夏は嫌いだ。
 うだるような暑さで頭が沸騰しそうになるのもそうだし、蝉の声が煩わしいのもそうだし、肌を伝う汗をいちいち拭うのも鬱陶しい。
 それに。夏の高い雲と抜けるような空が嫌いだ。
 夏の空が嫌いだから、あまり空の見えない森に家族で『森林浴』というていで来てみたが、同じことだった。水着になって浮き輪で川に浮いてれば嫌でも空が見える。高い空が。白い雲が。蝉の声が嫌でも夏という季節を突きつけてくる。

「焦凍、大丈夫?」

 ひょい、と覗き込んできた姉さんが夏の空を遮った。そのことに少しほっとしながら「何が」と返すと、ぺた、と少し冷たい手を額に当てられる。それから少し言いにくそうに「夏は、ほら。毎年元気がないから」「………大丈夫だよ」姉さんの手を緩く払い、川の水をすくって顔にかける。冷たい。
 バーベキューの準備に戻るという姉に手を振って返し、バシャ、と川の水に手を落とし、ぼんやりと夏の空を見上げ続ける。
 そうするといつも思い出すことがある。
 何年経っても色褪せないことがある。
 俺には弟がいた。双子の弟。この世に一緒に生を受けて、一緒に育った、弟がいた。
 俺と弟の違いは個性だ。俺は親父に望まれるような二つの個性を持って生まれた。だがそのせいか、弟には個性がなかった。無個性だった。
 弟は早々に親父に見切りをつけられた。
 その頃から弟は俺にべったりになって、正直、それが鬱陶しいくらいだった。
 俺は母に煮え湯を浴びせられ、優しかった人を取り上げられ、厳しい親父の個性特訓をこなさなければならない日々。
 だけど弟にはそれがない。なぜって、無個性だから。

 お前はいいよな。こんなことしなくてすむんだから

 だから、あるとき、ぼそっと、親父によってつけられた傷の手当てをしながら半ば八つ当たりのようにぼやいたのだ。弟が無個性なりに悩んでいることを知っていながら。
 ………弟は優しい奴だったから。俺の無神経な言葉にも優しく笑った。いつもごめんねと、俺が親父につけられる傷のことを、自分は受けなくてもいい傷のことを謝りながら、申し訳なさそうに微笑んだ。
 そんな弟とは、月日を重ねるほどに次第に距離ができた。
 俺は個性を磨かなくちゃならない。いつか親父を見返してやるために。そのことで忙しい。
 だから、弟に散歩に行こうと誘われたあの夏の日。面倒くせぇと思いながらも、たまにはいいかと、弟の申し出に付き合った。蝉の泣くように叫ぶ声がとくにうるさい日だった。
 弟は、何か笑いながら話していたように思うが、俺はその内容についてを憶えていない。ほとんど聞いていなかったからだ。ただ生返事を返していた。義務的に足を動かし、夏の直射日光を鬱陶しく思いながら、早く帰りたい、なんて思っていた。

 焦凍

 名前で呼ばれて、そこで初めて弟に顔を向けた。弟の真上には太陽があって顔がよく見えない。
 焦凍、と呼ばれて手を握られた。なんだよ、と返しながら自分より小さい手を緩く握って返す。

 俺は何にもなれないけど。焦凍はきっと、ヒーローになって。なりたい自分に、なってね

 ミーン、と泣き叫ぶ蝉の声に負けるような、まるで遺言のような言葉だった。
 気がつけばそこは公園の展望台で、気が付けば弟は欄干の手すりを背にしていた。そんなことに今頃気がついた。
 弟の後ろには夏の高く抜けるような空が、白い雲が、眩しすぎる太陽があって、その表情のすべてを眩しさで覆っていた。

 好きだよ、焦凍

 笑った声。それを最後に、する、と弟の手が俺の手からすり抜けて、弟は低い欄干に寄り掛かるようにして、背中から、落ちて行った。
 あるいはそのとき左の炎を使えていたら。意地なんか張らず、使わないと決めていた炎を使っていれば。間に合ったかもしれない。
 だが、俺が我に返って欄干を掴んで下を覗き込んだときには、弟は地面に赤い花を咲かせていた。
 その場を飛び降りて右の氷を使って地面まで転がり落ち、ぴくりとも動かない弟をと呼んで、とにかく傷のぐあいを確かめようと氷のナイフを作って白いワイシャツを裂いて、呆然とした。
 いつでも長袖を着ている弟の肌には無数の青痣が、消えない傷が、痕が、数え切れないほどにあって、きれいなのは手とか首とか顔とか、服で隠れない部分だけ。胸にも腹にも背中にもこれでもかとばかりに痕、痕、痕。
 流れ出ていく赤い色が、夏の強い陽射しを反射して輝いている。むせ返るような血のにおいが喉にはりつくようだ。
 …………弟は。無個性だったから。個性特訓こそ課されることはなかったが。個性を持たずに生まれて、轟家の恥だと、よく親父に怒鳴られていた。それは知っていた。
 だけど。これは。知らなかった。
 弟は何も言わなかった。それどころか、お前は個性特訓しなくていいんだからいいよなと吐き捨てた俺に優しく笑ってさえみせた。
 弟は、親父の蛮行に耐えて、耐えて、耐えて………そして、諦めた。人生そのものを。
 こんなことがずっと続くのならもう終わらせてしまおうと決めてしまった。そうしてそのとおりにした。俺に好きだと遺して、死んだ。



 川の水の冷たさを感じながら手を伸ばすと、半透明な手が俺の手に重なる。

『なぁに?』

 夏の眩しい太陽の陽射しを透けさせながら、半透明な弟がそこにいる。天使のような白い翼を生やして。
 俺の天使は腕にも足にも消えない傷痕があったが、白いワンピースのような服はよく似合っていた。「また夏が来た」『そうだね』「俺にとっての、罰の季節だ」お前の手を離した、あの一瞬でお前は落ちて死んだ。夏の陽射しが眩しすぎて、あのときのお前の顔が泣いていたのか笑っていたのかすらわからない、そんな俺に、今のお前は笑ってみせる。あの頃と何も変わらない笑顔で。

『俺の分も背負って生きてよ。焦凍は強い個性があるんだから』
「…………しんどいよ。そんなのは」

 バチャ、と川の水に手を落として、浮き輪の上で脱力する。
 一文にもならない懴悔を重ねているうちに視えるようになった、夏になれば毎日のように現れる弟の幻影は、天使のような笑顔を浮かべている。

(神も、仏も、いやしない。優しい弟に救いはなかった。お前の好きに、俺は、好きを、返せなかった)

 たとえば今俺が「好きだよ」と吐き出したとしても、それで相手が笑って『俺も好きだよ』と返したとしても、なんの意味もない。にこにことした邪気のない笑顔はまるでそういう呪いのように俺の心臓を鷲掴みにして離さない。
 ミーン、と蝉が泣く声がする。
 もしもあのとき。お前が俺の手を握ったあのとき。俺がちゃんとお前の話を聞いていて、お前のことを抱き締めていたら。お前は落ちることなんてなくて。体の傷のことだって話してくれて。今もまだ、生きていたかもしれない。
 そう考えるとどうしようもなくなる。声の限り叫んで喉を潰したくなる。

、)

 俺が殺したも同然な弟のことを呼びながら浮き輪を放り出し、ドボン、と川の水に沈んで、空気を吐き出しながら叫んだ。
 この後悔は一生消えない。
 の死は俺の中に焼き付いて刻印になった。
 慰めはない。川の中だろうと苦しさの一欠けらも感じさせない笑みで俺のことを緩く抱き締めてみせる幻影はただの罰。
 喉が裂けるほどに泣いたとしても、お前は二度と、帰ってこない。