の髪をしていて、ヒーローショートの格好をしていた。
 色の違う両目とぱちっと目が合う。
 憶えている頃より、背が伸びて、イケメンには磨きがかかって。でもあの目は変わらない。最初に合ったときも、今も、なんにも変わらない。
 目は口ほどに物を言う轟から伝わってきたのはたくさんの想いだった。『やっと会えた』『きれいな目だな』『迎えに来たぞ』『待たせて悪かった』『手荒で悪い』『怪我してないか』『俺のこと憶えてるか』『』『たくさん話がしたい』『好きだ』『背が伸びたな』『髪伸ばしたんだな。そういうのも好きだ』『好き』『愛してる』………これでもかってくらい、俺の頭を占拠してくる。きれいな想いがたくさん。溢れてくる。止まらない。まるで空に咲き続ける花火みたいだ。
 そんな場合じゃないのに、轟の想いの強さに感極まった俺は、顔を俯けて泣いてしまった。
 テレビに出る職業だ。今までそれなりに色んな人間に会ってきたし、中には俺の個性が気持ちを拾い上げる相手もいた。
 けど。ここまで強いのは、お前だけだったよ。
 八年もあったのに。お前はこんなに俺のことばっかりだったんだな。知らなかった。お前の気持ちを侮ってた……。