白紙が好きだった。何も書いていない真っ白な紙。
 好きなようにしていいのよとインク瓶を渡され、インクに浸したペン先でゆっくりと綴る。
 言葉。
 音。
 世界。
 白い紙いっぱいに書きたいことを書いたら、また新しい紙をもらって、思うままにペンで言葉を綴る。
 最初、それは本当に自由な『好きなこと』だった。
 けど、僕が書く言葉を、絵を、大人は『未来だ』『予言だ』と次第に騒ぎ立てるようになり、僕が新しく紙を埋めるたびに歓喜。いや。狂喜。するようになっていった。

 この株、どう?

 僕にはその意味がよくわからなかったけど、数値は視えていた。この日が一番安くて、この日が一番高く売れると教えると、母は喜んで僕の頭を撫でた。
 喜んでくれているのなら、それで嬉しいと思った。
 個性が発現した当時、五歳の僕はそのときはそういう子供だったのだ。
 やがて僕は外に出ることが許されなくなり、部屋に閉じ込められるようになり、ノートや紙束、とにかく色んな種類の紙という紙と色取り取りのインク瓶が詰め込まれた部屋の天窓からぼんやり外の景色を眺める。そんな日々を過ごすようになった。
 あまりに何もしていないと怒られるから、たまにはペンを手に取ってインクに浸し、昔は大好きだった、今は大嫌いな白い紙に、思い浮かぶ文字を綴る。指示されるコトの未来を視る。
 人はそれを予言だと言った。
 やがて僕はそういう職業を背負わされ、高いお金を払って僕に未来を視てほしい教えてほしいという人と会い、浮かんだことをサラサラと紙に書く。そういう商売をさせられるようになった。
『あなたは末期がんを患っています。今すぐ病院に行って検査をしてください。今すぐ最新の治療を開始すれば、五年もちます』

『あなたの旦那さんは浮気をしています。探偵を雇って証拠を集めれば裁判で必ず勝てます。慰謝料もたくさんなので、生活にはしばらく困らないでしょう』

『ご高齢の両親ですが、亡くなるのは一年後です。二人とも世話をかけさせまいと自死を選ぶ覚悟を決められています。ですからどうか、あと一年、ご辛抱を』
 僕の予言は外れなかった。外れたらこんなことにはならなかったのにと思うけど、予言は、完璧だった。
 決まった時間に出される食事を食べ、お風呂とトイレとベッドの完備された部屋で寝起きし、予言者としての仕事があればそういう服に着替えて別室に行って仕事をする。
 それ以外は白い部屋で、暇があれば天窓を眺めて、外で経過している時間というのをかろうじて感じるだけの、およそ人間的とはいえない生活。
 まるで空洞だ。まるで空っぽだ。
 僕は、人間の装いをしているだけの、人形だ。
 厳重に管理された部屋でただただ指定された事柄の未来を視る。それを書く。ただそれだけの日々。
 人生とも呼べない時間をそれでも過ごしているのは、死ぬ勇気が持てなかったからだ。
 ここにはペンがある。インクに浸して文字を綴るためのペン。こんなものでも眼球から力の限り突き刺し脳にいたれば死ねるのだろう。あるいは喉のやわらかい部分、大事な血管を深く傷つければ、これも死ねるかもしれない。
 だけど僕にはその勇気がなかった。
 ペンを握り締めてその先を自分に向けたことはある。だけど痛いのは怖くて。その先が自分を貫くのは怖くて。結局ペンを置いてしまう、意気地なしだった。
 夜、ベッドに入れば、じくじくと疼くように鼓動だけが続いている。
 生きていない。
 でも死んでもいない。

(まるで掃き溜めみたいな人生だ。なかなか、酷い、人生、だ)

 抜け殻の、伽藍洞の、何もない、人間でもない、鉛を舐めるような苦くて毒で溢れた生。
 死ぬ勇気もない。だけど生きる勇気もない。
 だから僕は言われるままに文字を綴る。視えたものを綴る。世界を。言葉を。形にして。もう決まったレールの上を走っているような現実の延長線を描く。
 だから、その日、ふいに視えたものにピタリとペンが止まった。「………?」顔を上げて部屋の天窓を見上げる。手なんて届かないのに鉄格子まではめられた窓。青い空が見えるその窓を、破壊する、未来が視えた。僕にはそんな力はないのに。
 もしそれが未来だったなら……いつか訪れる未来だったなら。
 そうならいいなぁ、と思いながら、じくじくと痛む胸を抱えて布団で丸まって眠った次の日。長年僕を閉じ込めていた部屋はいとも簡単に破壊された。
 ガラガラと崩れ落ちる白い壁と土煙に咳き込んでいると、壁に空いた穴から人が入って来る。青いつなぎのようなヒーロースーツ。紅白色の髪と、顔の左側には幼少の頃負った火傷の名残。
 ザザッと頭の中にノイズのようにその人の人生が流れ込んでくる。
 ああ。視た通りの人だ。

だな。ヒーローショートだ。お前を保護しにきた」

 積み上げられた白い紙がバラバラと舞い散り、インクの瓶が床に散らばって中身をぶちまける。
 だけど、伸ばされた手に、僕は手を伸ばせなかった。
 ヒーローショート。これからたくさんの人を救っていく彼が僕を好きになる未来が、視えていたから。僕なんかを抱き上げてやわらかく微笑む彼が視えていたから。だから「来ないで」と精一杯の声で叫んで布団を被って逃げたけど、全然、無意味だった。
 ヒーローで鍛えている立派な腕が簡単に僕のことを布団ごと抱き上げる。

「もう大丈夫だ。助けてやるからな」

 …………怖かった。
 僕は知っている。自分に心臓の病気があることを。それをずっとひた隠しにしていた。誰にも気付かせずにいた。個性を使う度に痛む胸を。
 いつかこの部屋でぽっくり死んでやるつもりでいた。それで周りを困らせることが唯一僕にできる抵抗のつもりだった。
 その予定が壊されてしまった。こんなに簡単に。

(もって、数年なんだ。助けないで。助けないで。希望を見せないで。暗い世界で死なせて。お願い。お願い……)

 ショートは力持ちで、僕を抱きかかえたまま瓦礫を踏みつけ外に出て「あとはお願いします」と警官に頼み僕を救急車に乗せる。
 病院で健康状態の検査をされた僕は、当然、ひた隠しにしていた心臓の病気のことを暴かれた。
 そんな僕に、ショートはとても同情してくれた。「これ。つければ、もう未来は視えない」カチ、と腕にピッタリの腕輪をはめられ、それが個性を抑制してくれることを説明されて、そうですか、とぼやくように返して目を閉じる。
 投与された薬のせいか、とても眠い。
 いらない、そんなお金はないって言ったのに、ショートが払うって言うから。心臓関係の薬はとても高いのに、治療だってお金がかかるのに。

「もう、いいんです。ツいてない人生でした。そのまま、終わります。だから。薬は」
「そんなこと言うもんじゃねぇ」

 痛いくらいに手を強く握られて思わず目を開けると、真摯な瞳と目が合った。髪と同じで左右で色の違う瞳。「俺はヒーローだ」「…はい」「だからお前を助ける」「必要、ありません」「そんな顔のまま死なせたくねぇ。これは俺の勝手だ。お前を空虚のまま逝かせたりしない」「…………」なんだそれ。ヒーローなのに、個人的に感情移入して、僕を、助けるって。この人はそう言ってるのか。
 馬鹿だなぁ。
 僕の個性は腕輪で封じられた。あなたの未来のためになるような予言はできない。役立たずのただの子供だ。そんな子供を助けようだなんて、ヒーローショートは、物好きだなぁ。

「あなたは」
「ん」
「遠からず、僕のこと、好きになります」
「…視えたのか」
「はい。それで、僕も、あなたを好きになります。でも」

 でも、その幸福は長くは続かない。すぐに終わりが来る。闘病の末に僕が死ぬという末路を迎える。
 だから、と泣いた僕の手を、大きな手が優しく撫でる。「そうだったとして。お前が海辺の向こうへ旅立つ日が近いんだとして。俺は波打ち際でそれを見送るよ」それまでに色々なことをしよう。お前がしたいこと、やりたいこと、見たいもの、好きなもの。なんでも用意するし、連れて行くから。
 穏やかな、やわらかな表情でそう言われてしまって、僕は余計に泣いてしまう。
 幼い頃から望んでいたことはたった一つ。

(たおやかな、やわらかな、場所へ。行きたかった。誰かと一緒に。笑って)

 大きくて強い手を少しだけ握り返して、ぼろぼろこぼれる涙の中で、なんとか笑って返す。
 願うなら、この先の人生で。たくさん、あなたと、笑えますように。