ヒーロー公安委員会というのはその仕事柄、常に人出不足だ。求められる人材の『質』『適性』『能力』その他もろもろ……。そういうことにこだわっていたから、前任で善人だった先輩レディ・ナガンは疲れ果て、タルタロス送りになった。 当時後釜の一人として育てられていただけだった俺は、まだ『危うい』という評価を受けながらも、レディの仕事を引き継ぐことになった。 レディに殺された会長の代わりになった人の話を適当に聞き流しながら、パチン、と耳元で弾けた風船からの『憎い』『どうして私が』『痛い』『痛い』『いたい』という声を聞いてすっくと立ち上がる。 「どこへ行くのです」 「仕事」 「まだ話の途中ですよ」 「会長。あんたには聞こえないんでしょう。今、人が死んで、憎いって遺して、俺に伝えた、声が」 話ならまたあとで、と言いながら羽織っているジャージを脱げば、俺の皮膚からずるぅと這い出てきたのはくじらだ。真っ赤なくじら。 まるで狼みたいな牙が生えているそのくらじの頭に頭を擦り寄せて撫でてやりながら、ぽん、と背を叩いて飛び乗り、ジャージを羽織り直す。「仕事をしてきます。窓、開けてください」会長は眉間に皺を寄せていたけど、結局大きな窓を開閉、俺はそこから外へと飛び出した。 俺の個性は二つ。 一つは人の恨みつらみを中心とした強い『声』が風船という形を伴って耳元で弾けて聞こえること。二つめは人を喰い殺すことができる『殺人くじら』を生み出せること。 それはとても公安向きな個性だといえた。 そう、毒を制するには毒を使うのが一番だ。そんなこと俺だって知ってる。 ついさっきまで人間を殴っていた。そういうふうに肩で息をして、血やら肉片やらを浴びている男が一人と、哀れな少女が一人。レイプされたあとに殺されたんだろう、裸体を晒して、顔面が判別がつかないくらいにぐちゃぐちゃにされていた。 かわいそうに、と同情しながらトンと足音を立ててくじらから降りると、殺人者の目をしたヴィランが振り返った。理性を欠片も感じさせない喚き声を上げながら硬化した拳を振り回しながら襲い掛かって来る。 その、膝から下の足を、俺のくじらが咬み千切る。 無様に転んだヴィランがなぜ自分が転んだのかがわからず目を白黒させ、片足がないことに気付くと、さっきとは違う種類の悲鳴を上げた。 は、と笑う。唇を嘲笑の色に歪めて。 「あんたはあの子に何をした? レイプして、痛いやめてって泣く子を犯して、首を絞めて殺して、身元が割れないように顔面を潰した。なぁ、そうだろ?」 そんなお前に、痛いって泣き喚く権利なんてないんだよ。人権なんてないんだよ。 隣にすり寄って来たくじらの顔を撫でる。「なるべく苦しめてやろう。なぁ。次は左足」赤いくじらは俺の言うとおりに男の左足を喰い千切った。上がる悲鳴は醜く、聞き難いが、そういう雑音を聞き流すことにはもう慣れた。 ジャージのポケットに入れっぱなしになっているサバイバルナイフをパチンと弾いて展開すると、男はヒッと息を呑んだ。「大丈夫。海外の軍隊も使ってる、切れ味抜群のやつだから」俺は笑って男の左耳にナイフを押し当て、削ぐ。 次は右耳。次は鼻。次は片目を潰し、もう片目を潰し、硬化の個性を使うということも忘れたらしい腕を片方ずつくじらに喰わせ……四肢がもがれ顔の判別がつかなくなった男を前に、「いいよ。飲んで」ぽん、とくじらを叩けば、シャチのような牙の並んだ大口を開けた赤いくじらが男を齧り、咀嚼し、そのすべてを片付けていく。 血で汚れたナイフを払い、GPSの発信機能をONにしてその辺に転がす。 赤い色が落ちているコンクリートの床を歩いて被害者の前でしゃがみこみ、せめて脱いだジャージをかけてやる。 「間に合わなくてごめんな。できる限り、痛い思いはさせたよ」 俺の個性は生きているうちの声しか届けない。死体となってしまった少女がこれで満足してくれたのかどうかはわからない。 ただ、そうだといい、と願いながら、すり寄って来た赤いくじらに顔を寄せる。「さあ、おしまい。会長がうるさい。帰ろうか」後片付けはここに残したGPSで場所を特定した奴らがやってくれる。 ぽん、とくじらの背を叩いて飛び乗り、誰かの犠牲の上に成り立っている、今日も平和に見える街を泳いでいく。 そういうことを何年続けたのかも忘れた頃、公安に新しい人材が入った。ホークスという背中に翼の生えた人物で、羽を一枚一枚思い通りに操ることができるらしい。 俺はそういうことに興味がなかったから知らないけど、俺だってそういう『教育』を受けていた。ホークスもその一人なんだろう。 「これからよろしくお願いします、先輩」 差し出された手と適当に握手、手を離す。「俺、眠いから。ちょっと寝る」「ええ!? ここは後輩と飯でも一緒するところじゃないんですか? ほら、親交を深めよ〜って」「一人で行けよ……眠いんだ…」仮眠室まで歩けそうにない俺はジャージをその場で落とし、裸になった肌からずるぅと赤いくじらが出てきて俺のことを背に乗せた。そのまま仮眠室まで連れていかれ、ベッドにごろりと転がされる。 昨日は夜通し仕事だった。そのくせ人材不足すぎて休みがない。ホークスが仕事するようになるなら少しは楽になるかもしれないけど、あんまり、期待はできないな。最近のヴィランは活性化気味だから………。 小さなサイズになった赤いくじらが俺の腕の中にもぞりと入って来る。どうやら抱き枕になってくれるらしい。「ふ」俺の個性だけど、お前に意思なんてものはないのかもしれないけど、いい子だ、と赤い頭を撫でて、目を閉じる。 そうやってどのくらいの時間寝ていたのか。パチン、と耳元で弾けた風船の音で意識が醒めた。『助けて、死にたくない、死にたくない』「……っ」寝起きの頭を振るって、ずっと抱き枕になっていたらしいくじらのサイズを俺が乗れるまで大きくし、ビルの屋上から街へと飛び出す。 まだ生きてるんだろう、風船が飛んでくる方角目指してとにかく全力でくじらを泳がせた。 この辺では二番目か三番目に高いビルの屋上。ランチを取ったり運動ができるよう整備されているそこに、OLらしい女性の首にナイフを突きつけた男がいて、ビルの淵に立っていた。欄干を乗り越えればすぐに落下できる場所であり、ナイフを手離す様子はない。周囲には騒ぎを聞きつけた人混み。やりにくい状況だ。 他にヒーローの姿はないかと周囲に視線を走らせてみたものの、ただの商業ビルだ。事件が通報されていたとしてヒーローの到着まではまだ何分かかかるだろう。 (仕方ないな) あまり使いたくはない小型の銃をポケットの中から引っぱり出す。…うん、使えそう。メンテしててよかった。 実弾の入った銃を構え、くじらにはなるべくじっとしているよう指示し、空中から、ナイフを握っている男の右手を撃ち抜いた。 そこへパキパキと音がして氷の壁が突き立ち、女性と男の間に壁を作る。 全速力で泳がせたくじらで女性をかっさらうようにして保護し、ビルの入り口、男から離れたところに下ろす。「怪我は」「ちょっと、すりました、けど。大丈夫です」気の強い女性のようで、少し血の出ている首をハンカチで押さえて、意識はしっかりしている。 女性を置いて氷で拘束されている男のもとへ向かうと、はぁ、と白い息を吐いている学生服姿の男子生徒を見つけた。「……これ、君が?」声をかけると、紅白頭をした男子が振り返って浅く頷く。「すみません。手を出しました」「いや、いいよ。助かった。警察には俺から…っ」ぐら、と揺れた視界にくじらに寄り掛かる。 あなた、自分の寿命はわかっていて? こんなときに会長の声が頭に再生される。大丈夫ですか、と駆け寄ってくる男子生徒の姿がぶれている。 はぁ、まぁ。っていうか、なんですか、今頃そんな話。社会のために使い潰す駒が公安の構成員でしょう あなたの個性は貴重なのよ。なりふり構わず飛び出すことはもうやめて、こちらが指示した事件の解決に動いてちょうだい それじゃあいつも後手です。事件が起きて、解決に動く。犠牲者が出たあとに。俺が個性で動けば犠牲が出る前に間に合わせることもできる ……確かにあなたの言うとおりよ。でも、自分の体を見て。よく見てほしいの 懇願するように言われ、仕方なく、夜の街を映している大きな窓に寄って行く。 自分の体。くじらを出すために羽織っているだけのジャージを脱いで落とすと、肌色のはずの体はところどころ変色していた。俺のくじらと同じ赤い色に。 その赤い色から小さなくじらが顔を出している。つぶらな黒い瞳と、シャチのような白い牙を覗かせてこちらを見上げている。 その小さな頭を撫でて体の中に押し込み、ジャージを羽織り直す。 そうですね。近いうち、俺はこいつと同化して、人ではなくなるかもしれない でもいいじゃないですか。もうホークスもいる。俺が役立たずになったところで、公安が立ち行かないってことにはならない。そうでしょう 限られた個性の使用回数。限られた体。限られた命。 それでも無制限に飛ぶ風船が、聞こえる声が、悲鳴を上げる。助けを求める。その声が頭に響く。 だから、静かにしてほしくて、静かになりたくて、俺はただがむしゃらに走っていた。それだけだった。 「…………、」 ぼやっとした視界で瞬きして、のそりと起き上がると、ピー、と機械に悲鳴を上げられた。それでそこが病院だということに気付く。 俺、あのまま気を失ったのか。飛び出しといてそれはカッコ悪いな。 っていうか、あの男はどうなったのか。「あ」それで、ガラ、と開いた扉の音に視線を投げると紅白頭の男子がいた。あのとき男のことを個性で氷漬けにして止めていた子だ。 その後ろから白衣の人間が数人入ってきて、目が覚めた俺の検査やらなんやらを一通りしていく。 「君は、なんでここに?」 「あなたの証言がないと、仮免もない俺の個性の使用は処罰ものなので…」 「ああ。そっか」 あの場でプロだったのは俺だけか。じゃあ書面にサインをしてあげないと。 渡された書類を受け取って、右手の指が赤くなっていることに気付いた。「…っ」うまく。動かない。 俺の変色した手に躊躇うことなく触れた男子が「大丈夫ですか」と声をかけながら震える手を押さえ、なんとか、へたくそながら、ヒーロー名を書いた。これで個性の使用許可は俺が出したことになるから、この子が咎められることはないはずだ。 俺の皮膚の変色以外簡易検査に異常はなかったらしく、「明日退院できますよ」と朗らかな声で医師に告げられ、笑って返しておく。 この肌のことは何も言わない。言い出したらキリもないしな。 医師と看護師が出て行って、サインはしたのに、その書類を持ったまま男子生徒はパイプ椅子に座って動かない。じっと俺の変色した体を見ている。 「その、制服。雄英だろ」 「はい」 「いいね、学生。俺もやってみたかったな」 「………別に、そんないいもんでもないですよ」 「ふは。そうか、君は馬鹿をしない子か。でもそれはもったいないよ。友達作って、今しかできない馬鹿をして、後悔しないように、生きないと」 「後悔したくないなら、真面目に生きるしかありません」 「……んー。そ。今の君は、そういう感じか」 眉間に皺を寄せて『人生義務的に生きている』って感じの空気を纏っている男子の頭をぽんぽんと叩く。「じゃあさ、プロヒーローからの、遺言だとでも思って。頭の片隅に止めておいてよ。君は高校生らしく、仲間と馬鹿をして、笑って、過ごしなさい」「…………死ぬんですか?」小さな声に肩を竦めて返す。 これで体の半分くらい斑に赤くなってきた。 もう完全に赤くなった俺の腹から真っ赤なくじらが勝手に顔を出すと、男子が驚いたように身を引いた。「こら」ぽん、とくじらの頭を叩くが、つぶらな瞳と獰猛な牙は引っ込まない。まるで自由にさせろと言っているようだ。 ………会長の言うとおり。これ以上は、危険かもしれないな。 くじらを隠すために布団を胸まで被り、ベッドに横たわる。 今までさんざん逃げてきたけど、時間のかかる検査ってもんを受けてみるか。それで何かがわかるかもしれないし。 そこで、パチン、と耳元で風船が弾ける音がした。『助けて』その声が目の前からしていたから思わず顔を上げると、色の違う両目とぱっちりと目が合う。「…? 何か?」訝しげに眉を顰めた相手の悲鳴は無意識のものなんだろう。「君、名前は」「轟焦凍です」ああ、なるほど。エンデヴァーの息子さん。個性二つ持ちで、父親の個性を意地でも使いたがらないっていう。 あの家の家庭事情はホークスが気にしてたからうっすら知ってる。 「なんで、そこまで頑張るんですか」 俺の赤く変色した指を見つめての小さな声に笑う。俺は別に頑張ってない。ただ、うるさい声を、黙らせたいだけだ。 君の声も、さっきから聞こえてる。この退屈な場所から出たいって言ってる。もううんざりだって父親を恨んでる。ごめんなさいってお母さんに謝ってる。君の中には色々な後悔が渦巻いてて、でもそれを顔に出さない。そういう仮面を被っているみたいに。 顔の左側、上の方。ざらついた皮膚を変色した指で撫でると、相手は大人しく目を閉じた。 「上には、無理をするなって言われてるし。勝手をするのはこれで最後にしようかな」 「……?」 「しょーと」 俺が壊してやるよ、お前の退屈。お前の後悔。 助けてあげるよ、お前のこと。 我ながら偉そうな上から目線の言葉だったけど、焦凍は驚いたように目を丸くして、それからゆるゆると細めていった。「やれるもんなら、どうぞ」「おー。覚悟しろ」右手を伸ばせば小さなくじらが出てきて焦凍の背後に回ってどんっと背中を押した。「ちょ、」よろめいた焦凍を抱き止めて、まだなんにも知らないんだろう唇を指でこすってキスをする。 身をよじって逃げようとする焦凍をさらにもう一匹のくじらが阻んで、小さいなと思う口に指を入れれば簡単に開けた。「ぁ、ン、」キスもしたことないんだろう焦凍のぬるい温度と舌を交わらせ、何にも知らない焦凍をキスだけで追い詰めていく。 息の仕方がわからないのか、真っ赤な顔になってきた焦凍に仕方なく手を離すと、どん、と思い切り肩を押された。片腕で口を塞いで真っ赤な顔をした焦凍が走って病室を出ていく。 追いかけようとする小さなくじら二匹を「おいで」と呼び止め、それぞれ両手に抱いてベッドに転がる。 ずぶずぶと体に沈んでいくくじらを思いながら目を閉じると次の日の朝になっていた。 退院とはいっても身一つと公安が置いていった着替えくらいしかないから、受付で事務手続きをすませて一人寂しく退院。病院を出ると、昨日見た紅白頭の少年が一人立っていた。ポケットに両手を突っ込んで、なんだか挑むような目つきでこっちを見ている。 『中途半端だ』 パチン、と耳元で弾けた風船が喘ぐようにそんなことを言う。煽ってるんだろうか。 俺が笑って「学校は?」と訊くと「サボりました」と一言。昨日真面目に生きるのがどうこう言ってたくせにさっそくか。「じゃあ、遊びに行く?」どうせ俺は個性の様子見のために今日は仕事は振られない。暇だ。時間がある。だから遊ぼうかと誘うと、仏頂面の焦凍はこくりと一つ頷いた。 「何が知りたい?」 父親とは似てないなと思う端整な顔を覗き込んで問うと、相手は固まった。「何、って」色の違う両目があちらこちらへと逃げる。『キスの先』『もっと気持ちがいいこと』『セックス』男子らしい思考がなだれ込んでくるのに薄く笑う。 いーよ。全部教えてあげるよ。お前が本当にそれが欲しいなら。 普段はくじらに乗って守っているだけの街を自分の足で歩いて、思う。 たとえ残りの人生が短いのだとしても。俺はきっと、聞こえる声に、知らないフリはできないのだろう。聞かなかったことにしてなかったことにすることはできないんだろう。きっと人生削ってできるところまでやってしまう。 だから、どこかの遠い声を聞いてしまうより、近くの大きな声を聞いていた方がいい。たとえば焦凍とか。 パチン、と耳元で弾けた風船が『助けて』と言う。だから焦凍に「何か言って」と顔をすり寄せるとビクつかれた。「は、ぁ? えっと」『近い。熱い』とても素直な感想だ。人と密着したことがないんだろう。 パチン、と耳元でまた風船が弾ける。『なんで俺なんだよ。なんで。なんで!』うるさい。うるさい。「昨日のキスどうだった? 気持ちかった?」「う、」『忘れようとしてたのに』羞恥心で染まっている顔に薄く笑って、カチコチに緊張している手を緩く握れば、少しだけ心が楽になった。人の体温にはそういう効果があるのだ。人の心を解すような。 「そういえば、俺」 「ん」 「あなたの名前、知らない」 「あー。ヒーロー名じゃない方。いいよ、教えてあげる」 耳まで赤い焦凍に顔を寄せてだと本名を教えてると、、とこぼした声が、物欲しそうに舌で唇を濡らす。 あー、今すぐホテルに連れ込んで知らないこと全部教えてやりたいななんて思いながら、緩く握り返された手を引く形で昼間の街へと繰り出す。 (夜の街は。また今度) |