「一ヶ月ここへ行ってこい」

 突き放したような親父の声のあと、手にしているタブレットにメールが飛んできた。「は?」顰めた声と顔をしながらとりあえず文面に目を通し………一言で言って、『療養しろ』という内容のメールからじろりと視線を上げる。親父は素知らぬ顔で自分の仕事をしてやがる。

「必要ねぇ」
「いいやある。俺に言えたことではないが、お前は仕事中毒だ」
「いいだろ別に。中毒だろうがなんだろうが、人を救ってんだ。それで誰が困るんだよ」
「俺が。家族が。困る」

 俺の方を見ないまま「気付いているか知らないが、痩せたぞ」「………」ヒーロースーツを着た自分を見下ろせば、ぴったりサイズのはずのスーツは確かにところどころ浮いていた。
 筋トレやトレーニングをサボってるわけじゃない。
 ただ、食べる量は、減った。最近は好きなはずの蕎麦すらうまいとは思えてない。食事や栄養をサプリメントやエネルギーバーですませることも増えてきた。
 眉間に皺を寄せながらもう一度メールの内容に目を通す。
 一ヶ月行けと言われたのはモンゴルだ。仕事ではなく、休暇で、休養としてここへ行ってこいと。そう言っている。
 添付されている写真は、いっぱいに広がる緑の草原と青い空に、居住場所なんだろう白いテントがいくつか、馬が数匹写っている。
 ……確かに。こういう場所へ行けば、ヒーロー活動とかせずに、のんびりとした時間を過ごせるのかもしれないが。「モンゴル語なんて話せねぇぞ」「日本語ガイドができる現地人がつく。ヒーローの療養地として定番の場所だからな。案ずるな」「…………はぁ」メールの最後には飛行機の電子チケットまで表示されている。俺に拒否権は最初からねぇわけだ。
 どさっとソファに腰を下ろして休暇の申請に同意のサインをする。

(確かに少し、疲れてる。何も考えずにのんびりしたい。それには最適な場所かもしれない)

 そんな気持ちで一週間分くらいの荷物をまとめ、トランク一つと身一つでモンゴルの首都、ウランバートルへ飛んだ。
 モンゴルって言えば草原に青い空に白いテントに動物。そんなぼんやりとしたイメージしかなかったが、首都は普通に高層ビルが立ち並ぶ街だった。
 でも空気感は全然違うな。乾燥してる。
 待ち合わせの場所で携帯の顔写真で相手のことを眺めながら人混みに視線をやっていると、ぴょん、と跳ねる角を持った頭が見えた。「ショート〜! ここでーす!」ぴょん、とまた跳ねた相手にトランクを引きずってそばに行けば、まだガキじゃないかと思う子供みたいな背丈の奴がいて、なんか知らないが敬礼してきた。「移動お疲れさまでした!」ガイドだとは聞いてたが本当に日本語を喋ってる。ペラペラだ。
 子供のように見えるがこれでも成人済みだとプロフィールに載っている相手がその場で四つん這いになった、と思ったら、むくむくと体が大きくなってデカいヤギ? 羊? になった。「お……」それが個性だとプロフィール読んで知ってはいたが。

「観光には興味がないとのことなので、このまま宿泊先まで移動しましょう!」
「どうやって」
「乗ってください!」
「いや、荷物は……」

 トランク抱えてお前に乗るのはバランス的に難しいぞ、と思っていると、横に機械が降りてきてぎょっとする。「ドローンで運びますのでご心配なく!」「おお……」なんか、思ってるよりハイテクだな、ここ。
 個性でデカくなるからぶかぶかの服を着てたんだろう相手に跨ってみると、ふかふかしていた。体毛のせいか。
 ただの羊だかヤギだかになる個性かと思ったが、俺の背もたれよろしくせり上がって来た白っぽい毛にもたれかかってみる。ひじ掛けまで出てきた。もふもふ、ふかふかだ。これで移動できるならちょっと快適、かもしれない。

「気になるものとかあったら声をかけてくださいね。説明しますし、立ち寄りますので!」

 言うが早いか、カッカッと蹄を鳴らした相手が、跳んだ。むしろ飛んだくらいに高くに跳んだ。
 相当な衝撃が来るんじゃないかと着地に備えたが、体毛が吸収するのか、電車がちょっと揺れたくらいのなんてことはない揺れがあっただけ。
 これならうたた寝できるかもな、と思いながら目を閉じて、日本とは違う乾いた空気を吸い込む。
 そんなふうにして到着した初めてのモンゴル。
 案内されたのは、モンゴルといえばの大草原に青い空が臨める場所。そして、白くて大きいテント……ゲルっていう、モンゴルの伝統的住居の一つだった。
 扉を開けた相手、が得意げな顔で「今日からここがショートのお部屋です」と言う。
 中へと入ってみて少し驚いた。遊牧民が使う移動式の住居っていうから、もっと簡易的なものを想像してたが。きちんとしたベッドがあるし、入り口の扉も施錠ができるタイプだ。
 まぁこれは観光用というか、宿泊客用ではあるんだろうが。言っちゃ悪いが、もっと粗末なもんかと思ってた。
 俺が物珍し気に備品をチェックしていると、ドローンが運んだトランクを中に運び入れたがこてっと首を傾げる。「お腹がすきませんか?」「いや……」俺は別に、と言おうとしたらぐうと盛大な音がした。俺からじゃない。から。
 まぁ、そうか。俺のこと乗せて何時間も個性使って走ったんだ。お前は腹が減るよな。
 俺が減ったと言うと相手はぱっと笑顔を見せ、この辺りでおすすめなんだというモンゴル伝統料理を売ってる店までひとっ走りして俺を連れて行った。
 飛び交うモンゴル語はさっぱりわからないが、「ショート、お金ください」と言われて空港で両替しておいた通貨の入った財布を渡すと、それで会計を始める。
 買ったものといえば、肉まんみたいなもんだった。
 さっそくかじりついているを真似て一口かじってみる。
 小麦粉の皮と、中は肉と玉ねぎと、なんか甘い…餡、か?
 まぁ、うまくもまずくもないが、がとても満足そうに二個目を頬張っていたから、とりあえず腹に入れておく。
 そんな調子でいくつかある店に連れて行かれ、具沢山の野菜スープ(塩味だった)を食べたり、日本でいう焼うどんのようなものを食ったり。
 久しぶりにこんなに食ったな、と思う腹をさすっていると、が俺の手を引いて空を指す。「もうすぐ暮れてきますよ」「もうか」「いい場所に行きましょう。きっと感動します」また羊だかヤギだかになったの背に跨り、連れて行かれるまま、小高い山の上へ。
 さっきまで立ち寄っていたゲルの白いテントが下の方にあって、米粒みたいに小さい。
 白いゲルが緑の草原の中に点々とあるだけ。あとは見渡す限りの草原。たまに動物。山。丘。空。それがここにあるすべて。

「………退屈じゃないか? ここでの、暮らしは」

 見た限り電化製品は限られた場所にしかないし、本屋とかも見当たらない。携帯の電波は基本ないし、Wi-Fiがある場所でしか使えない。
 そんな場所で生きていくのは退屈でないかと訊ねた俺に、羊だかヤギだかの顔が笑う。

「都会の忙しさに慣れてしまうと、ここは退屈かもしれないですけど。でも、ショート。何にも追われません」
「………そうか」
「人目も、時間だって気にしなくていい。あなたはここではトドロキショウトで、ただ一人の人間です。それ以上の意味は求められませんし、ヒーローなんて立派な肩書きも無意味です。今ここにはあなただけがいる」
「あとお前、な」
「あは、そうでした」

 ああ、ほら、という声に白っぽい毛をもふもふ揉んでいたところから顔を上げると、いつの間にか空が暮れてきていた。早い。見渡す限りの緑の平原が斜陽と風で黄金色に輝き、その向こうに、太陽が沈んでいく……。
 事務所のビルの窓の向こうや、高層ビルの上から見るのとは全然違った太陽。大きくて丸くて、手を伸ばせば掴めそうだと錯覚する。

「今日は豪華な夕飯を食べましょう。お腹がいっぱいになったら、自慢の星空を。そのあとに湯浴みをして、何も考えず、ゆっくり眠ってください」
「……ん」

 その日はの言うとおり、色んな種類の肉を使ったバーベキューを二人で食べて、はちきれそうな腹を抱えて降ってきそうな星空を草原に転がって見上げて、なんでか知らないが涙がこぼれた。
 自分の呼吸音がいやに大きく聞こえる。そのくらい音のない暗闇に浮かぶ、視界いっぱいの光の粒。
 背筋がぞわぞわするくらいに美しい星空というものを初めて見たせいだろうか。怖いわけでもないのに涙が止まらなくて、そんな俺の手をはずっと握っていた。「きれいだ」「はい」「毎日、こんなの見てるのか」「はい」「…そっか」ぐい、と袖で目元を擦る。
 都会の空では星も月も遠くてなんの慰めにもなりはしないが。もし毎日こんな夜空を見られるのだとしたら、そういう毎日は、心が綺麗になれる気がする。
 簡単なシャワーで砂埃と汗を落としたあとは、しばらく俺の部屋となるゲルに連れて行かれた。「それじゃあ僕はこれで。また明日の朝に、」出て行こうとする小さな手を掴んで引っぱり寄せ、バタン、と扉を閉めて鍵をかける。「ショート?」丸い目でこっちを見上げてくるに一人では広いゲル内を目で示して「ベッド、一個使え。こんだけ広いのに、一人は、落ち着かない」そうぼやくと曖昧な顔で笑われた。

「でも、契約違反になります。あなたには必要以上には触れるなと、エンデヴァーが」
「……あのクソ親父」

 ちっと舌打ちした俺にが首を竦める。
 その頭に生えてる角にごつんと額をぶつけると、干し草みたいな乾いたにおいがした。「いいからいろ。いてくれ。クソ親父なら俺が黙らせるから。チップもやるから」「……じゃあ。はい」こくりと頷いた角を指で撫でる。
 もう成人済みだって記載はされてるが、どう見てもまだ子供だよな、と思う相手を抱き上げてベッドに寝転がる。
 ここには時計さえない。外は静かで、たまに動物が鳴く声と、部屋の明かりであるランプの火が揺れる音がするだけ。
 子供のような丸い目をじっと見ていると、首を傾げられた。「ショートは」「ん」「実は、寂しがり屋、ですか?」「………どうだろうな。よくわかんねぇ」でも、そうだな、とぼやいて小さなのことを抱き寄せる。こういうことしてんだから、寂しがり屋なのかもな。

「明日は、カザフ刺繍をしに行きませんか。カザフ族の伝統で、コースターとか、お土産として人気なんですよ」
「俺、不器用だぞ」
「僕も手伝います。おうちの人、お母さんとか、喜ぶと思います」

 少し想像してみて、ボロボロの刺繍でも笑って受け取ってくれる母を見た。「……じゃあ。やる」「はい」それから、伝統楽器の馬頭琴のコンサートを聞きましょう。せっかくだから民族衣装のデールも着てみましょう。きっと似合いますよ。それに、ゲルの組み立ての体験もできるんです。やってみますか? それからそれから、実は温泉もあって……。
 楽しげに話すの声に相槌を打ちながら目を閉じる。
 今日は慣れない移動が重なったし、久しぶりに腹いっぱい食って、あと、泣いたせいかな。なんかすげぇねみぃ。

「ショート? 寝ますか?」
「ん……」
「僕も、ここでいいですか?」
「うん」

 足元の布団を掴んで引っぱり寄せて被せ、のことを緩く抱く。「おやすみ」「おやすみなさい」ちょん、と小さな唇で額にキスされると、干し草のようないいにおいがした。
 モンゴルでの休暇は始まったばかりだ。
 明日から、普段できないことはなんでもやってやろう。
 お前と一緒なら、きっと全部、楽しい。