小雨とも言えない霧のような雨模様のその日、なんとなく、歩いて帰ろうと思った。
 いつもなら電車を使う道のりを、制服のポケットに手を突っ込んで一歩目を踏み出す。
 いつも乗って帰る電車が徒歩の俺を追い越していく線路を横目に、ただ足を動かして歩く。
 そんな無意味なことをしようとなぜ思ったのか。考えてみたが、理由はとくにない。そんな日だって俺にもあるんだろう。そんなふうに思っておく。
 曇天。今にも泣き出しそうにぐずいているくせに泣くのを耐えている、そんな空模様を見上げながらただ歩く。
 ところどころ塗装の剥げたアスファルト。昔からやってますって古い看板を引っ提げてる八百屋。喫茶店。随分昔に潰れてそのままの、何かの店だった場所。
 駅や街の中心部、人のいる場所から離れれば、どこもこんなものだ。
 どうってことはない景色を無感動に眺めながら歩いていると、バス停の標識の下に傘が咲いていた。「……?」首を捻ってそばで立ち止まり、傘の中を覗き込んでみると、猫がいた。
 猫。いや。猫なんだが。車に轢かれたのか下半身が潰れている……。

「猫、まだ生きてる?」
「、」

 かけられた声に反射的に後退ると、雄英とは違う制服を着た男子が立っていた。手にはコンビニの袋。それをガサガサ言わせながらしゃがみこんで水のボトルと猫缶を出している。
 猫へと目を凝らすと、どうやらまだ生きているらしく、薄く胸を上下させている。
 そんなもん与えるより病院とか連れて行った方がいいんじゃねぇかと思ったが、男子は苦く笑って猫缶を開けた。カシュッという音のあとになんとも言えないにおいが漂う。

「もう無理だよ。もって数分。それに、本人が……この子がもういいって言うから。最期はおいしい水と猫缶がいいって」

 キャップのボトルに水を入れ、猫缶の中身を指ですくって猫の口元に運ぶ。その横顔はただ悲しそうだった。
 そこで、ぽた、と頬に雫が落ちてきた。
 見上げれば、泣くのを堪えていた空がぽたぽたと涙を落とし始めていた。
 濡れたくなきゃ、さっさとその場を離れればいいのに………俺はなんとなく猫と男子のことを眺め続けた。雨に打たれて制服がぐっしょり濡れて重たくなっても、車が通って跳ねた水が靴にかかっても、そこから動かなかった。いや。動けなかった。
 目の前で小さな命が消えていく。
 そのことから目を逸らさない、そいつから、目が離せない。
 猫は男子の指から下手くそに飯を食ってたが、水を舐めて、にゃあ、と鳴いて、ぱたりと頭をアスファルトの上に落とし、それきり動かなくなった。
 今、小さな命が一つ、消えた。
 俺の人生には何も関係のなかったただの野良猫だ。それでも死んだ。目の前で。水飲んで、飯食って、最期に鳴いて、死んだ。
 固まったまま動けない俺とは違い、男子は猫の開いたままの瞳にそっと瞼を下ろす。その慣れた手つきが気になる。今までも何度もこうしてきたとでも言いたげな……。

「俺の個性。動物の声を聞くこと。だから最期のお願いを叶えた。以上」

 ぱっと顔を上げた男子は笑顔だ。こういうことには慣れっこだとでもいうように。そうして傘はそのままに歩き出すから、なんとなく追いかけて隣に並ぶ。「あのままでいいのか」バス停に置いてきた傘と、猫は。

「道路の管理者に連絡したから大丈夫。傘を目印にすぐ回収してくれる」
「そうか。……慣れてるな」
「個性柄、かな」

 今度の笑った顔は、少し、悲しそうだった。
 俺は、死にかけた野生動物の世話なんてしたこともなければ、今日この瞬間まで気にかけたこともなかった。
 俺は、自分のことしか考えていなかった。そのことを強烈に痛感した。
 一匹の猫が死んだことを悲しむようにザアザアと降りしきる雨に濡れながら、無言で歩く。

(俺は自分のことしか考えてないし、その未来しか見てなかったけど。こいつは、聞こえる声に呼ばれて、あんなふうに生きてきたのか。看取ったり、助けたり。自分のためじゃなく、誰かのために)

 仮にそうだとすれば、立派だが、悲しい生き方だとも思った。
 人生の使い方はその人の自由だ。そのくせままならない。
 俺も家族のことでがんじがらめの中もがいて生きている。
 比べてこいつは、俺以上の数の枷に縛られていやしないだろうか?

「じゃあ、俺こっちだから」

 曲がり角をさす指に「俺もそっちだ」「あれ、偶然」一緒に角を曲がる。そんなやり取りを何度かしているうちに、二人で顔を見合わせる。「……もしかして、わりと近所?」「俺は轟だ。轟焦凍。憶えあるか」「とどろき…とどろき……」俺はお前の顔も名前も思い出せなかったが、俺は色んな意味で有名だから相手が憶えているかもしれない。
 相手は腕組みして俺の顔を見つめて考えたあと、伸ばした手で顔や額にはりついてる濡れた前髪をかき上げた。
 鬱陶しかった視界が晴れて、俺に向かって笑いかける男子の向こうで雲間から光が射す。天から光の梯子が下りてくる。
 暗い世界に、光が射す。

「あー、思い出した、轟だ。小学校ぶり! いちお同級生になるかな」
「おお」
「俺のことなんて憶えてないだろうけど、お前んちにわりと近いとこに住んでる、だよ。

 頭の中をさらってみたが、小学校のことなんて、思い出せることは何もなかった。母を取り上げられ、親父に個性特訓を課せられ、そんな毎日を泥に浸かったような気持ちでただひたすら這うようにして生きていた。おかげでそれ以外の記憶は薄い。
 ……さっきまで泣いていた空が晴れていく。きれいに雲が引いて、青い色を見せて、と名乗った男子を彩っていく。
 俺の顔の左側、火傷の痕をそっとなぞった指がこそばゆい。

「まぁ、あの頃は、なんにも訊けなかったけどさ。家も近いわけだし、話とかいつでも聞くよ」

 はいライン、と出された携帯の画面に眉根を寄せてポケットから携帯を引っぱり出し、持ったはいいが操作方法がイマイチおぼつかない俺がもたもたしていると、伸びた手がぱっぱと画面を操作して俺とのことを『友達』に登録した。
 返された携帯の『トーク』のところにポンッと音を立てて『ヨロシク』というスタンプが押される。「今の俺から。ここから入力すれば俺に届くから」「…わかった」よくわからねぇけどわかった。帰ったらこの、ライン、の使い方を調べて憶えよう。
 傘の下で一匹の猫が死んだその日、俺には友達ができた。
 友達は時とともに親友になり、やがて俺の中でそれ以上に重たく大きな存在へと変貌していくが……それはまた、別の話だ。