轟焦凍という人間とは、小学校高学年のときに同じクラスになり、『お互い毎日どこかしらが怪我だらけだ』という認識から始まった。
 轟が怪我をしている訳なんてのは聞くまでもなく想像できる。
 何せ、父親があのエンデヴァーだ。その息子で個性を二つ持つ轟にどういう重圧がかかっているか、それがどういう形で出てくるかなんて、毎日絶えない怪我を見ていればわかる。
 対して、俺が毎日怪我をしている理由はくだらないものだった。
 そう、ただの暴力。ただの虐待。ただの腹いせ。
 自分がクソ人間だから母さんに逃げられたっていうのに、それを全部俺のせいにして、毎日毎日酒を浴びるように飲み、酔った勢いで暴力を振るう。
 そんなクソみたいな親父だったが、酒が抜けると人が戻り、俺に怪我をさせたことを土下座してでも謝ってくる。すまない、許してくれと、見ているこっちが哀れになるくらいに床に額を擦りつけて許しを請う。
 それで結局、俺は父親を容認してしまう。
 酒さえ入らなければどこにでもいる普通のサラリーマンで、素行が悪いわけでもなく、人当たりが悪いわけでもない。
 それに、小学校高学年のガキが、養い人を失って生きていけるはずがない。俺には父親を『許す』以外の選択肢なんて存在するわけがなかった。
 毎日仕事から帰ってきては家でだけ飲むと決めている酒。それだけが悪魔の飲み薬で、毒で、俺にとっての嫌悪の対象だった。
 あれさえなければ母さんは出て行かなかったし、あれさえなければ、父は普通の人間だったのに。

「お前さ」

 ある日の体育のとき。ぼそっとした独り言のような声に視線を投げると、体育の待機時間、つまらないという顔でどこか遠くを見ている轟がいた。紅白色の髪が風に揺れている。「それ、なんなわけ」それ、と言って顎でしゃくって示されたのは腕にぐるぐる巻きにしている包帯のことを言ってるらしい。「ああ。ちょっと今朝、階段から滑り落ちちゃってさ」この手の言い訳は嘘八百、得意事だ。轟の乾いた瞳相手でも笑って言うことができる。

「ドジだろ。朝は弱くてさ、痛くてやんなっちゃうよ」

 本当は昨日の夜に酔った親父に思い切り体重をかけて踏み潰されて、もしかしたら折れているかもしれないなんてこと、口が裂けても言えない。
 轟は僅かに眉を顰めたあと、長袖のシャツをまくり上げた。そこには同じように包帯でぐるぐる巻きになった腕があった。「…そっちは?」訊かれたなら、訊き返すのが礼儀かと問うと、轟は口をへの字に曲げて嘲笑するような笑みを浮かべてみせる。「クソ親父にやられた。個性特訓っていう、体のいい名前の、ただの虐待だよ」虐待。そう言い切ってみせる轟に少し驚いて、それから視線を逸らして自分の傷に少しだけ指で触れてみる。クソみたいにいてぇ。
 轟は腕の傷を苛立ったように右の手で殴りつける。ただ痛いだけのことをする。「左を使え、左を使えって、テメェの炎で俺の腕を焼くんだ。火傷したくないなら温度を上げろ、耐えてみせろ、俺の最高傑作だろう…!」だん、と砂を踏みつけ蹴飛ばした轟の顔は昏く、泥みたいに粘着質で汚い、醜い感情に溢れていた。
 その顔を見ていると、まるで昨日の俺みたいだな、と思った。
 あいつが出て行ったのはお前ってお荷物がいるせいだ。本当は子供なんて作る予定じゃなかったんだ。家計が苦しいのだってお前のせいだ。お前なんて作るんじゃなかった。作るんじゃなかったよ!
 昨日の父親の言葉が頭の中をわんわんと吠え回る。

「殺してやりたいよな。そういうの」

 ぼそっとこぼした俺に、轟はふっと我に返ったように無表情に戻った。「無理だな。悔しいが実力はアレが上だ」「そっか。そうだな」何せ、エンデヴァーだもんな。ヒーローのナンバーツー。ガキがナイフ手に立ち向かってどうこうできる相手じゃないし、轟の個性の力でだってまだ無理だろう。
 じゃあ、俺はどうだろう。
 酒に酔って暴力を振るう父親。気が済んだあとはいつも気絶するように眠り、朝起きてきた俺に謝り倒し、シャワーを浴びて家を出ていく。そのルーティーンを思うなら、俺には、機会はある。
 台所にある包丁を思い出す。母が食材を切るために使っていた包丁。あれをよく研いで、研いで、尖らせて、人の肉を断てるくらいにすれば……。首にサクッと突き刺せるほどに尖らせれば。
 殺せば。俺はもうこんな痛い思いをせずにすむ。
 じっと包帯を巻いた自分の腕を見つめていると、視界に手のひらが割り込んできた。顔を上げれば轟がいる。俺がよっぽど思いつめていた顔をしていたのか、若干、心配そうにしている。気がする。

「やるなよ。さすがに」
「………約束は。できないかなぁ」

 一度思いついてしまったことを頭から振り払えない。
 もう痛いのは嫌だ。それが本音だったからだ。
 俺たちの泥みたいに汚くて見るも無残なぐちゃぐちゃした気持ちなんて欠片も知らない、気遣ってもくれない青い空を見上げ、ぐっと拳を握り締める。
 殺してしまえばいい。そのあとのことは、殺してから考えればいい。
 よくも、こんな不幸な環境に産み落としたなって、包丁を手にめった刺しにしてしまえばいいんだ。
 昏い思考に支配され始めた俺に、轟は考えるように顎に手を当てた。それから俺のことを見て「お前」「」「。今日の予定は」「放課後って意味なら、別にないよ」「じゃあちょっと付き合え」「…いいけど」そこで先生から呼び声がかかり、俺たちは散会した。
 で、放課後。俺はなぜか轟とホームセンターにいた。
 なんか買いたいもんでもあるのか、轟はカゴを手にすると迷いのない手つきで太めのロープを手に取って、長さを念入りに確かめ、二つをカゴに入れた。「そんなもんなんに使うんだ」「いいから」ロープと万能ばさみだけ買って会計する轟に首を捻りながらあとについていく。
 次に轟が向かったのは、新緑が眩しいと感じる公園だった。それなりにデカくて、昼間は老人や子供、家族連れ、恋人なんかで賑わうところだ。今の俺と轟の気分には全然見合ってない場所。

「なぁ、いい加減教えてくれよ。それで何しようってんだ。まさか首吊り?」

 笑った俺に、轟は何も言わない。ただざくざくと公園の道を歩いて、一昨日の雨でできたんだろう、まだある水溜まりをバシャッと遠慮なく踏みつけた。

は、まだ生きてたいか。この世界を」

 こっちを振り返った轟の瞳は乾ききっていて、感情なんてとうの昔に忘れたと、そう言いたげだった。
 俺も似たような死んだ目をしてるんだってことは毎朝鏡を見て知ってる。
 そう、俺たちは、似た者同士だ。
 緑が眩しい季節。花の咲く季節。肌触りのいい風の吹く季節。普通の人にとっては少しだけ汗ばんで、でも過ごしやすい、そういう春。
 だけど俺と轟には無味乾燥としたただの時間の流れの一部。春でも夏でも秋でも冬でも何も関係がない。俺も轟も、父親に痛めつけられるだけの人生を送り続けている。
 そんな人生を、まだ生きたいか、と。轟は俺にそう訊いてる。
 答えは考えるまでもなかった。

「いや」

 笑った俺に、轟は微かに唇を緩めて笑った。気がする。
 それからは二人で公園内を練り歩いて、ちょうどいい大きさの石、というか、岩、というかを探した。自分の両腕で抱えられそうなくらいの大きさが理想の岩はなかなか見つからなかったが、暮れていく陽はちょうどよく、人が少なくなっていく公園も都合がよかった。
 岩を抱えるのに包帯を巻いた腕は酷く痛んだが、これで最後だからと堪えた。
 公園の中央にある大きな池。そこの中心にある、公園内をぐるっと一望できるようになっている浮見堂の手すりから池を覗き込んでみると、一昨日の雨で水かさが増していて、深さがある。底は見えない。
 すっかり暮れた日と、鳴り響く携帯の音に、轟が舌打ちして電源を落とした。それをそのまま池へと放り込む。
 それから、二人でランドセルからノートを取り出し、そこに遺書を書いていく。
 遺書なんていうと聞こえはいいけど、ようするに、今まで我慢していたことを脈絡なく怒りと悲しみのままにぶちまける、という行為をする。

「ずっと、死にたいと思ってた」
「うん」
「こんなことが続くだけの人生なら、もう死んだ方が楽だって、ずっと思ってた」
「うん」
「苦しいのも、痛いのも、もうたくさんだ」
「うん」
「でも、一人は。独りは。いやだった」

 遺書を書いたあとは、二人でベンチに座り、ホームセンターで買ったロープを自分の足首にしっかりとくくりつける。決して外れないように。そして、その先に、公園内で苦労して探した岩をくくりつける。しっかりと、決して解けないよう、何重にも何重にも巻く。
 こつん、と肩に当たった感触に視線をずらすと、轟の紅白頭が見えた。それから、ぽた、と何か雫が落ちる音も。
 声もなく轟が泣いている。最期のこのときに。

「………ろくな人生じゃなかったな。お互い」

 ず、と洟をすする音に、轟の頭に額を擦りつける。
 俺たちはろくでもない親のもとに生まれた被害者だ。
 俺たちは何も悪くなかった。生まれたくて生まれてきたんじゃないし、この親がいいって選んでこの世に誕生したんじゃない。
 親は子供を作るかどうかを選べるし、産むかどうかも選べるけど、子供に選択肢はない。生まれる前に人生を拒否することも、親はこの人がいいと選ぶこともできない。
 俺たちはどうしようもなく被害者だ。

「だけど、もう終わりだから」
「…ん」
「これで、痛いのも苦しいのも、最後だ。そんでもって、独りじゃない。それはたぶん。幸福なことなんだと思う。俺にとっても、お前にとっても」

 ん、とぼやく声のあとに、太陽が沈んで暗くなってきた視界の中で、なんとなくお互い顔を見合わせ、本当になんとなく、キスをした。
 人の唇ってのはやわらかくて、ぬくい温度がした。
 岩を横に置いて轟の隣に立ち、足元からパキパキとせり上がる氷の土台に乗って、浮見堂の手すりの高さに到達。そのままパキパキと滑るように氷が伸びて、池で一番深そうだと思った場所の上へ。
 あとは、この氷の上から滑り落ちるだけでいい。

「……て」
「ん?」

 ぼそっとした声に首を捻ると、轟が俯いてこっちに手を差し出していた。握れ、と。
 仕方ないな、とその手を握る。最初はやんわり。でもすぐに縋るように強く握られて、最後には指を絡めてぎゅっとお互いに握り締め合った。
 死んでも、この指は解けませんように。
 そんなことを願って、轟が息を吸って、吐くと、バキン、と氷の土台が割れて崩れて落ちて、俺たちは二人一緒にドボンと音を立てて暗い公園の昏い池の中に沈んだ。
 岩という重しがあるから浮かない。ただただ、底へと、沈んでいく。
 息ができない。当然苦しい。だけどこれまで受けた痛みに比べれば、そうだな。まぁまぁ苦しいかも。
 でも、ぎゅっと握った指の感触がわかるから。まだ伝わってくるから。俺は独りではないから。
 ろくでもない人生だったけど。この最期に、独りきりでなかったことだけは、幸いだった。
 翌日の朝、公園にジョギングに訪れた男性により、池の浮見堂に放置された二つのランドセルと拙い遺書が発見される。
 通報を受けた警察が池を調査した結果、家出人として届け出が出ていた男子小学生二人の水死体が発見された。
 遺書の筆跡は間違いなく当人たちのものであり、死因は自殺、溺死であると断定。
 二人はお互いの手を硬く握り合ったまま、その死に顔は穏やかであったという…………。