人類に『個性』と呼ばれる超常現象が定着し、個人の力として発揮されるようになってしばらく。
 今やそうであることが当然のように、多くの人間が個性を持って生きている。
 炎が出せる、氷が出せる、水が出せる。
 そんなわかりやすく便利な個性もあれば、見た目からして人間からかけ離れてしまった、そんな異形の個性を持って絶望する人もいる。
 あるいは、自分の個性であるはずなのに、自分の力ではどうしようもない代物として持て余してしまう。そんなこともある。
 幼い自分の個性が発現したその日は、陽射しの強さを嫌悪するのも仕方のないくらいに暑い夏だった。
 田舎の町は緑に囲まれていて少し涼しいイメージがあるかもしれないが、なんてことはない。都会より少しマシってだけで、代わりに、虫の声がとてもうるさくて、公共交通機関やショップなどの施設がなくて不便だ。そのことの方が目に付くくらいには。

「今日も暑いわねぇ」

 母親のそんな言葉に視線を上げる。逆光でその表情は窺えない。ただ、繋いでいる手が汗ばんでいて、言葉の通りに暑がっている、と思った。
 暑いのは嫌いだ。動くのが億劫になるし、肌を汗が伝うのは不快だし。
 暑いのは嫌いだ。
 強くて痛い、無遠慮な陽射しも嫌いだ。
 夏は、嫌いだ。
 鳴く虫のうるささも。この田舎町の不便さも、全部嫌いだ。

(だから、なくなってしまえばいいのに)

 ぽつりと思ったのと、親にはない個性の発現は同時だった。
 なんだか急に涼しくなった気がして頭上の太陽を見上げると、空が鉛色に曇っていた。そして、白くてチラチラしたものが舞い始めていた。「雪…?」呆然とした母親の声と、震えている手は酷く凍えていた。
 もう嫌悪していた夏は消えていた。
 代わりに異常気象が、夏に降る雪が、田舎町を覆い始めていた。
 風が吹いて母が身を竦ませる。それでその風がとても冷たいのだと察する。自分にはただ肌をなぞるだけの風と雪も、夏の格好をしている母には毒だ。
 直感で、母親を置いて走った。「!?」驚き戸惑う声。それが最後に聞いた母の声。
 短い足で懸命に走ったけれど、あぜ道で振り返ったら、あの町は夏の吹雪に閉ざされ白く染まっていた。
 ひらりと視界を舞った白に視線を上げれば、分厚い鉛色の雲が頭上を覆っていて、夏の憎い太陽の姿はどこにもなかった。太陽が届けるはずの灼熱の熱さももうどこにもなく、辺りには雪が積もり、夏の鮮やかな色をすべて白へと塗り替えていく。
 そこからの記憶は、必死に逃げる、そんな自分の視界だけだ。
 自分でコントロールできない常時発動型の個性が発現してしまったが故に、どこへ行っても雪雲を連れて行ってしまう。人里には行けない。とにかく人のいない場所へ行くしかない。
 最初はそうやって山なんかで凌いでいたが、母もろとも吹雪の中に落とし込んだあの田舎町のことが知られたのだろう。自分という個性持ちはヒーローや警察に捜索され始めた。
 だから、必死に逃げた。
 やりたくてやったわけじゃない。だけどあのとき、『夏が憎い』と、『こんな季節なんてなくなればいい』と暗い心で願ったことは確かなのだ。
 もしそのせいでこの個性が発現したのだとしたら、言い逃れはできない。自分には罪がある。自分の個性にも、願いにも、罪がある。
 捕まったら終わりだ。タルタロス行き。誰にも会うことがない狭い白い部屋に閉じ込められる。一生。それは、嫌だ。
 だから逃げた。
 山を一つ二つ、三つ抜け、雪の道を作ってしまっているから追ってくるのは簡単だろう自分の軌跡を振り返る。
 青いつなぎみたいなのを着た紅白頭のヒーローがこちらに迫っている。左半身をぎこちなく動かしながら、右側に霜をこびりつかせて、それでもこっちに来ようとしている。

「待つんだ。その先は、」

 知ってる。崖だ。そして海がある。
 パキ、と足元の凍った草を踏み締め、崖に立つ。眼下ではドオンとすごい音を立てて白波が岸壁を叩きつけていたけど、冷気が届いたんだろう、徐々に凍り始め、寄せては返す波は大人しくなり………そして、動かなくなった。
 なんだ、すごいな。海を凍らせることができるのか。誰にも喜ばれないけど、すごい個性を持っちゃったなぁ。

「待ってくれ。
「……、」

 くるり、と振り返る。右半身を引きずるようにしながらそれでもここまでやってこようとするヒーロー。きっとこの人は氷に耐性があるんだろう。だから氷点下より寒いこの温度の中でも動ける。
 なら、この人になら。頼めるかもしれない。自分でやるのは、やっぱり少し、怖いから。

「お母さん、生きてますか」
「……いや。あの町の人は、発見が遅くて、手遅れだった」

 その言葉に、口の端が引きつる。
 逃げ回る最中ずっと考えていた。覚悟していた。わかっていたことだった。
 そして、その言葉で確信した。
 この個性の強さが『夏を嫌悪した』自分に贈られた神様からの祝福だとして。子供の自分には、過ぎた力だ。
 短い両腕を広げる。「ころしてください、ヒーロー」それしかこの寒さを止める術がないというのなら。自分が生きていることが、誰かにとっての脅威にしかならないのなら。
 笑った俺に、相手は顔を歪めた。「その必要は、ない。しばらくはタルタロスで個性を封じられる、かもしれないが。普通に生きられる日はくる。だってお前は、」何も悪くないだろう、とこぼすヒーローが膝から崩れ落ちた。寒いのか震えている。
 そんなになってるのに、お前は悪くないなんて、よく言える。
 この人は、大勢のために子供を殺すという道は選べない人のようだった。
 なら仕方ない。仕方がないから、自分で、飛ぼうか。
 見渡す限り凍り付いてしまった海へと振り返り、凍っている地面を踏み締める。
 少し前へと倒れれば、この体は氷の上に叩きつけられて、終わるだろう。

(なんて偉いんだろう。自分勝手に生きてもいいのに、『みんな』のためを思って、死ぬんだ。世界のために、社会のために、人のために、死ぬんだ。良かったねお母さん。あなたの教育は無駄じゃなかった)

 嘘が下手で損な役割をしてばかりの母親のことが好きではなかった。どうしてもっと上手に生きられないんだろうと子供心ながらに軽蔑していた。そのせいで都会から田舎暮らしをするしかなくなったし、それでも前向きな母親のことを馬鹿な人だと思っていた。
 人には優しくとか。嘘はよくないとか。イマドキ子供でも、そうやって生きていくのは無理だ、ってわかることを訥々と語って。
 人に優しくして何になるんだ。タダ働きか。何も返ってこないのに。
 嘘はよくないって、なんでだよ。嘘は方便って言葉も知らないのか。優しい嘘が人のためになることだってあるんだよ。
 たとえば、お父さんとの離婚のこと。誤魔化して、喧嘩しただけよ、しばらくしたらあの家に戻るからって、そうやって優しい嘘と笑顔で誤魔化してくれてたら。田舎町で暮らすのは少しの間だけよ、って誤魔化してくれたら。憎むことだってなかったかもしれないのに。

(でも、殺した。殺してしまった。殺される必要は、なかった。人殺しはよくないこと。そんな人殺しを殺すのは。善い、こと)

 待っているのは硬い氷の地面。吹き付けてくる風は強く、高さがある。
 少しだけ足が震えたけど、一度痛みに耐えればいいだけだと思えば、もう山を逃げ回ったりしなくていいんだと思えば、気持ちはスッと楽になった。
 これで最期だ。そう思ったら楽になった。
 とん、と軽く地面を蹴って、がくん、と眼下へと視線が落ちて……止まった。「、」見上げれば、腕を掴まれていた。あのヒーローに。
 寒さで体を凍らせながら、自分だってマズい状況だって理解していながら、飛び下りを阻止したのだ。「はや、まる、な。だいじょうぶだ。おれが、かならず、たすけるから」「………」とても仕事に一生懸命な人だ。子供を見殺しにすることを良しとしない良い人だ。
 そういう人にトラウマを植え付けるのは、不本意だけど。これがみんなのためだから。
 にこ、と笑んで、震えている手をもう片手でパンと払った。子供の力でも簡単に払えるくらい、その手には力が入っていなかった。
 これでおしまいだ、と思った。
 けど、そのヒーローはしつこかった。氷に耐性があるんだろうとは思ってたけど、氷で道を作りながらこちらの落下に追いついて来たのだ。そうして落下する子供を抱きかかえて氷の滑り台を形成、そこを滑り落ちて転がる形で、助かって。しまった。

「……なんで」

 右と左で個性が違うらしい相手は、左側から炎を出しながら自分の体温を上げているようだった。「たすける。だいじょうぶだ」半ば自分に言い聞かせるみたいにぼやいているその目は虚ろだ。
 それでもなんとか笑おうとしている。紫色の唇を震わせて、笑って、大丈夫だと、言おうとしている。
 のそっと起き上がって、力のない腕から抜け出して少し考えた。考えて………海を走って、逃げることにした。
 もうヒーローには動く気力は残ってない。でも、ここから離れれば、この人なら死なずにすむかもしれない。

「さようなら、優しいヒーロー。あなたはどうか、生きてください」

 ぺこ、と頭を下げてから、鉛色の雲が広がり雪が吹雪く、果てしない水平線に向けて、凍った海の上を走り出す。
 もう何日も食べてない。お腹がぺこぺこだ。
 山に入ったり走ったり転んだりして、足だって棒きれみたいに頼りない。
 ………餓死は苦しいって聞くけど、人殺しにはふさわしい最期かもしれない。
 誰もいない場所で空腹の腹を抱えて、ひっそりと死ぬ。ああ、自分にはきっとそれがお似合いなんだ。

「ははっ」

 どんどんと凍っていく海がおかしくて笑ってしまう。
 凍っている海と吹雪の中へと消える一人の子供。
 ああ、お似合いだ。人殺しにはお似合いの末路だ。
 たった一瞬、ひと夏とはいえ、憎い季節を殺せた。ただそれだけが自分が生きた軌跡なのだと、乾いた喉に両手をやって一掴みし、叫ぼうとする声を押し戻す。
 …………なんて無意味な人生なのか。
 そんな無意味さを。かわいそうな子供を。あのヒーローなら、少しは想ってくれるのだろうか。
 振り返ってみても、吹雪に閉ざされた視界には白い雪と鉛の雲と凍った海以外に映るものはなかった。
 それが、すべてだった。