生きた芸術。
 海外の芸術家にそう評価された小学生が一人、ていよく買われて行ったその日、俺は拳を握り締め、手を引っぱられるままに歩くそいつを見ていた。
 たまにこっちを振り返っては何か言いたそうにしているその口からは、言葉の代わりに花の蕾がころころと落ちて転がり、SPなんだろう、黒いスーツで真っ黒に固めた人間が拾っては集めていく。
 という同級生の個性は特異なもので、それでクラスでイジメられているような奴だった。
 特別接点らしい接点はない。
 ただ、廊下で角を曲がるときにぶつかって、尻餅をついた相手の目からはらりと落ちた花びらが虹みたいな色をしていて、きれいだと、そう思っただけ。

「とどろき、」

 握り締めていた拳を解きながら視線だけ上げると、相手は笑っていた。その目尻からほろりと花びらが落ちる。
 バイバイ、と手を振った姿がSPの黒いスーツに遮られて見えなくなり、そのうち、あいつがまき散らす花も見えなくなった。
 その日、はていよく売られた。
 体から花という花をまき散らすその個性を海外の芸術家に買われ、貧乏だった生家には喜んで売られ、引き止める人間の一人もいないまま、知らない人間たちに囲まれて飛行機に乗せられ、遠い外国へ行ってしまった。
 ………別に、友達だったわけじゃない。
 クラスの個性いじりのイジメなんてくだらないことに加担していたわけでもない。
 ただ、助けもしなかった。ヒーロー志望のくせに。
 その頃の自分はお母さんをなくし、クソ親父に恨みつらみを募らせ一人立ち上がるので精一杯で、他人のことを救うような思考力なんて持ち合わせていなかった。
 だけど、何かしてやれたんじゃないか。せめて言葉をかけてやることくらいは。
 そのことを頭のどこかでずっと気にしていて、ありていに言うなら、後悔、していた。



 あいつが連れて行かれた国、イギリスの新聞を『英語の勉強のために』と毎週一週間分取り寄せては電子辞書片手に週末に読破する。
 幼い頃からやってきたこれはもう趣味になりつつあって、雄英に入ってもそれは続けていた。「わ、すごいね轟くん。それ読めるの?」横から英語の新聞を覗き込んできた緑谷にああと生返事を返しながら一つページをめくってお目当ての名前を探すが、これにはなさそうだった。次。
 そうやって一週間分の最後の新聞を手に取り、コーヒーをすすりながらゆっくり読み進めて、知らない語句が出てきたらネットで検索しながら一文ずつ潰していき………見つけた。最後の方に小さくある。
 今度、の体から生まれた花だけで小さな個展をやるらしい。主催者は本人ではなく、を引き取った例の芸術家だ。
 俺が成長したように、新聞に小さく顔が載っているも成長していた。
 ………あの日からずっと刺さったまま抜けない棘がある。
 その片をつけたくて、プロヒーローになった俺はすぐさまイギリスに飛んだ。
 あの頃の俺は、お前のイジメに見て見ぬフリをし、売られたお前の笑顔の真意を確かめることもせず、ただただ傍観していた。
 過去の変えられない苦みを噛みしめながら、あの日、あいつもこうして乗ったんだろう飛行機でイギリスのロンドンへ。
 ゴーン、と教会の鐘の音が鳴る、俺にとっては異国の場所で、あらかじめ調べておいたの居住場所目指して石畳の道を蹴って歩く。ずっと勉強していたから標識や案内の英語には困らない。
 曇天の曇り空の中やってきたのは、一軒の家を半分に割ったような二軒続きの家。この左側がの住居のはずだ。
 ごくり、と唾を飲み込んで、設置されているインターホンを押す。『Hello』英語だ。そりゃあそうだ、ここはイギリスなんだから。

か」
『………どちらさま、ですか?』

 拙いが日本語で返って来た声にごくりとまた唾を飲み込む。口がカラカラだ。「轟焦凍。憶えてるか、わからないが。小学生のとき、」なんとか言葉を繋げている間にドタバタと足音がしてガチャンとドアが開いた。
 慌てたように飛び出してきた相手は、イギリス人に馴染むようなブロンド色の髪になっていて、顔立ちも、新聞の小さな写真じゃわからなかったけど、大人っぽくなっていた。小学生の頃の面影なんて残ってない。

「とどろき?」
「ああ」

 ぎこちなく頷く俺に、相手が笑うと、目尻からはらりと花びらがこぼれた。笑顔と個性は変わってない。「ああ、びっくりした。ヒーローのようじ?」「違う。個人的に、勝手にきた。わりぃ、アポも取らないで」「どーぞどーぞ。はいって」招かれるまま玄関に入って、靴は脱がない文化だったことを思い出す。マットで靴底だけは拭っておこう。
 室内履き用なのか、ぱたぱたスリッパを鳴らしながら「こっちだよ」と機嫌よく歩くからはらはらと花びらが落ちている。
 掃除しても間に合わないからか、から舞い落ちる花びらや蕾の類がそのままになっていて、隅に埃と一緒になって積もっている。
 キッチンでお湯を沸かし始めたその姿を眺めて、広いリビングキッチンを見渡す。……他には誰もいない。のことを買った芸術家の野郎も。

「ここに、一人なのか」
「うん」
「お前のこと買っていった野郎は」
「……そんないいかた、しちゃだめだよ」

 苦く笑ったがティーカップを並べながら「しごとがあると、むかえがくる。それいがいは、しらない。さいきんは……」そこで言葉を選ぶように視線を彷徨わせて「エジプトで、いいこをみつけたって、いってたから。またかいにいったのかも」「………クソ野郎じゃねぇか」吐き捨てた俺には曖昧に笑う。その目からはらりと花びらが落ちた。それを拾い上げて、気付く。今生まれたばかりなのに萎れている…?
 俺の視線に気づかないフリで紅茶を淹れたは「スコーンたべる? ジャムもクリームもあるよ」笑ってお茶の用意を続ける。
 俺は、の個性に詳しいわけじゃないが。小学生の頃、俺とぶつかってこぼれた花びらは、もっと瑞々しくて、色に溢れてて、美しさそのものだった。けどこれは。
 可能性は二つ。
 一つ、の花を生む個性には条件があって、それを満たせていないからこうなっている。
 二つ。個性の、寿命。
 お茶を用意して「どうぞ」と小首を傾げるの肩を掴んで、誤魔化そうとする瞳をじっと見つめる。「あの…」の感情が起伏するとき、花は生まれて、蕾だったり花びらだったり形を取る。
 だったら嫌でも感情を揺さぶってやろうと色の薄い唇に自分のを押しつけると、大きく見開いた目からはらはらと花びらがこぼれて落ちた。それを空中で掴まえてじっと見つめる。
 さっきより少し、元気な気はするが。それでもあの頃の美しさには届かない。
 脱力したように椅子に腰かけたが紅茶をすする。「とどろきって、だいたん」「まぁな。で、これはどういうことだ」少しカサついてる花びらを振る俺に、相手は苦く笑う。

「ピークは、ししゅんきのときだったかな。そのときがいちばんきれいで、いろも、かたちも、あふれてて………そこからこう。おいていくばかり」

 だから、もうすぐ捨てられるんだ。
 そうぼやいた相手がカーディガンの内側から何気なく取り出した古い形の銃に、リボルバーの鈍い銀色に、反射的に右を使ってその手を銃ごと凍らせていた。
 別に死ぬつもりはないのに、心配性な轟は僕から銃を取り上げてどこかにしまい込んでしまったから、僕はまだ冷たい手をプラプラさせてからお湯につけた。
 轟の個性は二つあって、一つは氷で、一つは炎。そんなことを今頃思い出した。だから小学生の頃から轟は人気者なんだった。強い個性が二つで、かっこいいって、僕も思ってたっけ。いいな、って。
 今では骨董品市にあってもおかしくないようなあの銃はあの人にもらったものだ。実弾はたったの一発だけ入っていて、どうしようもなくなったらこれを使えと、そう言われたもの。
 つまり。死にたくなったら死ねと。そういうことなんだろう。その手段も轟が奪ったからなくなってしまったけど。
 二人で向かい合って、なんともいえない空気の中お茶をする。
 イギリスらしく紅茶とスコーン。自分で用意するときはそれだけだけど、僕はそれで慣れてしまった。本来ならサンドウィッチとか色々つけるものなんだけど。

「やどは、きめてるの?」
「いや」
「じゃあ、とまっていきなよ。へやはあまっているから」
「……じゃあ、そうする」

 口をへの字に曲げながらスコーンを頬張っている轟のことを眺めて、なんだか不思議な気分になる。
 僕と轟は小学生の頃別れたきりの、顔見知りとも呼べないような関係だったのに、そんな彼が僕のためにわざわざイギリスまで来たんだって思うとさ。不思議になるよね。
 スコーンと紅茶のティータイムのあとは、轟を空いてる部屋に案内して、その部屋の空気を入れ替えたりシーツを取り換えたりと掃除。ついでに、まぁまぁな広さがある家の中、自分がまき散らした花を箒と塵取りで回収してゴミ箱に捨てるだけの掃除をする。
 けど、困った。僕は適当な食事をしていたから(お腹が減ったら食べる的な)、お客さんに出せるような食材の用意がない。轟という住人が増えたことで夕飯の買い出しをする必要が出てきた。

「とどろき、ぼく、かいものにいく」
「俺も行く」

 英語は平気だと言うし、一緒についてきてもらって買い出しをして、その日はイギリスらしくて作るのも簡単、フィッシュアンドチップスと、健康を考えてサラダを作った。
 轟はなんともいえない顔でイギリスの代表的なファストフードをつまんでは口に運んでいた。それが少し面白かった。きっと普段は食べないんだろうなぁ。
 次の日から、轟がいつまで滞在するのかは知らないけど、せっかくイギリスに来たんだからと観光名所を案内して回った。
 イギリスといえばのテムズ川沿いのウェストミンスター宮殿とビッグベン、バッキンガム宮殿、誰もが知っている名所から、ロンドンから少し足を伸ばした場所まで。
 エリザベス女王が滞在することで知られるウィンザー城、四十の大学があって歴代十名以上の首相を輩出したオックスフォード、ビートルズの生まれ故郷である港湾のリバプール……とにかく色んなところへ行った。
 その時間は、楽しかった。
 イギリスに来ても僕には友達らしい人はできなかったし(僕の芸術を評価していたあの人に過保護にされていたからというのもあるけど)、こうやって人と歩くのだって久しぶりだ。
 あれ。そういえば。隣り合って歩くのはいいとして。どうして。

「あの」
「ん」
「えっと、て、は、どうして。つないでるの?」

 はら、と目尻から花びらが落ちて風に吹かれて消えていく、その視界の中で、轟がしれっと言う。「お前の花が見たいから」と。
 リンゴーン、とどこかで教会の鐘が鳴っている。
 イギリスらしい衣服に身を包んだ轟にエディンバラの街並み、映画の中のような世界で手を引かれて歩いていると、なんだか妙な気分になる。高揚感というか。そういうもので体の芯に熱が灯る感じ。

(最近は、個性の花もパッとしなくて、誰にも相手にされていなかったから。こういうの、嬉しいな)

 笑った拍子に口から花が落ちて、それを轟の手が器用にキャッチする。オレンジの花。僕の明るい気持ちを表すような。
 ほろほろと溢れてくるのは、花じゃなくて涙だ。いや、涙も花びらも両方目から落ちてる。視界がとても鬱陶しい。「」「うん」「終わろうなんて思うなよ」「…………」このまま。あたたかい気持ちのまま終わりたいなと思った僕の仄暗い希望を轟は知っていた。わかっていた。だから手を繋いでる。僕がどこにも落ちないように、飛ばないように。

「じゃあさ。ぼくが。どこかのおくじょうから、とびたいっていったら、とどろきは」
「止める。間に合わなかったとして、一緒に落ちてやる」
「……ふふ」

 思わず笑って、目尻をこぼれる花を払う。「なんだかこくはくみたいだね」と言ったら轟は今頃気が付いたのか、ちょっと赤い顔で視線をあちこちに逃がした。「いや、それは…ああ……そういうことになるのか? よくわかんねぇ」紅白色の髪にがしがし手をやって帽子を被り直すと、畏まったような顔を近づけてくる。僕がそれが嫌じゃないから、轟とキスをして、目尻からはらはらと舞う花びらのこそばゆい感触を受け入れる。
 そうして二週間がたった頃。
 轟がもう帰らないとと言って日本行きのチケットを持ってきたその日、二枚あるチケットに、最初は呆けて、それからじっとJapanと書いてあるそれを見つめて………僕は、リボルバーの古い拳銃より、一人孤独に落ちる屋上より、鳴り響く鐘の音の荘厳さより、轟の手を取って日本に戻る道を選んだ。
 もう僕になんて興味がないんだろうあの人には手紙を一筆残して、簡単に荷物をまとめ、住み慣れたハウスを飛び出し、空港行きのバスに乗る。

「ぼく、いえがないよ」
「俺んちがある。マンションだ。部屋は余ってる」
「こせき、とか、いろいろ、どうするのさ」
「なんとかする。ヒーローなんだ、任せろ。絶対にお前を救ってやる」

 ぎゅうっと抱き締めてきた轟に、バスなんだけどな…と思いつつ、口の中で生まれた花をもごもごと食べて飲み下す。「なんで、そこまで」僕なんかのために。
 轟は少し黙ったあと、車内の振動に負けそうな小さな声でぼそぼそと告白した。
 小学生の頃、僕が虐められているのを見て見ぬフリをしたこと。大人の事情で売られた僕をただ傍観していたこと。それらを後悔していたことを。

(一人で、いて。だいぶ一人だったから。この先もずっと一人なんだと………)

 まさか、ずっと、僕のことを想っていた誰かがいたなんて、想像したこともなかった。
 なんだか嬉しいな。そんなにずっと、僕のこと、想ってくれていたなんて。
 目尻からこぼれ落ちてはらはらと舞う花びらは色取り取りで、僕の心の変化を表すように瑞々しく跳ねた。
 バスの控えめな照明に照らされたそれは、久方ぶりに見る、美しい色をした虹の花弁だった。