顔を合わせればアレコレうるさい母親、そんな母と口喧嘩の絶えない父親、というまぁありふれた家庭に生まれ育ったオレは、高校生になったらバイトを理由になるべく家に帰らない時間を作るようにした。
 正直、あの家にいるのがもう限界だった、というのがある。
 高校は親が最低限納得するところへ入学した。だからバイトくらいは好きにさせろと強めに言って、平日の夜は全部まかないつきのカフェで働いている。帰ったら風呂に入って寝るだけ。顔を合わせるのは朝の短い時間のみ。それでなんとか親と罵り合いの口喧嘩をせずにすんでいる。
 じゃあ土日は、というと、同じくバイト先のカフェにいる。
 ただし、働くためじゃなく、平日サボっている勉強をやるために、だ。
 店員だとメニューが半額になる。だから珈琲とかパスタとか気兼ねなく頼めるし、たまに同じバイトの子がこっそり差し入れしてくれるし、それで頑張ろうって気持ちになれる。

「んー……」

 その日、苦手な数学を前に一人唸っていると、慌てた足取りでやってきたバイトの後輩が「先輩、ごめんなさい。相席いいですか? 店内いっぱいで」「あ。ごめん、四人席占領して。どうぞ」机の上に広げていた勉強道具をどざざっと窓際に寄せれば、相席の相手は紅白色の髪をした同い年くらいの男子だった。顔になんか痕、があるけど、イケメンってやつだ。「どうも」「はい、どうも」よくわからん挨拶を交わして教科書に視線を戻し、苦い珈琲をすする。
 バイトするようになってようやく飲めるようになったブラックのブレンドコーヒー。その苦さで頭が冴えればいいのにな、と思いながら、やっぱわかんねぇや、と教科書を置く。
 数学のね、存在意味がわからん。
 りんごが一個と一個あれば二個。つまり算数。これはわかるよ、便利。
 百円のものを六個かったら六百円。これもわかるよ、掛け算便利。
 ケーキが六人分あって、食べる人が三人だったら、一人二切れも食べれる。割り算、これも便利。
 でもそれ以上っているかなぁ。だって日常的に使わなくない? やりたい人、必要な人だけやってればいいんじゃないの。そんなことを思いながらノートにペンを転がすと、向かい側から伸びた手がペンを握ってさらさらときれいな字を書いた。「…ん?」「ん。答え」わからないんだろ、とぼやいた相手に、ノートを逆さにしてみる。
 いや、そんなサラッと答えを書かれても、なぜこの答えになるのかすらオレには理解不能なのですが。
 そんな頭の悪さを露呈するわけにもいかず、とりあえず、その答えをそのまま書き写しておく。
 カフェラテを注文した相手は、鞄から教科書を引っぱり出した。こっちも勉強に来たらしい。オレと同じく家じゃ集中できない環境なのかもしれない。
 二人でしばらく、店内の落ち着いた音楽と、混み合う人が奏でる独特の音を聞きながら、一時間。「ぐへー」一応数学が終わったのでばったりとテーブルに突っ伏すと、ふ、と笑う気配。
 視線だけ投げるとイケメンがテーブルに頬杖をついてこっちを見ていた。イケメンがイケメンなことしてやがる。

「勉強、苦手なのか」
「そりゃあ……。これでも努力はしてるけどね」
「そうか」
「そういうそっちは」
「別に、好きでも嫌いでもない。やるべきことをやってるだけって感じだな」

 うわぁ、返しがなんか頭良い人のアレだ。
 顔も良いし頭も良いとか、神様、不平等すぎやしませんか。そんなことを思いながら追加でカフェモカを注文、気を利かせた後輩がすぐ淹れてくれたものに砂糖を落としてスプーンでかき混ぜる。疲れた脳には糖分がいるのです。
 甘い飲み物を口にして、ふぅ、と一息。片付いた数学のノートや教科書を鞄に詰め込み、次の教科を取り出すと、空になったカップを眺めてどうしようか悩んでいたんだろう紅白頭の相手が軽く目を見張ったのが見えた。「まだやるのか」「まだまだやります」「頭パンクするぞ」「習慣化してるからダイジョーブ」次は読むだけでいい教科にするし。
 オレが数学と悪戦苦闘してる間にとっくに予定の勉強を終わらせたらしい相手は、こちらも追加でアフォガートを注文。
 お上品なもの食うなぁと思いながらいくつかの教科書を斜め読みし、甘いカフェモカをすする。
 週の始まり、月曜日。オレにとってはバイトと学校の始まり、月曜日。

「今日も働くねぇ」
「はーい、いらっしゃいませ。いつものカルボナーラですか?」
「あと珈琲ね。健康的に、たまにはこのサラダでも頼もうかな」
「かしこまりました」

 常連さんの一人である独り身のサラリーマンをいつもの席に案内し、オーダーを厨房へ通す。
 うちは珈琲や紅茶を中心としたカフェだけど、半分レストランみたいなメニュー内容をしてて、パスタやサンドイッチといった軽食(パスタが軽食なのかは微妙だけど、作るのは楽)も提供してる。それで夜八時がラストオーダー、八時半に閉店だ。
 ラストオーダーぎりぎり、七時五十八分にカランカランとベルが鳴って、今からオーダーか〜とちょっと厨房を哀れみながら「いらっしゃいませ」と声掛けして、あれ、と思った。紅白頭のイケメン。この間相席になった奴では?

「まだあいてるか」
「当店、ラストオーダーが八時でございます」
「じゃあそれ。サンドイッチと珈琲でいい」

 ショーケースの中を指してスパッと注文内容を決めた相手が疲れたようにカウンターの席に座り込んだから、「ブレンドでいいですか」と確認。黙って頷かれたからそれでオーダーを通す。
 八時になったから、これで今から来るお客さんはもうお断りの時間だ。
 カウンター内に回って適当に掃除するフリをしながら、「どしたの」と声をかけると、ちら、と左右で色の違う瞳がオレを見上げた。「お前、いつもいるのか」「そうだね。平日はバイト、休日は勉強しに来てる。家にいたくなくて」「……そうか。俺は」相手は言い淀んだあとにはぁと息を吐き出して「クソ親父と言い合いになったから飛び出してきた」ボソッとした声に首を捻る。クソ親父。言うねぇ。
 ああ、そうか。だからほっぺ赤いのか。
 厨房の営業外用冷蔵庫(個人の飲み物とか食べ物とか入れておくやつ)から『』と名前の書いてある湿布薬の袋を引っぱり出して一枚取り出して持って行く。「はい」「……いらねぇ」「じゃあ勝手に貼りまーす」べりっとフィルムを剥がしてスパンとほっぺに貼り付けると痛いって顔をされた。なんだよ、ちゃんと痛いんじゃないか。
 それから調理が比較的簡単なサンドイッチとホットの珈琲を用意して持って行く。「砂糖とミルクは?」「…いる」「はい」言われるままにカウンターにミルクと砂糖を並べる。
 今日店内にいるのは、いつもの常連さんに、紅白髪のお前だけ。少し砕けてたって怒られやしない。
 カウンターの隣の席に腰かけて「そういや名前知らないや。オレ」名乗ると、もそもそサンドイッチを食べてる相手がちらりとこっちを見てくる。「……轟」「とどろき」名前までイケメンとは。神様、与えすぎでは?
 しかし、イケメンで頭が良い轟にも悩みはちゃんとあるようでよかった。オレと一緒、人間だ。

「まー、さ。ウチの親も顔合わせれば言い合いっつか、喧嘩っつか。だからオレも毎日ここでバイトして、家では風呂入って寝て、朝飯食って出てくだけ。休日はずっとここ。そういう生活してるんだ」
「ふぅん」
「あ、興味ない? やめる?」
「……続けていい」

 ずず、とミルクと砂糖入りの珈琲をすすった相手のぼそっとした声にひっそりと笑う。
 ラストオーダーの時間が終わると、うちは店内の音楽が切り替わる。帰ることを急かすわけじゃないけど、なんだか物悲しくなるような、そんな曲が流れるのだ。その曲につられたわけじゃないけど…。「正直な話をするとさ。今から気が重いよ」「何が」「進路とか、そーいうの」「ああ」「ウチは金ないし。バイトしてる分はオレの自由なお金だから、進学とかに使う気はないし。じゃあ高校卒業したらどうするんだーって、ね。そのうち親にも言われそうで」年季が入っているテーブルの古い傷を指でなぞる。

「個性は。仕事に結びつきそうにないのか」

 この個性時代、当たり前といえば当たり前の問いに、知らず苦く笑う。「見る?」「…?」首を捻った轟に、パチン、と指を鳴らす。
 空中から出てきたのは、なんかうにょ〜ってした、動物、を模したようにも見えるモノだ。「……なんだコレ」蛇っぽいソレをつまんだ轟が首を捻る。「ええと、一応食べ物みたいで。綿菓子、が近いかな」「へぇ……」しかし個性でできてる綿菓子なんて、理屈がよくわからないし、一体何から生成されてるのかわかったもんじゃない。ということで、お店では提供してないし、自分でだってよっぽど腹が減ってるときとかしか食べることはない。個性、ではあるけど、仕事とかで役立ちそうにはない個性なのである。
 そんなよくわからない代物を、轟はあぐっと口に入れた。「え」そのままあぐあぐと蛇っぽいものを口に押し込んでいく。
 頭が良いはずの轟の頭の悪い行動に驚くオレである。「え、いや、何食べて…」あ、と口を開けた轟の中には何もない。つまり本当に食べて飲んでしまったと。

「あれだ。駄菓子みたいな味がした。嫌いじゃない」

 ソウデスカ。
 いやそれにしても頭悪い行動するな轟。あれか、天然ってやつか。平気な顔で珈琲すすってるけど、体に悪いものだったらどうする気なんだ……。
 そこで、「青春だねぇ」と常連さんのにこにこした声が飛んできた。「いやいや」振り返って苦く笑って返し、お会計の伝票を持って立った姿にレジの方へ行く。「いつもありがとうございます」「こちらこそ。次の季節のメニュー、楽しみにしてるって、マスターに伝えておいて」「はい」ピッとかざすだけで会計ができるクレカ、いつかオレも持ちたいな。できる人間が持つモノって感じ。
 カランカラン、とベルを鳴らして出ていくスーツの姿を見送って、閉店五分前を示す時計を見上げる。

「轟、そろそろウチ閉めるから、全部食べちゃって」
「ん。なぁ」
「んー」

 いつもきれいに食べてくれる常連さんの食器を片付けながら生返事をすると、「俺はヒーローになるんだ」背中に轟の声がかかる。「へぇ。偉いじゃん」「いつか自分の事務所も持つ」「うんうん」「そしたら、お前、おやつ係な」「……ん?」食器を重ねて持ち上げた手が止まる。
 轟はお会計ちょうどの千百円をカウンターテーブルに置いて「そしたら仕事あるだろ。俺が欲しいときにさっきのおやつくれ」「え? えーっと」オレが返答に困っている間に「また来る」と言い残してカランカランと扉を押し開けて出て行ってしまった。
 とりあえず、ぴったりのお金はレジに収納。
 食器の回収を手伝いに出てきた厨房の人にはなんだかニヤついた顔をされた。「今のってナンパじゃねぇの?」「はぁ? いやいやまさか。なんでイケメンがオレをナンパするんですか、やめてくださいよ」笑って返してさっさと食器を下げ、用意されてるまかない(常連さんのカルボナーラを変化させたやつ)をあぐあぐ食べる。美味いんだなこれが。家の飯より美味い。
 腹が膨れたら、掃き掃除とモップがけ、テーブルと椅子とメニューのアルコール消毒、トイレの掃除。いつもの閉店作業をしていく。
 次の日から、轟焦凍はウチの常連客の一人になった。
 そして、三年後、プロヒーローになった轟、ショートから『俺のおやつ係』として正式雇用を言い渡されることになるわけだが。それはまた、別の機会にでも話すとしよう。